太田述正コラム#4604(2011.3.8)
<ニッシュ抄(その1)>(2011.5.29公開)
1 始めに
 XXXXさんから届いたニッシュの著作からのコピー、まだ山のように残っていますが、その中から落ち穂拾い的に興味ある箇所を紹介させていただきたいと思います。
 まずは、関静雄訳『戦間期の日本外交–パリ講和会議から大東亜会議まで–』(ミネルヴァ書房 2004年)(原著は、Ian Nish ‘Japanese Foreign Policy in the Interwar Period’ Praeger 2002)
2 抄
 「原内閣の外相は、経験豊富な生え抜きの外務官僚である内田康哉であったが、・・・重要な外交政策は、<外務省出身の>原首相自身が指導した。彼の日記を読んでみると、彼は持ち時間の少なくとも半分は外交問題に費やしていたと思われる。」(23)
→ニッシュは、下掲から、国防問題や(租借地や利権があり日本人が数多く在留する)支那問題は外交問題とは別扱いにしているようであるところ、それらも勘案すれば、原首相の時間の大部分は外交・安全保障問題に費やされていた、ということになりそうです。
 しかし、これは原に限らず、戦前の日本の首相は、いや、そもそも各国の首脳たるもの、みんなそうなのであって、戦後の日本(属国!)の首相が例外なのである、と考えるべきでしょう。(太田)
 「寺内内閣のとき、外交関係の諮問機関として・・・主要閣僚、枢密顧問官、政党党首から構成された・・・臨時外交調査会<(注1)>が設置され、原内閣もこれを受け継いだ。・・・外交政策決定過程における迅速な行動ということからすれば、調査会は苛立たしいものであり、邪魔な存在でさえあったが、いくつかの重要な目的に役立った。つまり、調査会は、外交問題に関する長期的な考察を官僚だけに任せておくということがないようにするのに一役買っただけでなく、国防問題と中国問題への対応法において総意を形成する上でも、役に立ったのである。臨時外交調査会は、1922年の9月に廃されるまで、その役割を果たし続けた。」(23~24)
 (注1)「1917年に第2次大隈内閣に替わって寺内<正毅>内閣が成立した。寺内内閣は所謂「超然内閣」の形式で発足し<たため、政党の中には>・・・対決姿勢を示した<ものもあった>。
 ・・・寺内・・・は枢密顧問官伊東巳代治や内務大臣後藤新平の建策を受けて、折りしも第1次世界大戦が起きている事を理由に国論を統一して外交を政争の外に置く事を大義名分とした天皇直属の外交調査会設置を行い、各党党首をそこに取り込むとともにその政治基盤である帝国議会・政党から切り離す事を検討した。一方、同じく枢密顧問官である三浦梧楼も寺内とは別個に、陸軍を背景に政治力を行使する元老山縣有朋に対する反感から山縣と陸軍に対抗するために外交問題を扱う天皇直属の機関に各党党首を入れて、これを梃入れとして政党勢力を利用して山縣の権威の根源である軍部が持つ統帥権を制約しようと画策していた。この三浦の案を打ち明けられた政友会総裁原敬や国民党総務委員犬養毅も同意の姿勢を示した。
 こうした複雑な思惑の絡み合いを抱えながら、1916年6月5日に臨時外交調査会が宮中に設置されたのである。この時定められた「臨時外交調査会官制」によれば、「天皇に直属して時局に関する重要の案件を考査審議する」機関と位置づけられ、総裁を内閣総理大臣(寺内正毅)、委員は国務大臣・国務大臣経験者(前官礼遇者及び一般の経験者)・親任官のうちから選出・任命すること、幹事には外務省高等官及び陸軍・海軍将校を充てる事になっていた。これに基づいて寺内総裁の他、本野一郎(外務大臣)・後藤新平(内務大臣)・加藤友三郎(海軍大臣)・大島健一(陸軍大臣)の4閣僚、牧野伸顕・伊東巳代治・平田東助の3枢密顧問官、そして元内務大臣原敬と元文部大臣犬養毅の2人の計9名の委員、鈴木貫太郎海軍次官(中将)・山田隆一陸軍次官(中将)・幣原喜重郎外務次官・児玉秀雄内閣書記官長(内閣代表)の4名が幹事に任命された。
 原と犬養は明らかに政党の党首としての委員任命であったが、帝国憲法上の制度ではない政党党首の資格で委員に任命された場合の憲法上の問題があり、あくまでも元国務大臣としての委員任命とされた。また、会議の内容は・・・委員による口外を禁じられた事から、政党側に対して政府の外交政策に反対させないための「人質」的な意味合いも有した。なお、憲政会の総裁である加藤高明元外務大臣に対しても委員就任要請が行われたが、官制に(従来(即ち前内閣)の外交政策を)「匡正釐革」するの一句があるのを見た加藤は大隈前内閣の外務大臣であった自分への当てつけと考え、内閣(外務省を含む)以外に外交を扱う組織<を>作る事は外交大権・行政権の両面から違憲性があると主張して就任を拒絶、また軍部も天皇直属の組織とした事で天皇を利用して統帥権を制約しようとするものであると警戒感を強めた。また、世論・マスコミも憲法上問題のある組織を立ち上げて超然内閣である寺内内閣延命を助けるものであると反発した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%99%82%E5%A4%96%E4%BA%A4%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E4%BC%9A
