太田述正コラム#4510(2011.1.20)
<ワシントン体制の崩壊(その7)>(2011.4.16公開)
4 ジェームズ・B・クラウリー「日英協調への模索」(河合秀和訳)
 この論文についても、ロイド・ガードナー論文と全く同じことが言えます。
 ところで、この編著の編集方針が私には解せません。
 多くの筆者が同じ頃の話を記していること、にもかかわらず、同じ典拠を援用している例がほとんどないこと、がです。
 そうは言っても、既出のような話がくり返し出てくることは避けられません。
 そこは、ご理解いただくよう、お願いします。
 「1925年12月、・・・<駐日英大使サー・チャールズ・エリオットに対し、>畑(英太郎)<(注24)>中将が、日本の高級将校は一人残らず「日英同盟が日本の外交政策の基礎であった時代と同じように、イギリスとのもっとも親しくかつ暖い関係」を熱望していると述べて、軍事協力の可能性を切り出した・・・。畑の働きかけは、反共の張作霖を誉めたたえ、ソ連の影響を受けている馮玉祥を嘆く森恪、松岡洋右の騒がしい主張を背景にして発生していた。」(101)
 (注24)1872~1930年。「軍務局長を経て、陸軍中将に進級、陸軍次官、・・・第1師団長を歴任した。1929年7月、関東軍司令官となり、張作霖爆殺事件後において畑の手腕が期待されていた。しかし、翌年5月1日、陸軍大将に進級後、現役のまま旅順で死去した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E
→前(コラム#4502)に示した、「赤露/中国共産党」>「中国国民党/馮玉祥(国民軍)/郭松齢」>「呉佩孚(直隷派)/張作霖(奉天派)」>「段祺瑞(安徽派)/日英」、を思い出しましょう。(太田)
 「エリオット<は、>・・・日本の山東、北樺太、東部シベリアからの撤退に示される平和的態度を一身に体現していた・・・幣原<外交について、>・・・臆病<で>大国たらんとする野望を抱きながらそれらしく行動できないで<おり、その>「・・・外交政策<は>不誠実<だ>とは云わないが、一種の二重性と一貫性の欠如」が生じていた<と記している。>」(101)
→英国にかかると、幣原はボロクソですね。
 なお、厳密に言うと、シベリア撤兵は1922年10月、北樺太撤兵は1925年5月、山東撤兵については、「山東懸案解決に関する条約」に基づくものは1922年末、第一次山東出兵の撤兵は1927年、第二次・第三次出兵の撤兵は1929年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5
http://www.geocities.jp/showahistory/history08/taisho14.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E6%87%B8%E6%A1%88%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
ですが、幣原の外相時代は、1924~27年4月、1929~31年であるところ、彼が外相として手がけたと言えるのは北樺太撤兵だけです。
 (第一次山東出兵の撤兵は1927年9月
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1921-30/1927_daiichiji_santoushuppei.html
ですから、該当しません。)(太田)
 「1926年7月の国民党の<中国>統一運動の発足<の頃、英>外務事務次官サー・ウィリアム・ティレルはイギリス政策の歴史的原則–帝国の安全と、貿易、商業の促進–をあらためて述べていた。ティレルは、イギリス政府は世界のいたるところで平和と繁栄のために尽し、他方、ソ連は世界のいたるところで呵責ない反英宣伝によって無秩序を醸成していると仮定していた。極東における最善の対応策–「日英同盟の復活」–の可能性は、残念ながら日本における新しい反軍国主義的、民主主義的精神のために閉ざされていた。」(102)
→クラウリーはこの論文執筆当時、米エール大学教授ですから、やはり米国人であると思われますが、最後の「日本における新しい反軍国主義的、民主主義的精神のために閉ざされていた」は、米国人たるクラウリーの反日的/反英的偏見の現れでしょうね。(太田)
 「香港総督<のクレメンティ(コラム#4500)>は、幣原外交は国民党にたいする「ほとんど不合理なまでの忍耐」の外交であると解した。また中国の他のところでは、サー・C・クレメンティが日本人は内戦をかき立て、「白色人種、特にわが国の極東に於ける貿易と影響力」を堀り崩そうとしていると見ていた。」(103)
→この総督自身が、指導的英国人の中では、性根がねじ曲がっている人物である、と見ました。(太田)
 「任地を離れようとしていた北京のイギリス公使サー・R・マクリーは、日本とアメリカの同僚にたいして「非妥協的でソ連の息のかかった民族主義の洪水によって深刻な危険にさらされているわれわれの条約上の権利と既存の利益を守るための統一戦線」を結成するよう訴えた。」(104)
→対照的にまともな指導的英国人、ここにあり、という感じです。(太田)
 「チェンバレン・・・<英>外相は、・・・「アメリカ合衆国の政策(もしそれを政策と呼べるものならば!)は、われわれすべてを破滅させるであろう。それは率直でない。・・・ワシントンでは、他国の利益にたいする関心、特にわれわれとの関係を否認することである…それは利己心、不信、ひねくれの政策である」<と記した。>」(105)
→よくぞ言ったと拍手したい気持ちです。(太田)
 「<1925年の上海事件に際して、>幣原は、イギリスからの出兵要請を拒絶するに当って、陸相宇垣と北京駐在公使芳沢<謙吉(注25)>の勧告を却下していた。それは勇敢な政策決定であった。チェンバレンは1万6000に及ばないイギリス人を保護すべく行動していたが、20万以上の上海在住日本人にたいする幣原の怠慢なる姿勢は、日本陸軍と田中男爵の率いる野党政友会の中の衝動的に武力を振りかざしたいと願っている人々の感情をかき立てた。」(107)
 (注25)1874~1965年。1923~29年に駐中公使、その後駐仏大使を経て1932年に外相就任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%BE%A4%E8%AC%99%E5%90%89
→「衝動的に武力を振りかざしたいと願っている人々」というくだりも、クラウリーの反日的/反英的な偏見の現れでしょう。
 なお、私は芳沢謙吉を英国事大主義者と見た(コラム#4506)わけですが、戦後公職追放になっている(ウィキペディア上掲)ことから、判断を留保しておきたいと思います。(太田)
 「<1927年の>南京事件をめぐ<って>・・・チェンバレンは、把えがたい協力者日本を求めて、「破壊と排外的宣伝・煽動の共産主義的体制の勝利を食い止めるため」の協力を要請した。<英駐北京公使のサー・マイルズ・>ランプソンは、北京の各公使館にたいする直接の脅威をでっち上げ、日本にいくらかの兵力を北京に派遣するよう要請した。幣原<は>拒絶<した。>」(109)
 「幣原外相は、国内の囂々たる非難の只中にあって彼の和解的外交のスタイルを維持した。日本国内の騒ぎは、漢口事件、南京事件によって、また国民党はソ連の手先、代理人であるとする想定によってかき立てられた憤激と不安によっっていた。」(110~111)
 「田中男爵は、彼の政友会少数内閣を形成するに当って、中国で幣原男爵とは大いに異なる道を歩むことを約束した。政友会は、男子普通選挙制下の最初の総選挙を田中の対中国積極外交でもって戦うという選挙戦略をたてた。他方でイギリスは、南京事件にたいする報復のために田中の協力を求めようとした。」(111)
→繰り返しになりますが、幣原は、世論/帝国陸軍、そして英国の意向に真っ向から逆らう外交に固執した、ということであり、その代価が余りにも高くついたことを我々は知っています。(太田)
(続く)