太田述正コラム#4963(2011.8.31)
<皆さんとディスカッション(続x1310)>
<太田>(ツイッターより)
 訂正。
 南京事件の被害者数については「南京戦犯裁判の30万人説や東京裁判の20万人説」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4) 
と、既に蒋介石政権が20~30万人説を唱えていた。
 (コラム#4800に関し)直接民主制は民主主義独裁(内部崩壊)ないし帝国主義(膨張的崩壊)へのベクトルを内包してるってことだな。
 じゃあ、崩壊を免れうる民主制とはいかなるものか。
 これは、次回のボクの「講演」のテーマ、どうして間接民主制がイギリスで生まれたのか、それはどんな間接民主制だったのか、につながる。
<ζμμζ>(「たった一人の反乱」より)
 櫻井充が太田さんの選挙活動を支援したのは宮城つながり?
<太田>
 ボクが仙台にいた当時には面識がなかったが、彼はそのつもりだったんだろうね。
 ボクの選挙の選挙期間中の全国行脚の北限が仙台市になったのは、彼が誘ったからだ。
 二人で市内で演説したよ。
 私の落選後、彼と岡崎トミ子が一緒になってボクを宮城県での衆院補選の民主党候補として引っ張り出そうとした。その時は断ったけどね。
 2007年の防衛省不祥事喧しき時、ボクは、議員会館内の会議室で村井宮城県知事(元自民県議)を含む「不祥事」政治家・官僚「発表」会を企画したんだけど、彼、村井との関係を壊したくないとして、彼名義での会議室使用を断った。結局、保坂展人衆院議員(社民)(当時、現在世田谷区長)名義で会議室を使用して予定通り「発表」会を行った。
 今にして思えば、この時に見切りをつけるべきだったな。
<べじたん>
≫広島原爆記念館のホームページの記事によれば、ドイツ降伏のずっと以前にルーズベルトとチャーチルは原爆投下はドイツでは行わないことを決めていた、としている。≪(コラム#4947。椛澤)
≫原爆記念館のホームページのURLも入れて欲しかったな。≪(コラム#4947。太田)
 「1944年9月18日には、ニューヨーク州のハイドパークで行われた会談で、アメリカとイギリスの首脳は、原爆を日本に対して使用するかもしれないと合意しました。」
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A2_2/2201a.htm
ですね。
 こっち↓のほうが説得力ありますが、どうなんでしょう?
 「なお、日本への原爆の使用は、1944年9月のハイドパーク合意ですでに決定済みだった、その決定に従って日本への原爆の使用が実行された、という見方がある。
 例えば原水協はそういう見方を取っているし
(<http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Basics/jsawa-13.htm>を参照の事
)、広島平和記念資料館のWebサイトの説明でも「ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が1944年9月18日、米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆使用と将来の核管理について申し合わせたもので、1972年に初めて公開された秘密協定である。」という説明をしている。
(<http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pNuclear1_1.html>を参照の事。)
 私は浅薄な見方だと思う。
 ハイドパーク協定は“Hyde Park Agreement”で、アメリカを訪問したチャーチルが、ルーズベルトのハイドパークにある別荘を訪問した時の会話をメモランダムにしたもので、これを、両国政府を拘束する協定(Treatment)だという言い方は随分牽強付会な見方だと思う。
 しかもこのメモランダムの骨子は、戦争終了後アメリカがイギリスの核兵器開発に協力することを約束したもので、日本への原爆使用はいわばつけたりである。
 しかもこの文書の存在を戦後になるまでスティムソンもマーシャルも知らなかった。(以上英語Wikipedia“ Quebec Agreement”の説明記事中の“Hyde Park Agreement”に関する記述を参照の事。ちゃんと出典も明示されている。)
 この程度の合意を「協定」というのもおかしい気がするが、この「協定」がトルーマン政権の意志決定を拘束した形跡は全くない。暫定委員会の議事録にも1回もでてこない。それはそうだろう。
