太田述正コラム#4689(2011.4.16)
<再び日本の戦間期について(その5)>(2011.7.7公開)
 「<1938年2月頃の>吉田<茂駐英>大使<の見解は>「現在のチェンバレン首相の周囲は、すべてできるだけ早く日支間の紛争を解決し終熄に導きたいと考へてをつて、いかなることでも日本の政府が頼んで来たら、喜んで努力したい気持がある」とい<うものだった。>」(25)
→1939年に海相、1940年に首相に就任するチャーチル
http://en.wikipedia.org/wiki/Winston_Churchill
については、当時は単なる一議員であったことからさておき、1935年12月から1938年2月まで外相を務めていて、1940年から復帰するところの、反日的なイーデン
http://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Eden
については、吉田のこの言はあてはまりません(コラム#4584)。
 なお、吉田の同期で彼の後任の駐英大使として1939年にロンドンに赴任した重光葵
http://contra99.ojiji.net/
は、吉田に優るとも劣らぬ英国事大主義者であって、このような吉田の英国政府観を、反日的なチャーチル政権下においても抱き続けるという無能極まる人物であった(コラム#4348、4350、4366、4376、4378)のですから目もあてられません。(太田)
 「1940年・・・「陸軍案」(7.3)は、「好機を捕足し」、南方へ軍事進出する方針を打ち出し、「対英一戦の決意」のもとに、香港及びマレー半島への攻撃に乗りだす意図をしめしていた。と同時に戦争は「英国のみに之を制限」する必要をうたい、それは「英米可分」とする陸軍側の戦略的判断に裏づけられていた。
 <この>「陸軍案」の提示をうけ<た>海軍側・・・の判断は、戦略的に「英米不可分」にもとづくものであったといってよい。すなわち、日本による香港、マレー半島攻撃はアメリカの対英武力援助を誘発し、結局イギリス一国との限定戦争は不可能というものであった。
 重光葵駐英大使は、東京への報告(8.5)で、「英米の政策は共同(joint)政策にあらすして平行(parallel)政策なるも右平行政策も今日迄の所必すしも目的及運用に付完全に一致し居らす」との、英米関係についての判断をしめしていた。・・・
 松岡洋右外相は、・・・日独伊三国同盟の締結(9.27)を推進<し、この>三国同盟という強大な力の結束の誇示により、武力南進の場合、アメリカの軍事介入を抑止しようと<した。>・・・
 この1940年の夏、日本は遂に対英攻撃に乗りだすにはいたらなかったが、その理由としては第一にドイツ軍の英本土上陸作戦の実施といった「好機」が出現するにいたらなかった点があり、第二に右にみたような「英米一体性」のイメージをめぐり、政府・軍部の内容が分裂した点を指摘することができよう。」(29~30)
→つまり、陸軍は英米可分、海軍は英米不可分、外務省はその中間、という判断であったわけですが、それは、英米理解の的確度が陸軍(通)、外務省(半可通)、海軍(無知)の順であったこと、従って、対英のみ開戦を提唱した帝国陸軍が正しかったということを我々は知っています。しかしこの陸軍の提唱はつぶされ、その結果、ご承知のように、日本は千載一遇のチャンスを逸することになるのです。
 結局、日本は、漸進的南進策をとることになります。
 忘れてはならないのは、すべては対赤露安全保障のためであったということです。
 そのためには、支那を親日の形で安定化させなければならない。
 そのためには、英国の中国国民党政権支援を止めさせるとともに、マレーや蘭印の石油等の戦略資源を日本が必要なだけ輸入できるようにしなければならない、というわけです。(太田)
 「日本が独伊と軍事同盟を結び、さらにその直前北部仏印への進駐に踏みきり、武力南進の方針の実行に乗りだしたことで、日英の敵対関係は新しい段階に入り、イギリスは従来の対日宥和政策を一擲する。まず、ビルマ・ルートの閉鎖についての取極(3ヶ月有効)を更新する意向のないことを日本政府に通告(40.10.8)、ついで対華1千万ポンドの借款を発表(12.10)、中国との間で中国兵のビルマへの進駐、そして英軍軍事顧問団の重慶派遣といった具合に、<中国国民党政府との>軍事提携の強化を露骨にはかってゆく。一方、イギリス極東軍の統一総司令部の設置を決め(40.11.18)、ブルック・ポハム(Sir Robert Brooke-Popham)空軍元帥を初代の総司令官に任命する。
 このような日英関係の対立先鋭化の中で、1941年の1月から3月にかけて、日英間の武力衝突の切迫を観測する≪極東危機≫説が、イギリスのマス・コミュニケーションを中心に大々的に流布されたのである。・・・
