太田述正コラム#4588(2011.2.28)
<スムート・ホーリー法(その2)>(2011.5.21公開)
 (3)とはいえ悪評には理由がある
 「とはいえ、<スムート・ホーリー法の与えた>損害は<やはり>大きなものだった。
 世界輸入に占める米国のシェアは甚だしく減少し、世界中で報復関税や反米的逆流が引きおこされた。
 カナダの親米政権は倒れ、キューバでは革命が起こり、欧州諸国は戦債を返済するために必要なドル不足に陥った。
 恐らく最も良くなかったのは、スムート・ホーリー法が、米国での立法が日常的に腐敗していることをさらけ出したことだ。」(A)
 「そもそもこの法は全く不要なものだった。
 この法が導入された時、失業率は低く、輸入品が米国に溢れていたということも全くなかった。
 米下院はこの法案を1929年5月に採択した・・・が、それは景気循環の頂点及び株式市場倒壊<(1929年10月
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%A1%97%E5%A4%A7%E6%9A%B4%E8%90%BD_(1929%E5%B9%B4)
)>の相当前だった。・・・
 この関税<措置>は、もともと米国の農民達を助けるために提案されたものだ。
 第一次世界大戦のブームの時期の高価格を享受した後、農民達は、長い<価格>下降期を経験していた。
 <その結果>農地価格の低下<がもたらされたが、それ>は甚だしい金融的逼迫と担保付債券の債務不履行をもたらした。
 米議会の最初の反応は、農家の収入を増加させるための農業価格支持措置を採択することだった。
 しかし、カルヴィン・クーリッジ(Calvin Coolidge)大統領はこの法案を二度拒否権を行使し<て葬り去っ>た。
 そこで、農民達を助けるために何かをやっているように見せるために、議会は、より高い輸入関税をかけようとした。
 問題は、大部分の農民達、とりわけ小麦と綿花を栽培している農民達は、自分達の作物を輸出しており、<米国の市場ではなく、>世界市場が彼らが受けとる価格を決定していたことだ。
 彼らが直面していたところの、取るに足らない分量の輸入品により高い関税をかけたところで、彼らにとって何の足しにもならなかった。・・・
 更に悪いことに、議会はこの新しい関税<の対象>を農産品に限定しなかった。
 <議員の間で>政治的助け合いのための談合がなされた結果、ありとあらゆる輸入品により高い関税がかけられることになってしまったのだ。・・・
 しかし、国内的諸利害関係者を満足させようと議員達が努力した際、彼らは一つのことを忘れていた。
 国際的反応とそれが米国の輸出に及ぼす影響を・・。
 米国の貿易相手国は、世界一金持ちの国が、自分達が債務を返済したり第一次世界大戦の賠償金の支払いを行ったりするために必要なドルを稼ぐ能力を妨げるようなことをやったことに憤った。
 そこで、これら諸国は反撃に出た。
 <例えば、>米国の最大の輸出市場であったカナダは、米国の諸財に対して差別的関税をかけ、要はその市場を米国の競争相手たる英国に譲り渡してしまった。・・・」(B)
3 金本位制の機能障害
 「大恐慌期における貿易政策の決定的瞬間は、1930年6月にハーバート・フーバー大統領がこの出来悪の関税法に署名した時にではなく、1931年9月にいくつかの国が金本位制から離脱し、その他諸国が同制度から離脱しなかった時に訪れた。
 この<2陣営への>乖離が貿易戦争の引き金となった。
 金本位制を維持した諸国が、自国通貨の下落を容認した諸国からの輸入を制限し始めたのだ。・・・
 ・・・1930年代を通じて、各国は、<金本位制から離脱した国は>金融緩和政策<、金本位制を堅持した国は>保護貿易主義、をそれぞれ代役的に用いた。
 金本位制を堅持した諸国の方は、金融引き締め政策をとることを強いられた。