 存在さえ知らなかったのだから。
 次の問題として、仮にこの「協定」がトルーマン政権を拘束するものだとしても、現実まで拘束することは出来ない。44年9月はまだ「原爆完成」は仮定の話だった。
 蓋然性は非常に高かったけれど、日本降伏までに原爆が完成する、という確実性の点から見れば仮定の話だった。
 この仮定に話に基づいて、ハイドパーク「協定」で原爆使用が決定されていたので、その決定に基づいて 45年8月に日本に対して原爆の使用が行われた、と説明するのは歴史科学的でない。恣意的だ。
 これに対してケベック合意<(注)>は、イギリス・アメリカ両国政府の代表が具体的な項目で合意しあい、関係者の署名も完備している。
http://www.atomicarchive.com/Docs/ManhattanProject/Quebec.shtml>を参照の事。
 (注)1943年8月19日付。第二次世界大戦中、原爆(Tube Alloysと称されている)は米英相互には使用しない、第三者に対して使用する際には両国の同意が必要、等をフランクリン・ローズベルト大統領とチャーチル英首相が約束したもの。(上記典拠より。太田)
 これを「ケベック協定」と呼ぶのは十分根拠のあることだ。
 以降この合意は両国政府を拘束しているし、この合意の検証のため、合同政策委員会(CPC)も作られ、定期的な会合も開かれている。
 また暫定委員会でも、ケベック合意をどうくぐり抜けるか、という議論も行われている。
 日本で、ハイドパーク「協定」がなぜ重視されるのか、またその内容のより重要でない部分だけが取り出されて、「原爆使用」に関連づけられて議論されるのか、私にはよくわからない。
 私にわかることは、「ハイドパーク協定で日本への原爆使用は、すでに決定事項だった。」という説は、「トルーマン政権の原爆使用の政策意図」に関して人々を思考停止状態に陥らせる効果をもっている、ということだ。」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/why_atomic_bomb_was_used_against_japan/12.html
≫原爆・・・人体実験説≪(コラム#4961。椛澤)
≫状況証拠だけじゃ十分じゃありません。≪(コラム#4961。太田)
 こんな本があるんですね。
 「プルトニウムファイル アイリーン・ウェルサム
 原子爆弾を生み出したマンハッタン計画(1944年)から60年代に至るまでに,アメリカ国内やビキニ環礁で行われた核「人体」実験を,膨大な公開情報をもとに調べ上げたのが本書.」
http://www.unitarou.org/br/ThePlutoniumFiles.html
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html
から孫引きした記事で、アイリーン・ウェルサムは「投下の目的が実験だったといえるデータは持っていないが、投下後に実験と同じように調査したのは事実だ」と言ってますし、「アメリカが放射線の危険性を知った上で原爆を投下した」では、人体実験とみなすには根拠が弱いですか?
——————————————————————————–【孫引き記事】
 米のプルトニウム人体実験 マンハッタン計画だった 米政府が報告書
 【ワシントン9日=大塚隆】米エネルギー省の放射能人体実験調査室は9日、米国で1945年-46年、18人に対して実施されたプルトニウム人体実験が、原爆開発のマンハッタン計画の医学部門の研究として周到に実行されていたことを突き止めた、と詳細な報告書で明らかにした。
 同省ロスアラモス研究所や、実験に参加したロチェスター大学などで埋もれていた資料を追跡して分かった。実験は同計画医学部門の研究に参加した内科医ルイス・ヘンぺルマン氏と化学者ライト・ランハム氏が計画、ロチェスター大やシカゴ大などの協力を得た。
 原爆製造過程で強い毒性のあるプルトニウムを大量に扱うため、労働者の健康への影響を知るのが最大の目的だったようだ。
 人体実験をしたのは「体内に入ったプルトニウムが排せつされる早さを知るのが目的」だった。ロチェスター大では11人に注入したが、うち1人は6日後に死亡、解剖で詳しい結果が得られた。
 この直後、ランハム氏はメモで「患者が末期段階なら、プルトニウム注入量を増やすよう」に指示、シカゴでの実験は、2人に94.91マイクログラムという多量のプルトニウムが注入され、患者はすぐ死亡している。
