太田述正コラム#4506(2011.1.18)
<ワシントン体制の崩壊(その5)>(2011.4.14公開)
 「日本の山東出兵を日英提携路線にそうものとして、イギリス政府はこれを歓迎するとともに、この機会に両国間の「協定」の可能性について、日本側にふたたび打診を試みることとなる。6月2日、松井(慶四郎)駐英大使と会談したチェンバレンは「両国の考えは今や同一軌道にそって展開している」と「田中外交」への親近の情をしめし、さらに、松井大使が日英同盟復活の声があるが、両国にとってアメリカの疑惑を強める方向での提携は賢明でなく、むしろ三国の提携こそが肝要であるとのべたのに対し、英外相は共感しながらも、このような日英接近からやがて「同盟の復活とまではゆかないにしろ何らかの正式の合意」が生まれる可能性があるとの期待をのべていた。・・・
 日本の山東出兵は華北情勢に鎮静化をもたらすであろうと、マクマリー米公使は、これを高く評価し<たし、>・・・ケロッグ国務長官も、・・・山東出兵については、アメリカ側として了解をあたえていたことを、後に語っている・・・。」(26)
→外務省の愚かな駐英大使が、田中義一内閣の意向に反する言動を行ったために、マクマレーが支那にいて英国的発想に立って米本国政府を懸命に説得し続けているという絶好の機会をとらえ、日本が英国の要請に応えて日英同盟を事実上復活をさせる、ということが実現できなかった、としか私には見えません。(太田)
 「田中首相はボリシェヴィズムへの脅威感をシベリア出兵いらいもっていたが、対ソ国交改善についても関心が深かった。・・・
 中国ナショナリズムの過激化の抑制を、ソヴィエトとの了解によって計りたいという考え方が、「田中外交」の一面にあった・・・と見てもおそらくは誤りではないであろう。」(28)
→田中義一の外交手腕には敬服するほかありません。
 繰り返しますが、彼は帝国陸軍出身です。(太田)
 「「田中外交」にとって、政治的提携の対象として最も重視されたのはイギリスである。・・・
 「対支政策要領」の基礎資料となった「対満蒙政策に関する意見」(27年6月1日関東軍司令部)はこうしるした。「支那本部におけるソヴィエト・ロシアの支那革命運動に対しては英国と協調してこれが排除に努め、要すれば支那穏健分子を支持す」。・・・日本は米・ソ・中の三国によって「包囲」されているとのイメージも陸軍内部にあり(29年9月25日、宇垣日記)、イギリスとの提携はこの「米中ソ包囲」への対工作として発想されるという心理的メカニズムも働いたであろう。・・・
 対英提携への積極論は、外務省内でも、芳沢公使、吉田(茂)奉天総領事、小幡(西吉)駐トルコ大使らによって支持されていた。・・・
 また政友会の実力者であり、外務政務次官をつとめていた森恪<(かく)(注22)>・・・<は>イギリス大使館員<に対し、幣原を批判した上で、>・・・日英両国の中国での利益は「純粋に経済的性質のものであり、それゆえ同一である」と・・・のべた・・・。」(30)
 (注22)1882~1932年。父は判事・大阪市議会議長を務めた人物だが、本人は中卒。父親の縁で三井物産上海支店勤務。「日露戦争では、東シナ海洋上を接近するバルチック艦隊の航跡をいち早く発見、打電して、日本海海戦の勝利に民間から貢献した。また、辛亥革命では孫文に対し革命資金の斡旋を行った」。その後、実業家として産をなし、更に衆院議員となる。1927年、異例にも当選2回で外務政務次官に抜擢され、首相の田中義一が外相を兼摂していたため、事実上の外相として辣腕を振るった。1931年12月に犬養内閣が発足すると内閣書記官長に就任。しかし、翌1932年の12月、50歳で急逝した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA
→当時の、帝国陸軍や、森恪に代表されるところの日本の世論のまともさがよく分かろうというものです。
 他方、外務省の吉田茂らが対英提携に積極的だったと言っても、それは必ずしも冷静に国際情勢を分析した結果ではなく、もっぱら、彼等が外務省内における英国事大主義者であったからにすぎません。そのため、ひとたび、その英国が反日へと変貌すると、彼等は、英国を批判するどころか、そんなことになったのは日本の世論や陸軍が支那で反英的言動を行ってきたからだ、と身内に矛先を向け、ことごとに陸軍の足を引っ張ることとなったのです。
 陸軍が熱望したところの、1940年における対英のみ開戦という最大のチャンスを日本が逃すこととなったのは、これらの、愚かな英国事大主義者達の暗躍のせいである、と申し上げておきましょう。(太田)
 「<他方、>すでに7月25日、アメリカは単独で、中国の関税自主権を承認する措置に踏みきって<いた。>・・・
 <そして、あろうことか、>イギリス<まで>も、この年の12月20日、英中間の新関税条約の締結にふみきり、中国の関税自主権承認を行ったのである。同時に国民政府の正式承認を行った。・・・
 日本外交の上には「孤立化」の暗影があらわれてくる。」(30、33))
→結局、「<10月>革命直後から、レーニン<は>しきりに・・・帝国主義諸国間の矛盾・対立の利用は、ソヴィエトの重要な外交戦術であ<ると>・・・説いていた」(7)ところ、支那において、日米英は、まさに、この赤露の戦術に乗ぜられ、日米英協調システムはついに崩壊してしまうわけです。
 その一番の責任は、そもそも赤露をほとんど脅威視しないまま、自らの覇権を追求した米国にあると言うべきですが、二番目に責任を負うべきは、英国から累次提起されたところの、日英同盟を事実上復活しようという要請に対し、米国のことを慮って、ついにそれに真正面から応えようとしなかった日本でしょう。
 そして、これについて、最も咎められるべきは、結果として赤露の戦術に乗ぜられたに等しい外務省であり、逆に最も評価されるべきは、そんな戦術など全く通用しなかった帝国陸軍であったところ、このパターンは日本帝国瓦解まで続いた、というのがここでの私の結論です。(太田)
(続く)