 というのは、これら諸国は、世界経済を覆ったところの、デフレ圧力に抗するために紙幣を印刷することができなかったため、関税率を引き上げ、輸入割当制をとり、かつ輸入制限をするための為替統制を行ったからだ。
 しかし、これらの輸入障壁は、これら諸国の経済を急発進させることに完全に失敗した。
 その結果、これら諸国は長期に亘る不況に苦しんだ。
 対照的に、金本位制から離脱し、その通貨が下落することを認めた方の諸国は、保護主義的な貿易諸措置に訴える必要がなかった。
 これら諸国は、壊滅的損害を与えるところの価格デフレを終わらせ、経済成長を再び実現するために金融政策を用いた。
 しかも、貿易制限とは違って、通貨下落は近隣窮乏化政策ではなかった。
 というのは、<これら諸国の>金融緩和基調が、実際には近隣諸国を助けたからだ。
 つまり、<金本位制から離脱したところの>下落した通貨の諸国による輸入は、金パリティ<(金本位制)>を維持した諸国の輸入よりもはるかに速く増加したからだ。・・・」(B)
→この中には米国という言葉が全く出てきませんが、この(フリードマンが指摘した)金本位制の機能障害に関しても、米国の責任が最も重いのです。
 立命館大学の松川周二は、次のように記しています。
 「33年に大統領に就任したルーズベルトは,国際収支の悪化や金準備の激減という理由からではなく(実際,国際収支は黒字で金準備も十分な量を維持していた),<金本位制からの離脱に伴う>ポンド・レートの切下げ<(下落)>への対抗と国内の景気回復策として,金価格の引上げ(ドルの切下げ)政策を取り,このため<に>ドルの対ポンド・対フラン・レートは大幅に低下した。そして34年1月に「金準備法」を制定,連邦準備銀行は,1オンス=35ドルで,金本位国の中央銀行にかぎり,無制限に金を買上げることを決定し,これは第2次大戦後のIMF=ブレトンウッズ体制の一つの基礎となった。その後,米国も為替安定基金を創設したが,ドルの切下げはすぐに,カナダ,アルゼンティン,ブラジル,メキシコなどが追随し,南北アメリカ諸国がドル圏を形成する。
 <この>米国の金価格引上げ政策は高関税政策とともに失敗であったと批判された。すなわちそれは,物価の引上げにも景気回復にも効果がなく,国際収支黒字下のドル切下げゆえに隣人窮乏化効果(周辺諸国に及ぼすデフレ効果)を諸外国に及ぼして,世界経済のブロック化・世界貿易の縮小・不況の深刻化の要因となったと批判されたのである。
 <なお、>1931年9月の英国の金本位制離脱後もフランスを中心にスイス・オランダ・イタリアなどは金本位制を維持しつづけ,33年7月には金ブロックを正式に発足した。しかし金ブロックは長続きせず,35年にはベルギー,オランダ・スイスが通貨危機に見舞われる。次いで中心国のフランスも打撃を受け,金ブロック国は金流出を抑えるために,高金利・緊縮財政というデフレ政策をとらざるをえなくなり,不況の深刻化という多大な代価を支払うことになる。」
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/56t03.pdf 
3 終わりに
 要するに、高関税政策(スムート・ホーリー法)、金価格引き上げ政策、そしてここでは説明がなされなかったところの、米連邦準備制度理事会による不適切な金融政策、の3点セットによって、米大恐慌の発生及びその世界への普及、並びに世界の経済ブロック化がもたらされ、世界情勢は著しく不安定化するに至った、ということです。
 「第一次世界大戦中に債務国から債権国に転換した」(D)潜在的な世界覇権国たる米国政府が、その自覚を持つどころか、議会、行政府、そして連邦準備制度理事会(中央銀行)が、それぞれ中心になって、まるで12歳の少年であるかのような、利己主義的にして無思慮・無分別な「政策」をやらかしたために、米国の原罪とも言うべき人種主義的帝国主義とも相俟って、回避可能であった第二次世界大戦を引きおこしてしまった、と言ってよいでしょう。
(完)