 しかし、患者のうち4人は20年以上生存、うち3人はアルゴンヌ研究所が追跡調査を実施した。
 他の実験も含めた約300ページの調査報告書を公表したエリン・ワイス室長は「4月半ばまでには論文や資料が見られるよう準備を急ぐ」と約束した。
(朝日新聞 1995/02/10)
 広島「調査」の学者 人体実験にも関与 米ジャーナリスト明かす
 【ワシントン17日=氏家弘二】原爆投下直後に広島を訪れて被爆の実態を調べた米国の学者らが米政府のプルトニウム人体実験にもかかわっていたことを、人体実験の報道でピュリツァー賞を昨年受賞したジャーナリストのアイリーン・ウェルサムさん(44)が明らかにした。
 ウェルサムさんによると、取材の中で2つの調査にかかわっていたことがわかったのは、物理学者ら3人。原爆投下後間もなく、広島に入り、被爆の影響などについてデータを集めた。その中には、子どもの体への放射線の影響や発病状況の項目もあったという。
 日本などに広島・長崎への原爆投下は人体実験だったという意見があることについては、「投下の目的が実験だったといえるデータは持っていないが、投下後に実験と同じように調査したのは事実だ」と話した。
(朝日新聞 1995/03/18)
 米極秘文書入手、原爆投下の真実
 長崎は間もなく63回目の「原爆の日」を迎えます。アメリカが放射線の危険性を知った上で原爆を投下し、その威力のデータを収集していたことを示す公文書が見つかり、JNNが入手しました。
 原爆の強烈な爆風と放射線。その威力と影響をアメリカはどこまで知っていたのか。その疑問に答える文書をJNNがこのほどアメリカ国立公文書館から入手しました。
 原爆投下のおよそ3か月前。原爆を開発した科学者のリーダー、オッペンハイマー博士が軍部のために作成しました。
 原爆の放射線の危険性を詳しく説明しており、爆心地から1キロ以内では死亡するとしています。その上で、原爆を投下する飛行機の乗組員が注意すべきことを記載しています。
 「飛行機は放射線を避けるため、原爆の爆発地点から4キロ以上離れること」「爆発後、数時間以内に上空に入る飛行機は放射能を帯びた雲に近づくな」としています。
 原爆を投下する前、アメリカが放射線の人体への影響について、どの程度知識を持っていたか、これまではっきりしていませんでした。しかし、放射線医学の専門家は、発見された文書はアメリカが放射線の危険性についてかなり知識を持った上で原爆を投下したことを示していると指摘します。
 「放射線がどのくらいあったのか、計算されていたなんてことが如実に分かる手紙ですね、これは。1895年のレントゲン博士のX線の発見。それ以来、放射線と人体の関係は当時で50年経っているんですから。全て計算していたと」(長崎大学医学部 朝長万佐男 教授)
 爆風の威力については、実践のさなか調査が行われていました。長崎市の原爆資料館には、アメリカが原爆の威力を測定した装置が保存されています。この装置は、飛行機が長崎上空から原爆投下にあわせて落としました。
 私たちは長崎と広島の上空で、この測定装置を使って原爆の威力を調査した科学者を以前、取材しました。
 ラリー・ジョンストン博士は、パラシュートに取りつけた装置で原爆の威力を測定したのです。
 「原爆が爆発した時、測定器が爆風のすさまじさを示した」(ラリー・ジョンストン博士)
 この文書は長崎への原爆投下の3日後、ジョンストン博士が測定したデータをもとに、別の科学者が原爆の威力を推定したものです。
 広島原爆は爆風の圧力などからTNT火薬に換算すると15キロトンに相当するとしています。
 一方、長崎原爆は爆風の威力が広島のおよそ2倍でTNT火薬30キロトンに相当すると推定していました。
 アメリカで原爆の威力を測定したデータの文書が見つかったのはこれが初めてで、核問題の研究者は「文書はアメリカが原爆のデータを収集しようとしたことを示している」と言います。
 「原爆を落とした効果がどれくらいあったのかっていうことを、キチッと調べると。それは次のステップに使えるということを前提とした調査ではないか、ということが分かりますよね」(長崎大学工学部 岡林隆敏 教授)
 原爆の人体への影響を知った上で投下し、その威力のデータを収集しようとしたアメリカ。発見された文書からは、戦争と核兵器開発の非情な論理が浮かび上がってきます。
(JNN News 2008/08/07)
——————————————————————————–
<太田>
