太田述正コラム#4717(2011.4.30)
<英国人の日本観の変遷(その1)>(2011.7.21公開)
1 始めに
 少し前、(コラム#4702で)予告したところに従い、XXXXさん提供の、細谷千博 イアン・ニッシュ監修 都築忠七 ゴードン・ダニエルズ 草光俊雄編『日英交流史 1600~2000 5 社会・文化』(2001年8月)の抜粋から適宜ご紹介する形で英国人の日本観の変遷について考えてみたいと思います。
2 ゴードン・ダニエルズ「エリート、政府、そして市民–英国から見た日本」
 「『タイムズ』記者アレグザンダー・ノックス<が>・・・1852年10月の『エディンバラ・レビュー』に寄稿した「日本」と題する重要な評論のなかでノックスは、・・・「アジア人のなかで日本人は最高に位置する。インドの部族も、おびただしい数の中国の人間の群も、名誉をおもんずる日本人としばらくでも覇を競うことなど出来るだろうか…日本人と比較できる国民や種族を歴史のなかにみつけることはできない。・・・」と述べている。・・・
 エルジン伯爵<による1958年の>英日<修好通商>条約<(コラム#4560)>・・・締結・・・に随行した旗艦「フューリアス」の艦長シェラード・オズボーン<は>『ブラックウッド・エデインバラ・マガジン』に一連の記事を発表した<が、>・・・「古代ギリシャが何をしたにせよ、現代ギリシャが決して明示しえない高い次元の文明、活力ならびに富の兆候を日本は示している」<と記している。>・・・
 <また、>エルジンの書記・・・<のローレンス・>オリファント・・・<は、>「日本の諸都市の行政の全組織はまったく完全なものにみえる」と書いている。特別な熱意をもって日本の教育制度を賛美しながら、「この点ではどう見ても…彼らは決定的にわれわれの先を越している」と。」(2~4)
→日本人の人間主義を素直に評価すればこうなるわけです。(太田)
 「<しかし、その後、>外国人排斥の暴力が英国の外交官や商人にとって深刻な脅威となった。その結果、・・・1862年に出版されたラザフォード・オールコックの『大君の都』<において、彼は、>「清潔な農村」に感心したが、政治的な殺人行為や外国人に対するサムライの襲撃(ローレンス・オリファントも負傷した)をみて、彼は日本を封建社会とみなすようになった。・・・原始的暴力と自然災害の国として日本をえがくオールコックの描写は、現代日本をえがくのちの英国の記述にもういちど現れる。
 オールコック・・・の日本語の知識には欠陥があり、不十分だった。これと対照的に元外交官アルガノン・ミットフォードは、その研ぎすまされた言語上の能力から日本に対し深い共感と洗練された理解をいだくようになった。・・・1869年『コーンヒル・マガジン』に一文を寄稿したが、そのなかでミットフォードはサムライを、オールコックの著作にでてくるような恐ろしい剣士としてでなく、英国の貴族に似た紳士として描いた。それだけでなく、目撃証人としてミットフォードがのこした割腹自殺の記述は、その暴力的側面や非人間性よりも、その場の「極度にはりつめた厳粛さと細部にわたる儀式作法」を強調している。」(4~5)
→日米、日英修好通商条約の締結は孝明天皇の勅許がないままになされたものであった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
上、関税自主権を放棄した不平等条約であった日米、日英修好通商条約の締結による「開港後、金銀の流出、生糸と茶を中心とした輸出、綿織物・毛織物をはじめとした輸入等により、国内経済秩序は大変動に陥り、物資の不足とこれに伴う商人の買占等で物価の高騰をもたらした」
http://www.bakusin.com/kisor1.html
のであり、(安全保障感覚があり武力行使志向の弥生モード人たる)武士達の中から、幕府の重臣のほか、欧米人を襲撃する者が輩出したのは(手段は責められるべきですが)当然です。
 オルコックは、そんな武士の行動を原始的暴力と見たというのですから、呆れます。
 幸いなことに、彼のような出来の悪い英国人は例外に属していたようです。(太田)
 「<1876年には、>急進派の代議士サー・チャールズ・ディルク<が、>しばらく日本を訪れたあと、言葉の特技はなかったが、・・・次のように述べた。「世界の歴史のなかで何が奇妙であるにせよ、この政府の気質の極端な民主主義とミカドに体現される盲目的な伝統との結合ほど奇妙なものはあり得ないし、いままでもなかった」。」(5)
