太田述正コラム#4576(2011.2.22)
<日英同盟をめぐって(続)(その16)>(2011.5.15公開)
13 波多野澄雄 「対英戦争と「独立工作」–シンガポールからインパールへ」
 「1940年7月の蘭印を目標とする南進政策<が>決定<されたが、>・・・陸軍の<かねてよりの>主張は極東の英領を攻略したとしても、アメリカが参戦することは避けられるという「英米可分論」<であったが、これに対し、海軍は>まず<米領>フィリピンを攻略<せよ>と主張し<てい> た。・・・結局・・・41年11月5日に天皇の裁可を得た「南方作戦陸海軍中央協定」では、比島および英領マレーに対して同時に急襲作戦を実行 し、左右二方向から南下して蘭領東印度(蘭印)にいたるという作戦が採択された。」(230)
→毎度のことですが、これについても、陸軍の主張の方に理があったと私は言わざるをえません。(太田)
 「<1942年、>政治外交面でも、インド独立を支援するための対独提案がいくつかなされている。例えば、・・・インド独立に関する共同声明 案、アラビアの独立を喚起する枢軸共同声明案などがそれである。しかし、ドイツ側の反応は積極的なものとはいえなかった。ことに、対英妥協の可能 性を探っていたヒトラーにとってはこの種の共同行動はそれを封ずることになり、また辞任種的な観点からも受け入れることはできなかった。開戦以 来、ドイツが日本に求めていたものはインド洋や中東での共同行動ではなく一貫して対ソ攻撃にあった。」(235)
→日独が敵の敵同士以上の関係ではなかったことがはっきり分かります。
 これは、チャンドラ・ボースは、ナチスドイツとは敵の敵関係であったけれど、日本とは友であった、という私の主張を裏付けるものでもあります。(太田)
14 フィリップ・シャーリエ「日本海軍の戦術と技術に対する英海軍の評価–1941~1945年」
 「英海軍の将校たちは極東の戦争に関する最近の戦記物のように、<神風>特攻を「野蛮な民族」の戦術と捉えていなかった。45年3月15日付の 作戦研究課の報告は、「レーダーの警戒や戦闘機の護衛を惑わすため、敵の戦術は接近方法の点で高い協調性が保たれている」と記していた。また特攻 は通常の攻撃より10倍の効果を上げていると報告している。」(258~259)
→特攻攻撃を極めて合理的なものであったとする私の指摘(コラム#64、345、1539、1739、2409)を裏付けるものです。(太田)
 「英国海軍は今世紀最初の数十年、主に日本海軍の”人”(彼らの長所と短所、訓練状況、および近代海戦に対する練度)に焦点を絞っていたが、第 二次世界大戦中は組織としての装備や戦術をより重視するようになった。また、この変化は誤解に満ちた人種的先入観や、日本人の国民性を愚かに単純 化することなど、戦間期に英海軍の日本海軍への客観的な評価を阻んだ要因をも一掃させたようである。」(260)
→英海軍は、その人種差別的偏見を拭い去るのが遅すぎたと言わざるをえますまい。(太田)
15 ジェイン・フラワー「捕虜情報と英国の対応–その認識と対応」
 良い意味でも悪い意味でも全く引用するに値する箇所を発見できなかった、珍しい論考です。
16 喜多義人「日本軍の国際法認識と捕虜の取扱い」
 「<日本は>開戦後、直ちに俘虜情報局を設置し、「俘虜は博愛の心を以て之を取扱ひ決して侮辱虐待を加ふべからず」(第2条)と規定した俘虜取扱規則をはじめ、・・・国際法に準拠した国内法を制定した。陸軍大臣・・・等も折に触れ、捕虜を公正に取扱うようにとの訓示を行っている。たとえば、1942年6月23日、東條英機陸相は新任の捕虜収容所長に対する訓示の中で、「俘虜の処理に方りては固より諸条規に遵由し之か適正を期し公正なる帝国の態度を如実に中外に顕揚せざるべからず」と述べている。