 米国政府が、原爆の威力(物的破壊力は別にして、爆発と放射線による殺傷力)を米国内で原爆投下前及び後において人体実験を伴う形で検証しつつ、広島と長崎に原爆投下を行い、その広島と長崎でも原爆の威力を検証したからといって、広島と長崎への原爆投下が人体実験(目的)であった、ということにはならないでしょう。
 なお、「戦争時における化学兵器の使用禁止<が>すでに1925年のジュネーヴ議定書で謳われてい」た
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E5%AD%A6%E5%85%B5%E5%99%A8%E7%A6%81%E6%AD%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84
ところ、禁止の理由は殺傷力そのものではなかったはずだ、被害極限不可能性や不必要な長期的苦しみを被害者に与える点にあったのではないか、というのが私の考えであり、放射線被害の極限不可能性や被害者に及ぼす長期的苦しみを相当程度既に把握していた米国政府が、その上で原爆投下を行ったことは、上記議定書の規定のもちろん解釈でもって同議定書違反を構成し、戦争犯罪となる、と思うのです。
 この点は、もっと詰めなければなりません。
 どなたかやっていただけるとありがたい。
 さて、戦争のために行われた人体実験とは、前にも(コラム#4289、4297で)触れた、米国によるグアテマラ人を使った淋病、梅毒感染実験のようなものを指すと私は思います。
 仮に石井部隊による人体実験が事実だとして、恐らく処刑対象者が被験者であったと思われるそれよりも悪質ではないでしょうか。↓
 
 ・・・From 1946 to 1948, American taxpayers, through the Public Health Service, paid for syphilis-infected Guatemalan prostitutes to have sex with prisoners. When some of the men failed to become infected through sex, the bacteria were poured into scrapes made on the penises or faces, or even injected by spinal puncture.
 <1,300人を梅毒、淋病、軟性下疳に感染させ、(恐らくはそれが原因で)83人以上を死に至らしめた。↓>
 About 5,500 Guatemalans were enrolled, about 1,300 of whom were deliberately infected with syphilis, gonorrhea or chancroid. At least 83 died, but it was not clear if the experiments killed them. About 700 were treated with antibiotics, records showed; it was not clear if some were never treated. ・・・
 <知恵おくれの女性は文字通り虐殺された。↓>
 ・・・a mental patient named Berta・・・was first deliberately infected with syphilis and, months later, given penicillin. After that, Dr. John C. Cutler of the Public Health Service, who led the experiments, described her as so unwell that she “appeared she was going to die.” Nonetheless, he inserted pus from a male gonorrhea victim into her eyes, urethra and rectum. Four days later, infected in both eyes and bleeding from the urethra, she died. ・・・