→ディルクの民主主義的日本評は秀逸ですが、自国(英国)が日本と極めて似通っていることまでは、彼は気づいていなかったのでしょうか。(太田)
 「1880年代には日本の風景、工芸、デザインを賛美する英国人の日本訪問がさらに増えた。だが、1894年までに日本の経済的・軍事的発展の成功に刺激されて英国の日本解釈に大きな変化がみられた。1887年と92年にカーゾン卿が東京を訪れ、94年には政治外交分析の主要著作『極東の諸問題』を発表した。・・・1895年の中国にたいする日本の勝利のあと、彼はこの本の初版に若干の修正を行ったが、・・・日本の将来について次のように書いている。「聡明かつ企業精神の旺盛な国民にめぐまれただけでなく、十分な富をもち、…日本の商業的拡大を、一定の地域に限定しなければならない限界などほとんどないのだ」と。
 ・・・カーゾンは注意深く、ときの日本の支配者の「穏健な自制」と「リベラルな心情」をまず称揚し、ついで「北からやってくるロシア人を寄せつけないことに日本同様関心をもつ中国と友好的な相互理解」をもつことの必要を彼らに説いた。」(8~9)
→日本の対外政策を素直に評価すれば、それが対ロシア安全保障を最重視したものであることが、このように分かるはずなのです。(太田)
 「1905年帝政ロシアにたいする日本の勝利によって・・・日本が・・・英国の内政改革・・・の物差しになるかもしれないという考え方<が出てきた。>。・・・典型的だったのはアルフレッド・ステッド<(注1)>の『大日本、国民的能率の研究』<(1906年)>である。・・・
 ・・・彼はいう。
 ・・・日本人は市民としての権利や利益とおなじく愛国心からくる義務を十分に承知している。個人の利益はいつも国民のそれに道を譲る。…共通の思考と無名の自己犠牲が力を作り出す、というのであれば、日本が世界で成功した秘密はそのあたりにあるといえよう。
 ・・・ステッドは日本を西洋にたいする汎アジア主義運動の指導者としてよりも「国際主義の先覚者」とみなしている。この見方によれば日本は洗練された戦争や開かれた貿易で勝利をおさめただけでなく、日本の「国際的道徳」は「ヨーロッパのそれよりずっと高度のもの」であった。ステッドの究極の理想は「米、英、日が国際正義と道徳の保護者として結束する…新しい三国同盟」だった。」(10~11)
 (注1)Alfred Stead(1877~1933年)(18)。アイルランド/ギリシャ系英国人のラフカディオ・ハーンを先駆けとして、日露戦争頃から第一次世界大戦の頃まで、ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)、H・G・ウェルズ(Wells)、そしてステッドといった英国人親日家が輩出した。
 米国の場合は、かかる親日家は、1960年代のピーター・ドラッカーを先駆けとし、1980年代に輩出し、現在に至っているところ、英国に比べると大幅に遅れたわけだが、日本のアニメの影響もあり、親日家の輩出は現在も続いている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Japanophile
 米国の場合、日本が戦後同国の属国になったという要因も考慮すべきだろう。
→ステッドは、日本の対外政策もまた、人間主義的に推進されている、ということを正しくも見抜いていた、ということです。(太田)
 「1936年2月26日の未遂に終わった軍事クーデターはみな、内在的に暴力的で、異様で、不安定な社会という日本観を復活させた。とにかく1930年代初期および中期の諸事件は、明治維新の前と後、1860年代と70年代のサムライ暴力への復帰を暗示するものだった。」(14)
→日本が当時直面していた未曾有の安全保障上の危機の下、しかも、日本が縄文モードに回帰しつつあった中、「(安全保障感覚があり武力行使志向の弥生モード人たる)武士達」の後裔の中から、日本政府の重鎮達を襲撃する者が出てきた、ということであり、これまた(手段は責められるべきものの)当然のことでしたが、この頃の英国はおかしくなりつつあったため、オールコック当時のミットフォードにあたるような知日派はほとんどいなくなってしまっていた、ということでしょう。(太田)
(続く)