太田述正コラム#4732(2011.5.7)
<戦間期の日英経済関係史(その2)>(2011.7.28公開)
 なお、日本の外務省の公電が、第一次大戦が終わったころからずっと英国側につつぬけの状態であったというのはひどい話ですが、英国の外務省も、当時の日本の外務省が、既に日本の対外政策の中心的担い手としての能力と意欲を失ってしまっていたことが分かっておらず、バカ正直に公電の内容を信じ、重視していたらしいことにも呆れてしまいます。(太田)
 「一方、チェンバレンが英国内部での反対意見を抑え得たとしても、彼が東アジアで達成しようとしていたことが日本の利益と両立しなかった点にも注意する必要がある。・・・
 35年になると大蔵省も中国問題に取り組む必要性を認め、中国市場を日英両国で共同利用する計画を立てた。<そして、>35年8月、英国政府の首席経済顧問サー・フレデリック・リース=ロス<(コラム#4685、4687、4693、4699))>の東アジア派遣が実現し、中国による「満州国」商人の見返りに日英が対中共同借款を行うという、日中英間の協定交渉が試みられたのである。・・・
 しかし、・・・<こ>の計画の鍵となる要素が、中国での英国の貿易・金融上の権益拡大の基礎をすえようとする意図にあったことを、理解する必要がある。この政策は日本外務省のなかで作られていた政策とは完全に矛盾していた。日本側は中国での日英共同支配体制の樹立などは全く考えていなかったのである。おまけに、金融面をとってみれば、英国が中国の幣制改革を援助する目的が中国通貨のスターリング<(ポンド)>へのリンクにあることは明確だったが、これもこの地域での円ブロック建設をもくろんでいた日本の野心とは対立するものであった。・・・満州国承認問題<での英国の譲歩>は、日本自身がしたくない譲歩を<英国に>するか否かにかかっていたので・・・日本が・・・リース=ロスの提案を拒絶した<のは当たり前だった。>・・・
 中国での日本の支配的位置を英国が認めないとしたら、拡張の場を求める日本の主張をどこかの地域で実現させるために、何らかの救済策をとらねばならなかった。つまるところそれは、英帝国内での日本の貿易制限の緩和を意味した。・・・37年の春には、親日的演説を行うとは思われない人物である外相アンソニー・イーデンが、日本が「満州国と中国とで特恵地域」を求めているからといって日本製品の英帝国への流入を妨げるのは、ほとんど意味のないことだ、と論じた。しかし、・・・36年8月、貿易の自由化を求める国際連盟覚書を読んだチェンバレンは、「英植民地への英国の輸出をこれ以上日本に譲ってやるつもりなどない」とはっきり言い切っている。
 さらに1937年5月に通商政策検討のための省間委員会が、安全保障上の日本の脅威を軽減するためランカシャーが犠牲を払うべきであると示唆した時、内閣の対外政策委員会は、国内でやっかいな事態をもたらすとの理由でその方針を拒んだ。」((38~40)
→ベストは、「<日英間の>戦争への道は、台頭しつつある国と衰退しつつある国との間の利害対立–この場合、世界恐慌の恐ろしい結果によって増幅されていた–という古くからある現実政治上の話にすぎなかったといえる」(51)と振り返っていますが、その「衰退しつつある国」であった英国の指導層が、日本が「市場のための帝国ではなく国家の経済安全保障のための帝国建設を欲していた」(52)どころか、対赤露安全保障のための手段としての経済安全保障を追求していたに他ならない、ということを失念したか知らないふりをしていた点にこそ、最大のボタンのかけ違いがあったのです。
 いや、そもそも、ベストのように当時の状況をとらえるのであれば、英国が「台頭しつつある」最大の潜在敵「国」である米国と戦争への道をたどらなかったことがどうしてか説明できません。
 相対的衰退に伴い、英国の指導層の中にも米国のそれと類似した人種主義に毒された者が出現するに至っていたこととも相まって、当時の英国人の大部分が日本を矮小視し、日本の経済力と軍事力の台頭の程度を見くびっていて、英国が日本と戦争になったとしても鎧袖一触である、と思い込んでいた、ということでしょう。
 その典型がチャーチルやイーデンであったわけです。
 なお、日英戦争を含む先の大戦の結果、英国が、日本によってもたらされたところの大英帝国の過早な崩壊、及び、名実ともに新たな世界覇権国となった米国による、(日本を肩代わりした形での)対赤露安全保障を念頭に置いたところの、自由貿易の促進を目的としたGATT体制の発足によって「英植民地への英国の輸出を・・・日本に譲」ることになったことを我々は知っています。
 この点でも日本は先の大戦の目的を達したことになるのです。(太田)
 「1937年7月の日中戦争勃発によって、・・・新聞の多くも–『ザ・タイムズ』もそのなかに含まれていたことは重要である–反日姿勢をとり、大衆集会がいくつも開かれて日本の侵略非難を行った。・・・とりわけ、日本による上海、南京、広東の空襲は、それが同じ年の直前に起こったドイツ空軍によるスペインのゲルニカ破壊をすぐ想起させただけに、英国世論の日本批判をあおった。