 Also, several epileptic(てんかんの) women at a Guatemalan home for the insane were injected with syphilis below the base of their skull. One was left paralyzed for two months by meningitis(髄膜炎).. ・・・
 <貧しいか、身体障害のある、あるいは受刑中のグアテマラ人が選ばれた。↓>
 Poor, handicapped or imprisoned Guatemalans were chosen because they were “available and powerless,”・・・
 <当時、米国は兵士の性病治療にやっきになっていた。↓>
 Curing troops’ venereal diseases was a major goal of military medicine. ・・・
http://www.nytimes.com/2011/08/31/world/americas/31syphilis.html?_r=1&ref=world&pagewanted=print


<TA>
≫<1920年代半ば、>世界の列強の中で、(米国は赤露に大甘であったところ、)英国は最も赤露に警戒心を抱いていたのに対し、日本の警戒心は米国とは比較にならないほど強かったものの、英国ほどではありませんでした。≪(コラム#4962(未公開)。太田)
 太田史観では、赤露への警戒心は「日本(陸軍>海軍>外務省)>英国>米国」ではなかったでしょうか。
 それとも年代によって微妙に変わってくるのでしょうか。
 過去コラムで言及されていたと記憶しますが、上手く探せませんのでお教え下さい。
<XXXX>
 今日、新たに岩村正史著 『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶応義塾大学出版会 2005年) を資料としてお送りしました。
 本書はタイトル通り「先の大戦直前の日本の右翼 」シリーズ同様、戦前日本の世論・・・就中メディアやその上澄みたる知識人・・・をテーマにした学術書です。
 お送りした理由は太田史観で言うところの、戦前の日本人が「赤露」の方が独伊よりもはるかに危険であると考えたからこそ緊急避難的に独伊と同盟を結んだという事がよくわかる文献であること、また、陸軍の主張した政策は基本的に世論の支持の上にあった事がわかる文献であると思ったからです。
 本書の重要性は<先の大戦直前の日本の右翼(その1) >において太田さんが述べられているとおり、「当時歴とした自由民主主義(的)国家・・・であった日本においては、世論の国際観は政府の対外政策を規定したはずであることから、世論の国際観を研究することは重要であ 」る、という事だと思いますし、逆説的には「世論の国際観」に沿って、政府の対外政策が規定されていた事が明らかになれば、当時の日本は自由民主主義(的)な国家であった事の裏付けになると思います。
<太田>
 どうも毎度ありがとうございます。
 <届きました。>
 ところで、TAさんから、<上掲のような>質問があったのですが、「(ロシア革命から終戦までの間、)年代によって微妙に変わってくるのでしょうか。」→イエス
と言えそうです。
 とはいえ、この期間を通じて、マクロ的には
a:日本>英国>米国
b:(日本の)陸軍>海軍>外務省
だと思いますし、そういった趣旨のことを書いたことはあったのではないかと思いますが、aとbを一まとめにして書いたことはないのでは?
 いずれにせよ、<XXXXさん>ご自身はどう思いますか?
 あるいは、私に成り代わったとして、<XXXXさん>ならどう答えますか?
 また、べじたんさん、「そういった趣旨のことを書いたことはあったのではないかと思いますが、aとbを一まとめにして書いたことはないのでは?」という認識で間違いありませんか?
 
<XXXX>
 <赤露による支那侵略 >シリーズと見比べて観てほしいのですが、1928年における帝国陸軍の情勢判断は下に掲げる通りです。
 仮に、この帝国陸軍の情勢判断が的確なものであったとするならば、それはシベリア撤兵以後、一貫して帝国陸軍が赤露及び支那を注視し続けた結果であって、赤露に対する警戒心の高さを表していると解釈していいのではないでしょうか。
 また、そう言うまでも無く、既に太田コラム<ワシントン体制の崩壊>シリーズ
http://blog.ohtan.net/archives/52072414.html

<ニッシュ抄>シリーズで
http://blog.ohtan.net/archives/52082825.html