 <それは以下のような経過をたどった。すなわち、>陸軍・・・は、北部仏印駐屯の交代兵力の重複による増強<し>、また海軍・・・は、艦艇と航空機を海南島方面に集結させて「顕示行動」[S作戦]を行・・・った。この作戦の一環として、巡洋艦と駆逐艦それぞれ1隻がサイゴンに(41.1.28)、また駆逐艦1隻がバンコクに入港した(2.1)。
 ・・・事態の動きを注視したイギリス側では、日本は南部仏印、タイからさらにマレー半島、あるいは蘭印に対して武力行動をとるのではないかとの危機感を強めたのである。クレーギー英大使が、本国に「日本に於ては極東の危局か茲2、3週間中に発生せんとの一般的感想あり」と報告し、これをうけたイーデン外相が重光大使に「右は如何なる事を意味するや」との申入れを行ったのも、このような事態の展開を背景としていた。・・・
 1月下旬、ワシントンでは米英の参謀本部の高級レベル会議が開かれ、イギリス側は太平洋・アジア地域での統一指揮の必要を強調するが、これはアメリカ側によって拒否される。アジア情勢の認識をしめす英側の覚書(2.11)は、仏印とタイからのマレーへの、日本軍の地上および空中からの攻撃がさし迫っていることを指摘して、「米英軍事協力」の必要性を説き、外交チャネルを介して、蘭印あるいは極東の英領植民地へのいかなる攻撃も日本を即刻戦争にまきこむ旨の「英米共同宣言」を発するよう、米側に提案する。これに対するアメリカ側の回答は、日本が仏印とタイを占領しても、アメリカの参戦は考えられず、また日本がマレー、ボルネオ、蘭印に対し行動をおこしても、アメリカの武力介入は極めて疑わしいことを示唆していた。
 英米間の軍事協力の実態は右のごとき内容のものであったとしても、この両国統帥部のワシントン会談、<またこれと平行して行われたところの、>シンガポールでの一連の英・蘭・豪の軍事会談、また英華間の軍事提携の動きは、「ABCD包囲陣」が鞏固になりつつあるとの日本側のイメージを補強するのに十分な情報であり、「英米不可分」的な見方の強化に働いた・・・
 <結局、日本は、>南部仏印での基地獲得、日・タイ軍事同盟<を断念し、漸進的>南進論は<一旦>押えられた形となる。・・・
 それはひとつには、・・・海軍首脳部が一致して、仏印への武力行使に消極的になったためである。
 もうひとつは、松岡外相が<再び>この時期の武力南進の動きに強く反対したためである。・・・<彼は、>英米の分離を可能とするには前提条件<として>・・・ソビエトとの間で不可侵あるいは中立協定を結ぶこと<で>・・・アメリカの軍事介入<を抑止する必要があると考え、>彼の訪欧<・訪ソ>(3.12出発)という外交布石が先着であり、その結果を見てからでも、武力南進の強行は遅くはないというのが、<そ>の基本的構想であった・・・。
 <このような背景の下で>イギリス系の新聞が大々的に・・・≪極東危機≫説・・・<を>報道した<わけだが、それ>は、一面において英政府による情報操作といった性格も濃厚である。その目的は≪危機≫の警鐘を打ち鳴らすことで、アメリカ側の関心をこの地域に惹きつけるとともに、英米軍事協力の促進をはかるといった点におかれていたと見られる。それとともに「英米一体化」や「ABCD陣営」の連係強化のイメージによって、日本の武力南進の動きを牽制する効果を狙ったものであろう。その点は松岡外相も察知し、クレーギー大使に≪極東危機≫説の「謀略的動機」を指摘する(2.15)。
 <このイギリスによる>≪極東危機≫説の情報操作は、一定の牽制効果をおさめたといえそうである。日本軍の南部仏印進駐が実行に移されるのは、この年の7月下旬であり、その間約5ヶ月の時間をイギリス側は稼いだことになる。この間に国際情勢は大きく変化している。この41年の2、3月のころ、日本が南部仏印進駐を敢行した場合、アメリカは直ちに対日石油の全面的禁輸という対抗手段をとりえただろうかという歴史上の「イフ」の疑問も生まれてくる。」(30~32)
→ここに描かれているのは、(日本政府部内で、本来国際情勢分析に最も長けていてしかるべき)外務省が抱き続けた英米提携、ひいては日米戦争勃発、という悪夢が、英国による謀略とも相俟って、トリックスター的外相と言うべき松岡をして、三国同盟や日ソ中立条約の締結という、日本にとって役に立たないだけでなく、むしろ日本のお荷物となった政策追求に走らせ、その結果、むしろ、かかる悪夢を現実化させてしまった、というお粗末極まる物語です。
 なお、細谷の分析には隔靴掻痒の感があります。
 英国の謀略は、一方で日本を挑発していたわけですから、英米一体化イメージを振りまいたことは、日本による英領植民地攻撃を抑止することなどを目的とするものではなかったからです。
 この謀略は、日英関係のみならず日米関係をも悪化させることによって、日本による英国の植民地「及び」米国(ないしその植民地)を攻撃させ、それを受けて日米戦争を勃発させ、ひいては米国に対独戦争に参加させるのが狙いであり、英国は見事にそれに成功した、という踏み込んだ分析を彼は行うべきでした。(太田)
(続く)