 ・・・37年8月と9月には、スタンホープ卿、デラウェア卿、ハリファックス卿などの多くの大臣がイーデン外相に書簡を送り、日本の行動への怒りをあらわにした。ハリファックスは、日本軍による爆撃は「道義にとっても文明にとっても、われわれが目にしたことのない最悪の行為と思われる」と、その憤激を表現したが、これは、彼がしばらく後にイーデンの後任外相となったために、また日本側が彼を日本シンパとみなすのがふつうだったために、とくに重要である。」(41~42)
→その英国が、自ら、日本によるそれと質量とも比較にならないくらいの戦略爆撃をドイツの諸都市に対して行い、また、英国の同盟国たる米国が、同じく、いや、原爆投下も交えつつ一層甚だしく日本の諸都市に対して行うこととなったことからすれば、日支戦争勃発時における英国朝野の日本に対する怒りは、一体何だったのか、ということになります。(太田)
 「<しかし、>英国政府<は、>・・・自国が対日強硬姿勢をとる場合には米国が何もしないという可能性に直面し<ており、>・・・大蔵省と英国の駐日大使サー・ロバート・クレイギーは、英国は中立姿勢を厳密に守るべきであると主張した。この議論の核心は、日本の勝利が不可避であるとの信念であり、蒋介石支援を行ったりすれば英国が中国から駆逐される危険をおかすことになる反面、中立を守っておけば中国再建に英国の企業が加われる可能性がある、との予測であった。さらにクレイギーは、駐日軍事アタッシェのピゴットの影響のもと、英国との協力態勢をもつ穏健派がまだ日本政府内に存在し、英国が日本に対する妥協的政策を強めて対立姿勢を弱めれば、穏健派の勢力が増すことになる、とまで論じたのである。・・・
 <そんなところへ、38年>10月末にロンドンに・・・重光葵・・・<新>駐英大使・・が到着した。・・・だれとの会談に際しても、重光は、「中国での日本の独自の位置」を承認するという考えに相手の関心を導こうと努めたが、それには決まって反対意見が戻ってきた。
 ・・・英国世論の大勢に真っ向から対立するようなこの政策が受け入れられるかもしれないと、なぜ彼が想像したか・・・。重光は、保守党内に親日的グループが存在することをまだ信じており、英国で表明されていた反日感情は、国際連盟や中国、米国、さらにはソ連にさえ共感を寄せる少数派–チャーチルやイーデンも含まれる–の声高な主張の結果にすぎない、と考えていたのである。・・・
 <この>重光の誤った<認識>のもとをただせば、・・・日本大使館がアーサー・エドワーズに頼っていた点に行き着くと、考えることもできよう。エドワーズは英国の政治的流れのなかではまぎれもなく右派に属し、・・・英国における反日的感情の根深さを一貫して否認していた。たとえば、・・・38年1月にエドワーズは天羽に対して、・・・『ザ・タイムズ』紙の日本への厳しい批判は英国の世論を示すものではなく、同紙がアメリカ人であるアスタ-家に所有されているがための批判にすぎない、と説明している。後に重光は回想録のなかで、この考えをそのまま繰り返しているのである。これは、クレイギーにピゴットが影響を及ぼした関係に類似し、ピゴットが日本の世論を歪曲して伝えたように、エドワーズが英国世論の真の姿をねじまげて語った可能性が強い。」(43~45)
→このベストの総括は誤っています。
 まず指摘したいのは、クレイギーが耳を傾けた「同国人」たるピゴットは、基本的に親日的であった当時の英陸軍の総意を踏まえつつ、当時の日本の世論を最も熟知していた帝国陸軍との交流を通じて得られた認識を伝達していたのに対し、重光(や天羽)が耳を傾けた「異国人」たるエドワーズは、その経歴から一種の日本の買弁的な人物でなかったとすれば、スパイであった可能性が高く、日本人に耳触りの良い認識をあえて吹き込んでいた、と思われることです。
 つまり、ピゴットとエドワーズを同列視し、彼らにそれぞれ耳を傾けたクレイギーと重光に一様に批判を投げかけるのは不当なのです。
 そして、これに関連して指摘したいのは、当時の日本の世論には、対赤露安全保障を日本の対外政策の基軸とする、という点で帝国陸軍を中心としたコンセンサスが成立していたことをピゴットやクレイギーが理解していなかったとは考えられないのに対し、エドワーズが重光らに吹き込んだ、当時の英国の指導層にまだ親日派がいる、という認識は明白な誤りであったことです。
 結局、帰するところは、任地先の情勢についての当時の英国と日本の外交官の把握能力の著しい違いです。
 既に我々は、当時の米国の外交官の任地先情勢把握能力も著しく低かったことを知っています。
 ということは、これは、当時の列強の中で、英国の外交官(駐在武官を含む)の能力が、例外的にいかに傑出していたかを示すものです。
 しかし、いかに外交官の能力が高くても、その国の最高指導層が無能であれば、どうしようもありません。
 無能を絵にかいたようなチャーチルが首相に就任したことが、大英帝国、ひいては日本帝国の運命を決したわけです。(太田)
 
(続く)