、1920年代において陸軍が赤露の脅威を深刻視していた事は明らかになっているとも思います。
 更に、オースティン・チェンバレン外相の1927年4月1日の発言
http://blog.ohtan.net/archives/52072988.html
からわかるとおり、かかる英国の警戒心は帝国陸軍同様に高く、「この時点での英国政府と日本の帝国陸軍/世論の支那観は完全に一致していたと言え」そうなのであって・・後に英国の警戒心が後退した事実を考慮しても・・帝国陸軍≧英国だったのではないでしょうか。
 すなわち、a、bをまとめると1920年代に限って言えば帝国陸軍≧英国>帝国海軍>外務省>米国じゃないでしょうか。
 1928年10月 陸軍省作成、配布「極東に於ける露国の宣伝組織ならび機能」
※以下、労農露国、ソヴィエ-ト・ロシア等の用語→赤露に統一 旧字→新字or難しい漢字の表記を変更 (例:而して→しかして 茲→ここ)
 「 『世界革命の運命は東方において決す』(レーニン)。忠実に之れを遵奉して東方政策を実行して居るところの赤露。しかして煽動宣撫を自己の全生命とも信じて居る赤露の東方特に極東における赤化計画と施設が世界の何処に向かってよりも真剣と徹底とにおいて一際目立つものがあるのを何人といえども看取するであろう。
 しかして東亜一体の情勢がこれまた赤露にとって極めて都合の好い状態にあることも世界中に其の例を見ない。
 無政府状態の支那は列強の経済市場であって其処には排外熱が日と共に熾盛にふって居る、民族的反抗心を使嗾するに便なる朝鮮がある、インドがある。しかしてコミンテルンの主脳者等は日本の内情をも妄断して東洋に労農革命を完成すること亦易々たる事業だと確信している。従って極東に向ってする各種の策動が積極的且つ急進的であるのも自然の勢というべきである。
 赤露は東方に向って四ツの主なる赤化大幹線を利用して居ると見得る。即ちシベリアから北満及沿海州方面に出て南満州、朝鮮、日本を目標とするもの。外蒙古を薬籠中に収めて直路天津に本拠を占めここより四方に手を広げんとするもの。中央アジアよりアフガン、インド方面を狙うもの。また海路により上海、広東に占拠して支那、日本その他に及ばんとするものが是れである。
 (以上は<帝国陸軍の内蒙工作> シリーズ及び<トマス・バティとヒュー・バイアス >シリーズ参照)
 勿論これ等の経路と拠点とはかれこれ交錯して適当に利用せられて居ることは謂う迄もない。何にせよ日本は東洋に於ける唯一の真の独立国として又彼等の所謂帝国主義或いは反共産主義の強敵として赤露の為め最も苦手であるべきはここに贅言を要しない。
 ・・・日本のシベリア撤兵に次で労農露国の影絵的存在であった極東共和国の消滅と共に、赤露は直ちに東支鉄道沿線の赤化を企図して該鉄道の共産系従業員より成る鉄道委員会の組織と活動を統制し、非公式に代表公館を設置して勢力を張り尚をこれと前後して外蒙庫倫<ウランバートル>政府の要路に労農露人を配し、労農赤軍を駐屯させ或は教育機関を労農式とする等事実上の赤露属領と化せしめた。
 1924年の露支修好回復後、殊に馮玉祥が一時北京において勢力を取った時代には北京労農大使館は支那の北部における赤化宣伝の根拠となった。尚を其の以前よりの広東における孫文の露国提携政治及び軍事顧問の傭聘等に勢いを得て南支那の共産党勢力は俄然台頭し、広東及び上海を本拠としてたちまち揚子江以南を風靡したかの観を呈した。従って日本其他に対する宣伝も極めて積極的であったのである。
 昨1927年北京における張作霖の労農大使館捜索事件と蒋介石の上海における共産党弾圧駆逐があって露支断交、大使・領事等の引き揚げが行はれ二、三年前の労農勢力の隆盛は全く覆された如くであるが其の潜在勢力は決して侮り難いものである。
 日露の修好回復による宣伝網の拡張進展もまた贅言を要しない本年春より行われたる支那南北戦の結果は吾人の耳目に新たな所である。常に機会を狙って居る赤露は直ちに極東赤化政策を情況に適合する如く立て直して居る。即ちウラジヴォストークを根拠とする活動、天津或は上海における労農機関の復活運動、又は在満日本軍に対する宣伝の如き是れである。
 ・・・<また、>ここに極東というも支那を度外視して彼等の組織を検するは意味をふさぬ、故にここに謂う極東とは極めて広義であることを付言して置く。」
粟谷憲太郎編 『対ソ情報戦資料2巻』 現代史料出版会 pp3-7  
         
<太田>
 サンキュー。
 この史料はいただいてるんでしたっけ?