→外交調査会が臨時的なものとして終わったことは残念です。国家安全保障会議的なものへと発展させて恒常化して欲しかったと痛切に思います。
 同調査会への招聘を拒んだ加藤に対しては、この点に関してはXをつけざるをえません。(太田)
 「<第一次世界大戦後のパリ(ヴェルサイユ)会議において、>日本は、・・・人種差別撤廃に関する文言を連盟規約の前文に挿入するように強く要求した。・・・この問題に関する最新研究の発表者の一人は、次のような見方をしている。
 「[これは]基本的には防御的な発案であった。というのは、日本は大国中唯一の非白人国であったので、日本政府は、圧倒的にヨーロッパ色の強い国際連盟の中で差別されるのではないか、と感じていたからである。当時にあって「人種的平等」というのは、明らかに実態にそぐわない誤った表現であった。というのは、日本人が求めていたのは名誉白人の地位であり、それ以上のものではなかったからである」」(29~30)
→この箇所よりかなり後の方でニッシュは日本人の論文を典拠としてあげていますが、この「」内がその人の論文からの引用かどうか判然としません。
 この冷笑的な見解に同調するニッシュには強い反発を覚えます。(太田)
 「近衛文麿・・・は会議を傍聴し、・・・国際連盟は英米勢力を強化する道具だと非難し・・・、講和条約は英米が強制した平和[英米本意の平和]となろうと<主張した。>・・・<しかし、>イギリスの立場からすれば、パリ会議の前にも最中にも、英米の協力、あるいは共謀があったという証拠はあまりなかった。会議で英米両国が協力したという考えは、裏づけなきこじつけである。」(31)
→この箇所について、ニッシュは細谷千博を典拠としてあげていますが、その通りであると思います(コラム#4276)。(太田)
 「日本はパリでその目標のすべての達成に失敗し<たが、その>・・・原因は党派的・・・<かつ非>国際・・・<的な>な通信社の存在・・・に帰しうる、というのが一致した見方となった。二年にも及ぶ審議の末ようやく、・・外務省内に情報部を設置することが決まった。情報部は、1921年8月13日に正式に発足し・・・た。情報部は、広報活動、国内向け及び国外向け宣伝、省間調整など多くの目的を有していた。・・・<しかし、>陸軍・・・は・・・外務省が自分たちのスポークスマンになることを欲してはいなかった。」(36) 
 「情報部の役目の一つは、中国など外国とのいわゆる宣伝戦用の資料を提供することであった。同部はそのような資料のためにかなりの資金を投入し、・・・逆情報を広める術に長けていた。」(9)
→ヴェルサイユ会議で日本は全面的に失敗したとか、それが日本の通信社のせいだとか、当時の関係者達がそう認識したことが事実であったとしても、ニッシュは、どうして彼らがそのような認識を持ったのか、説明すべきでした。
 また、ニッシュは外務省情報部の設置を評価しているようですが、そうだとすれば、戦前の外務省を美化しているところの『吉田茂の自問』(コラム#4368)のどこかにその話が出てきても不思議はありませんが、全く登場しなかったところを見ると、やはり、余り役に立たなかったということでしょう。
 なお、私は情報部を設置する必要がなかったと言っているのではなく、設置するのであれば、内閣に設置すべきであったと思うのです。(太田)
 「シベリア出兵は、当時の日本が海外で犯した数少ない失態の一つであったけれども、重要な意味をもつ一幕であった。というのは、この体験が日本人の考えに傷跡を残すことになったからである。この心的傷痕は、殊に陸軍の対ソ強迫観念という形をとって、この後20年にわたってはっきりと示されることになる。」(34)
 「日本は、ソ連領沿海州から共産主義が浸透、拡散してくる、と考えた。これに加えて、1930年代にソ連軍の兵力が極東に集中されると、この極東軍の存在は、ほとんどの日本人にとって、より一層大きな不安の種となった。」(4)
→ここもニッシュの冷笑的態度が大変気になった箇所です。
 第二次世界大戦末期になってようやく、「対ソ強迫観念」を再び抱くに至った英国、そして「対ソ脅迫観念」を初めて抱いた米国、の両国に比べて、いかに日本が当初から、しかも一貫してまともであったかに、ニッシュは敬意を表してしかるべきではありませんか。(太田)
(続く)