太田述正コラム#4752(2011.5.17)
<戦前の英国の知日派(その3)>(2011.8.7公開)
 「1930年代になると、英国世論は日本の満州や中国への軍事行動に敵意を感じていたので、日本協会会員の親日的感情は、英国の一般感覚から外れ、もはや相容れないものになっていた。・・・そして、F・S・G・ピゴット准将(後の少将)を代表とする会員の一部が、協会としてもっと政治的に親日的傾向を打ち出すよう働きかけても、受け入れられることはなかった。・・・
 <それでも、>満州問題が二回の講演で主題となった。まず、1933年1月19日に、シンクレア・スモールウッド中佐が、「満州・希望の地」と題して講演した。ピゴット准将は、「満州の地が開発されていくすばらしい様子」について発言し、さらに、「満州が日本にとっていかなる意味を持つかを理解しなくてはならない。そのためには、戦没者をまつる東京九段の坂の上の靖国神社でとり行われる慰霊祭のことを念頭におくといい。ちょうど、我が国の<第一次世界大戦>休戦記念日(11月11日)によく似ている」と発言した。また、もう一つ、「リットン調査団の報告を再考して」という表題の論文が、1933年3月23日の協会の例会で発表された。作家であるE・M・ガルは、調査団の報告の勧告に批判的<な>意見を述べた。・・・
 会員の中には、この講演は政治的色彩が強いので、『紀要』に残すべきではないと感じた者もいたが、彼らの意見は理事会での多数決により否決された。」(58~60)
 「日本の庭園に関する著書があるバジル・テイラー夫人<の提案にもとづき、>1933年5月・・・理事長のチャールズ・セイルが・・・日本大使・・・を訪問し<て>・・・日本協会の理事会および会員一同の気持ちを<記した>・・・手紙を・・・示した・・・。そこには、「(日本協会は)国際連盟が日本に対して示した不当な差別に対し抗議する」という理事会の意見が記されている。そして、「日本協会としては、日本が満州国において、横行する掠奪を抑え、法と秩序を確立するために採った方法の成功を、心から喜んでおり、日本代表の松岡洋右が、ジュネーヴの先頃の会議において、平和と人道の見地から示した態度に、尊敬と称賛を感じている」とある。
 1933年3月14日に、国際連盟日本代表の松岡洋右・・・のために催された午餐会の席上、セイルは・・・乾杯の音頭をと<った際、>日本が「略奪の横行する無政府状態を鎮静し、適切な税制と健全な流通通貨と優れた行政の力によって、法と秩序を確立した」ことによって満州国にもたらされた「恵み」について熱っぽく語った。・・・」(61~62)
→日本協会のメンバー達の親日的熱気を感じますが、ピゴットの説明は、現役軍人としての掣肘下のものであった点を割り引かなくてはなりませんが、やはり、日本人の考えの祖述にとどまっており、むしろ誤解を呼ぶものになってしまっています。
 なお、スモールウッド中佐も間違いなく英陸軍軍人でしょうね。
 いずれにせよ、当時の日本人の抱いていた満州観がよく分かります。(太田)
 「1932年2月11日、・・・尾崎行雄が「日本の立憲政治」と題して講演を行った。・・・
 1898年に大隈侯爵によって初めて組織された政党内閣以後、現れて消えた20の内閣を調べてみますと、総選挙の結果による<とはっきり言える>ものは・・・ただ一回だけ<です。>・・・答えは簡単です。与党が常に多数を確保できるからであります。なぜ、投票者の多数がいつもきまって与党を支持するのでしょうか。そのわけは、一般の日本人には今もなお権力崇拝の傾向があるからです。・・・
 尾崎は「官僚主義と軍国主義とが藩閥至上主義にとって代わった」と述べ、こう説明した。「1898年以後の22の内閣のうち、18の内閣が官僚出身者を首相とし、残る4つの内閣も、その内の3人の首相は長いこと官僚として政府関係の仕事についていた人物である」。さらに、尾崎は、陸海軍大臣が現役の将官を兼ねていなければならないという現体制を批判した。また、彼は「天皇の陸海軍統帥権は、首相の進言や責任の範囲を超越したものである」とする「憲法の拡大解釈」を批判した。」(60~61)
→まず、尾崎の陸海軍大臣現役武官制批判についてですが、「実際の運用では、予備役・後備役・退役の将官などから軍部大臣を任命した例はなく、一旦現役に復帰してから大臣に任命した」とは言っても、1913年から1936年までは現役の将官でない者が陸海軍大臣になれたのです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
から、この尾崎の説明は不正確です。
 なお、原敬首相が海軍大臣代理を務めたことがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
 また、基本的に非軍人が就任した陸軍政務次官や参与官のポストもありました。
http://mimizun.com/2chlog/army/yasai.2ch.net/army/kako/1011/10117/1011784823.htm
(↑2ちゃんくらいしか、ネット上には情報なし。)
(1940年7月~昭1944年9月までは欠員。↓)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/sosiki/sosiki-kaigunsyo.html
 統帥権独立問題にはここでは立ち入りません。
 一番問題があるのが、尾崎の政党内閣論です。
 そもそも、彼は、日本の政党内閣論(憲政の常道論)とは、「「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職におよんだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣ではない。それならば、直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである」という原理にもとづいて、元老による内閣首班の推薦がおこなわれるようになった。・・・<ただし、>内閣の失政による内閣総辞職が条件のため、首相の体調不良や死亡による総辞職の場合、与党の新党首に組閣の大命が下される」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
というものである、という説明をすべきでした。
 このような意味での政党内閣が、日本において、1924年6月から1932年5月まで続いた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E%E5%86%85%E9%96%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E5%86%85%E9%96%A3
わけであり、日本の議会人の代表格の尾崎がかくもお粗末な日本の政党内閣についての説明を行ったことは残念です。
 また、与党が選挙に強く、(軍官僚を含む)官僚が首相になることが多かったのは、日本国民が、その歴史を通じて政府を信頼してきたことの表れであり、特に後者については、戦前の日本でメリトクラシーが貫徹していたことの表れでもあります。
 首相になれない(ついになれなかった)尾崎行雄(1858~1954年)・・ちなみに2度短期間だが官僚になっている・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%A1%8C%E9%9B%84
の愚痴が屈折した形で外国で析出した、と言いたくなります。
(続く)