<ΗΗΖΖ>(「たった一人の反乱」より)
 ドイツのテレビ局制作の原発事故番組が福島中央テレビによって削除される
http://hamusoku.com/archives/5734876.html
 削除動画あり
<ΗΖΗΖ>(同上)
http://togetter.com/li/181612
 ZDFが福島中央テレビの映像を素材改編したうえ、無許可使用したそうだから、怒るのは当然だろう。
 (福島中央テレビの映像分を切ったものが再アップされているそうだが、再アップ動画をZDFが著作権侵害申し立てするかもなw。)
 ZDFってドイツの公共放送局だそうだが、レベル低いことするんだな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1%E6%94%BE%E9%80%81
<太田>
 野田次期首相の戦争犯罪人に関するこれまでのスタンスは、今後、中共や韓国等において何度も引き合いに出されるであろうことを覚悟すべきだろう。↓
 ・・・Noda has said that he doesn’t believe that the top-level Class A Japanese war criminals convicted by the Allies after the end of World War II are indeed war criminals under Japanese law. That stand, which he repeated at a news conference earlier this month, has sparked complaints in China and South Korea, which were occupied by Japan during the war. ・・・
http://globalspin.blogs.time.com/2011/08/30/what-war-criminals-japans-new-p-m-raises-old-concerns-in-asia/
 タイム誌電子版の上記ブログの投稿欄への投稿は、野田を罵倒する無茶苦茶なものが大部分だが、野田のこれまでのスタンスには、何等問題はないことを、下掲で確認しておこう。↓
 「戦犯の国内での扱いに関して、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、1952年・・・5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となった。
 これにより1952年・・・4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」も一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
 1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、1953年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が可決された。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。そうしてサンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11ヶ国の同意を得たうえで減刑による出所が順次、行われることになる。・・・
 1978年、靖国神社が死刑及び獄中死の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀した。靖国に戦死者以外が合祀されることは例外的であった。また、広田弘毅など非軍人を合祀したことでも例外的な措置であった。死亡の理由は「法務死」となっている。・・・
 第3次小泉内閣下における民主党の野田佳彦国会対策委員長の質問主意書に対して2005年10月25日に提出した答弁書において、政府は第二次大戦後極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した各級の罪により戦争犯罪人とされた(A級戦犯を含む)軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」とした。また、戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、判断を避けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
 なお、いわゆるA級戦犯として処刑された7名中、「通例ノ戦争犯罪」を犯したとされた者は3名(武藤章、松井石根、広田弘毅)であり、残りの4名(板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英樹)は事後法たる「平和ニ対スル罪(戦争を開始した罪)」を犯したとされたものだ。(ウィキペディア上掲)
 記事の紹介を続けます。
 リビアの反体制派の中に黒人差別意識が牢固としてあることを指摘している。↓
 ・・・<People who> examined th<e> allegation・・・, disseminated early in the rebellion, of African mercenaries being unleashed on the opposition・・・found no evidence for it.・・・
 Lurking behind this is racism. ・・・
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/aug/30/libya-spectacular-revolution-disgraced-racism
 アルジェリアが、カダフィの家族亡命を受け入れた背景が詳述されている。↓
 <同国の反体制派が弱いのは、内戦の悪夢が消えていないから。
 それに、天然ガス・石油収入を不満軽減のためにうまく使っているから。↓>
 ・・・The fact that the Algerian regime survived almost unscathed while others fell is due partly to the country’s history — many Algerians still have bitter memories of the internal conflict in the 1990s that cost 100,000 or more lives — as well as some smart handling of the situation by the authorities. Unlike Mubarak in Egypt, they lifted the 19-year-old state of emergency and, cushioned by oil and gas revenues, were able to offer economic concessions.
 <しかも、反体制派は分断されている。↓>
 <Further, t>he opposition, while heavily constrained by the authorities, was divided by internal disagreements, and without a common set of grievances disparate groups of protesters — students, the unemployed, civil servants, doctors, etc — pursued their own sectional interests.
