太田述正コラム#0012
  アルゼンチンの苦境と日本の閉塞状況 
 
 アルゼンチンが国家破産状況にあります。アルゼンチンが天文学的な対外債務を負っているということから、国債「超大国」日本もアルゼンチンのようになるかもしれないという軽いノリの議論がなされることがあります。
 しかし、私に言わせれば、日本の状況は深刻であり、アルゼンチンの苦境のよってきたるところの真の理解なくして、日本の将来はないということに思い至るべきなのです。

 英国のファイナンシャルタイムズ紙に15日付で掲載されたジョン・ケイ氏の論説は、米国やオーストラリアとアルゼンチンやチリの違いを生み出したものは何かについて論じています。それは、欧州からの移住者への農地の分配を国家権力がやったのか、農地開拓者たる移住者自らがかちとったのかの違いだというのです。
 彼に言わせれば、とりわけアルゼンチンとオーストラリアはうり二つだったといいます。どちらも先住民が殆どおらず、従ってヨーロッパからの移住者の人種的文化的純粋性が保たれました。しかも、祖父母の時代においては、英国人はアルゼンチンもオーストラリアも区別なく、盛んに両国の国債を買い、優良企業の株を買っていたといいます。このような当時の覇権国たる英国による積極的投資や、冷凍船の登場(生肉を西欧等に運べるようになった)もあり、100年前から戦前にかけて、アルゼンチンの一人あたり所得は当時の西欧諸国のそれに肩を並べ、アルゼンチンは繁栄を謳歌していました。
 ところが、現在ではアルゼンチンの一人あたり所得は西欧諸国の四分の一から五分の一に落ち込んでしまっています。
 これは、(オーストラリアや米国とは異なり、チリ等と同様、)国家権力が金持ちや有力者を優先して農地を分配したため、都市に住む不在大地主が農地の大部分を所有するところとなったところ、彼らは(現場をよく知らず、しかもハングリー精神がなかったため、)経営意欲と能力が不十分で、長期的には農業・牧畜業の衰退、ひいてはビジネス精神の衰退をアルゼンチンにもたらしたからだというのです。また、アルゼンチンの国内政治は、大土地所有者等の特権階級と無産大衆の間の権力闘争によって不安定となり、このことも長期的に経済に悪影響を及ぼしたというわけです。
 (http://news.ft.com/ft/gx.cgi/ftc?pagename=View&c=Article&cid=FT3FO981IWC&live=true&useoverridetemplate=FTD1OUN2DNC&tagid=IXLMNCG9UCC&SectionTag=na/column&PageTag=2cojoka&imgID=FTD47HOBONC 。但し、冷凍船の話は、「田中宇の国際ニュース解説 2002年1月14日 http://tanakanews.com/」による。)

 ひるがえって日本です。以上ご紹介したアルゼンチン衰退の原因は、一言で言えば、「客観的ルールによらない国家権力の裁量的介入による民間活力の衰退」です。そうだとすれば、これは日本の現在の閉塞状況のよってきたる原因そのものだと言うべきでしょう。
 構造改革とは、この状況の根底からの打破をめざすものでなければ意味はありません。
 「客観的ルールによらない国家権力の裁量的介入」の仲介業を政治と混同した自民党的「斡旋利得」政治からの決別が緊急課題であるゆえんです。
 その自民党的政治には、暴力団の影がちらついているというのが英米の常識です。最近の例で言えば、英国のガーディアン紙が11日付で、日本の不良債権問題がいつまでたっても解決しないのは暴力団が関与しており、その暴力団と自民党が癒着しているからだと書いています(http://www.guardian.co.uk/japan/story/0,7369,631015,00.html)し、日本経済新聞も13日付朝刊で、クリントン政権が作成した「ジャパン・ペーパー」なる文書を引用しつつ、同様の趣旨の編集委員田村秀男氏の論説を掲げているところです。
 「客観的ルール」がない社会とは不透明な社会であり、このように暴力団等闇の勢力の跳梁を許す社会でもあります。こんな対外障壁のあるぶっそうな日本に、外国からまともな資本や人が流入して来るわけはありません。日本は、OECD加盟国の中で、資本や人の面でいまだに鎖国状況にあると言ってもよい、他に例を見ない異常な国です。(その日本は、同時に米国の「保護国」であるという意味でも異常な国であることは、私のかねてよりの指摘です。ちなみに、米国の「保護国」であることと、「客観的ルール」のない社会であることとは、コインの両面の関係にあると私は考えています。)

 繰り返しになりますが、構造改革とは、このような状況の根底からの打破をめざすものでなければならず、そのためには、何よりもまず、国民一人一人が自らの中の「斡旋利得」志向、「長いものにまかれろ」志向を断罪しなければならないと私は思うのです。

 追記:第10回のコラムで、印パの分離・独立が1949年としたのは、1947年の誤記です。