 第二次世界大戦中、日本軍は16万7930人の欧米人捕虜・衛生部員を捕獲し、内地および外地の17の捕虜収容所に収容したが、3万8135人 が病気その他の理由で死亡した。極東国際軍事裁判(以下「東京裁判」)の判決によると、米軍と英軍だけで13万2134人が捕虜となり、このうち3万5756人が死亡したとされている。独伊に捕獲された米英捕虜の死亡率が4%だったことを考えると、死亡率27%は異常に高いと言わざるを得 ない。捕虜に関する法制度は整備されており、また軍首脳部も国際法を無視する意図がなかったとすれば、このような高い死亡率や戦犯裁判にあらわれた捕虜の非人道的な取扱いは、なぜ起きたのであろう
か。」(277)
 「秦郁彦教授は、日清戦争以降の帰還日本人捕虜に対する軍当局の処分と、一般市民の彼らに対する態度を実証的に検討して、『戦陣訓』に象徴される日本人独特の捕虜観は、まず個人レベルで倫理規範として成立し、徐々に軍という組織体の規範に広がり、最終的には社会的規範として全成員を拘束するに至ったと結論づけている。捕虜を忌避する風潮があらわれるのは、日本がはじめて大量の捕虜を出した日露戦争後であった。軍当局は「俘虜帰還 者取扱規則」に基づき、帰還捕虜2083人を俘虜審問会議にかけたが、そこで問題とされたのは捕虜になったという事実より、「いかにして捕虜に なったか、尽くすべきを尽くしたか」ということであった。処分は将校に対して厳しかったが、軍法会議にかけられた者ははいなかった。状況によっては、金鵄勲章を授与された者さえいた。
 軍当局は、帰還捕虜に対して比較的寛大な処分を行ったが、捕虜を忌避する風潮はむしろ一般市民の間から生じてきた。彼らが原隊に復帰し、あるいは故郷に帰っても、その多くは周囲の冷たい目に晒された。勲章を授与された捕虜が郷里で「村八分」にされたり、子供がいじめられることもあった。 そのため、郷里を捨て、大都市や海外へ移住する者も少なくなかった。帰国を欲せず、満州各地に隠れ住んだ捕虜もあった。所属部隊に復帰した帰還捕虜に、下級者が敬礼しないという事態も起きた。このような捕虜忌避思想の形成には、武士道が重要な役割を果たしていたということができる。武士道 <は、>・・・次第に国民全体に溶け込み、その道徳的基準を供給したが、「名誉」が過度に重視された結果、捕虜となることはもっとも不名誉で、そ れよりは死を選ぶとの観念が生ま
れたのである。さらに、武家倫理・武士道論をまとめた『葉隠』の、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。…若し図にはづれて生きたならば、腰ぬけなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり」との一 節も、日本人の死生観に大きな影響を与えた。「非降伏主義」ともいうべき捕虜忌避思想が、軍人のみならず、一般市民にも浸透していくことは、精強な軍隊を作り、物的資源の劣勢を精神力で補う上で好ましいことであった。そこで、軍当局は、この風潮に追随していったと考えられる。」(278~279)
→ここで紹介されている秦郁彦理論は興味深いものがあります。
 戦前の日本軍の捕虜観は下克上的に形成されたというのです。
 しかし、私の仮説はいささか異なります。
 そもそも、上記くだりを読めば、この捕虜観の形成には上位下達的側面もあったことは明らかです。
 明治維新は、弥生人的な武士が縄文人的な庶民をなだめすかして日本全体を弥生化しようとした営みであり、それが最も困難であったのが欧米的軍事機構の確立でした。
 戦争が嫌いで戦闘を回避する庶民からなる徴兵はそのままでは弱卒ですが、それを何とか強兵に仕立て上げなければならない。
 そこで、武士の後進たる将校と庶民たる下士官・兵双方の阿吽の呼吸で生成されて行ったのが、捕虜忌避思想であったのではないか、というのが私の仮説なのです。
 この仮説のミソは、このように戦前の日本軍独特の捕虜忌避思想を理解すれば、後述するような戦前の日本軍独特の、下士官・兵における私的制裁の横行についても同じ観点から理解することができる点にあります。(太田)
(続く)