 <また、治安部隊が強力かつ狡猾。↓>
 <It is >also noted that the Algerian security forces are more integrated into the political system than in Tunisia and Egypt. The police force is very substantial, having increased from 50,000 in the mid-1990s to 170,000 today, and is comparatively well paid and professional. Perhaps more significantly, the security forces were careful not to fan the flames by killing large numbers of protesters.・・・
 <独裁ではなく、高齢者による集団的支配が行われている。↓>
 Unlike the toppled regimes of Tunisia, Egypt and Libya, the Algerian regime is not really a one-man (or one-family) show. It is more of a collective gerontocracy, whose members are gradually fading away without being replaced by new blood.・・・
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/aug/30/arab-uprising-algeria-next
 新大陸「発見」が何をもたらしたのかが説明されている。↓
 <たなボタ式に大金持ちになったスペインは、オスマントルコや欧州内の他国にやたら戦争を仕掛け、すってんてんになった上に借金の山を抱える羽目になり、一般国民は増税により疲弊した。↓>
 ・・・following Christopher Columbus’s arrival in 1492, Spain・・・’s rulers launched wars against the mighty Ottoman Empire and other Muslim powers, to say nothing of fellow Christians elsewhere in Europe. The wealth from the newfound silver mines of Potosi didn’t begin to cover the bill, so the Spanish crown borrowed from foreign powers and banks, mortgaging the country’s future and amassing vast debts. The rich worked out tax exemptions and retreated behind the walls of their villas, while the small middle class and peasantry shouldered the burden, the latter struggling to grow food in the face of a worsening climate.・・・
 <中南米では原住民が奴隷を使っていたのに、北米ではそういうことがなかった。それがその後の奴隷制が北米(の北部)で行われなかった理由であるとも考えられる。↓>
 <There is> a possible significance in the practice of slavery by some indigenous peoples before the arrival of Europeans. The British colonies of the northern Atlantic seaboard coincided with areas where slavery was not practiced, while the southern ones were founded among native peoples who held and traded slaves.・・・
http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/1493-uncovering-the-new-world-columbus-created-by-charles-c-mann/2011/08/01/gIQAQ4tSeJ_print.html
 どうして日本人が長寿なのか、東大のセンセが説明している。↓
 <第一の要因は、私の言葉に置き換えりゃ、要するに人間主義だねえ。↓>
 ・・・Professor Kenji Shibuya, of the department of global health policy at the University of Tokyo, and colleagues <says>・・・”First, Japanese people give attention to hygiene in all aspects of their daily life,・・・This attitude might partly be attributable to a complex interaction of culture, education, climate [eg humidity, temperature], environment [eg having plenty of water and being a rice-eating nation] and the old Shinto tradition of purifying the body and mind before meeting others.
 <第二の要因は、健康フェチ。↓>
 ”Second, they are health conscious. In Japan, regular check-ups are the norm. Mass screening is provided for everyone at school and work or in the community by local government authorities. ・・・
 <第三の要因は食事。↓>
 ”Third, Japanese food has a balanced nutritional benefit and the diet of the Japanese population has improved in tandem with economic development over the past five decades.”・・・
http://www.guardian.co.uk/world/2011/aug/30/japan-life-expectancy-factors
 双極性障害についても、見つかるといいね。↓
 「採血<し、>・・・神経細胞を成長させるタンパク質の一つ、脳由来神経栄養因子(BDNF)の遺伝子に起きる「メチル化」という化学反応の程度を調べ・・・ることで、うつ病を客観的に診断できる有力な新指標を・・・広島大大学院医歯薬学総合研究科の・・・グループが発見・・・」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011083001001139.html
 売春が合法化されているドイツで、ボン市では、街娼に税金を払わせるために、その街頭で売春する売春婦は駐車チケットならぬ、売春チケットを毎夜、自動販売機で購入しなければならなくした。↓
 Prostitution is a legal and taxable trade in Germany・・・<In t>he city of Bonn・・・<p>rostitutes must now pay a nightly tax to automated ticket machines.・・・
http://www.spiegel.de/international/germany/0,1518,783438,00.html
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太田述正コラム#4964(2011.8.31)
<戦間期日英関係の軌跡(その7)>
→非公開