太田述正コラム#4832(2011.6.26)
<先の大戦における蛮行(その4)>(2011.9.16公開)
 (7)ドイツ
 「ソ連に侵攻していた間、ナチスによって配備された機動処刑部隊であるアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)<(注4)>に関する章において、バーレイは、SS<(コラム#4286、4288、4290)>のある連隊がモトル(Motol)の町(現在はベラルスにある)に現れ、800人のユダヤ人男性を殺した話を記している。
 彼らの内の何人かはSSの騎兵達にお菓子をもらったキリスト教徒の子供達によって裏切られて隠れ家をつきとめられたものだ。
 一晩寝てから、SSは今度は関心を女性達と子供達に移した。
 彼らは町から歩いて追い立てられ、服を脱ぐように命ぜられ、繁みの中に隠された機関銃群によってなぎ倒された。
 その上で、彼らは町に戻り、「昼飯を座って食べてから」生存者をしらみつぶしに殺して行った。」(E)
 (注4)Einsatzgruppeの複数形。ナチス親衛隊(SS)の準軍事的処刑部隊。
http://en.wikipedia.org/wiki/Einsatzgruppen
 「バーレイの本が<同趣旨のことを>繰り返すことで粉砕した・・・一つの神話は、ナチの野蛮性が、まとも(decent)で尻込みをしている兵士達に対し、キチガイじみたイデオローグ達によって押し付けられたというものだ。
 個々の人間で人種絶滅義務を逃れる方法を発見した者はいるけれど、「いつも十分な数の志願者を得ることができた」のだ。
 そして、ドイツ軍部隊が、ユダヤ人の赤ん坊達を壁に叩きつけたのは、単に、酔っぱらってのことでも、公的な原初的人種主義(Ur-racism)が彼らの凶暴さに火をつけたからでもなく、彼らが「それをやりたかったから」なのだ。」(C)
 「バーレイは、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)<(コラム#1996、3599、3617、3737、4422)>の、しばしば引用されるところの、「悪の陳腐さ(banality of evil)」という言明に対してとりわけ辛辣だ。
 アーレントは、アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)<(コラム#2717、3078、3617)>に言及しつつ、最終的解決に関与した人々が想像力の乏しい吏員達であったと示唆する。
 しかし、実際には、アイヒマンは、官僚であるとともにならず者であり、ユダヤ人達に向かって、「豚どもめ、俺に口を利く時は壁に向かって立て」と叫んだものだ。
 更に、バーレイは、ホロコーストは、単に、工業化された殺人の歯車が回ったプロセスではなかったことを思い起こさせる。
 約290万人のユダヤ人達は、彼らから数フィート離れたところに立っている男達によって殺害されたのだ。
 一人のSSの歩兵が証言したところによれば、「いつも十分な数の志願者がいたので」殺害を強いられたり殺害を拒否して罰せられた者はいない。
 バーレイの主張は、これは、下手人達が一種の道徳観念を維持していたからだからだという説明ができる、というものだ。
 人種の不平等という疑似科学的信条の犠牲者であった彼らは、人間以下の者ども(Untermenschen)の世界をパージする歴史的任務に従事していると感じていた、というわけだ。
 だから、ヒムラー(<Heinrich> Himmler)<(コラム#370、2026、2792、4083、4286、4290、4499、4801)>は、この楽しからざる作業に携わった者達の品位(decency)とヒロイズムについて語ることができたのだ。
 同じような考慮がソ連におけるドイツ軍のふるまいについても支配し、その結果もたらされたのが、ロシア人捕虜330万人の死だった。
 しかし、多分これでは話は終わらない。
 バーレイが認めるように、神聖なる天皇への義務を上回る道徳律を持っていないがゆえにその野蛮さについて「純粋なる言い訳」があった日本人達とは違って、大部分のドイツ人達は名目的にはキリスト教的諸価値を信奉していたからだ。
 更に言えば、SSの処刑部隊ですら、東部戦線における彼らの<同志たる>ルーマニアの準軍隊の血なまぐさい行状には恐怖の念にかられた。言うまでもないことながら、彼らは同じことを赤軍によって仕返された。
 そして、本国では、多くのドイツ人達が、英米による<ドイツの>空爆は、<自分達ドイツ人によって>ユダヤ人達に対して犯された身の毛のよだつ罪に対する報復である、と結論付けた。
 これは、彼らの間で、その事実の認識と罪の意識とが広まっていたことを示唆するものだ。」(J)
 「ポーランドとロシアでのSSのアインザッツグルッペン(処刑部隊)の作業を扱った章は、ナチスは道徳概念総体を廃棄しようと試みたわけではなく、ユダヤ/キリスト教のそれよりも優位のアーリア人的道徳性という対抗的感覚を<ドイツ人の間で>樹立しようと試みたのだ。
 SSの訓練学校群における<入校者>選別の最小公分母(common denominator)は、平時におけるネオ・ファシスト的諸活動への参加度だった。
 というのは、バーレイが記すように、「彼らを、二元論的な世界観を持つとともに、より容赦なき、かつより狭い、一連の諸価値を信奉するに至ったところの・・それまでにキリスト教徒として育ったことや人道的な教育を受けたことの痕跡を残していない・・国家社会主義のエリート宣教師達に仕立て上げようとしたからだ。」
 タフであることと忠誠を尽くすことが何よりも賞せられた。
 その結果が、「彼らの特徴的な平定の仕方は、<平定対象たる>人々を街灯からつるすことだった。」・・・
 冗談ならともかく、厳しい戦いであったところの<ドイツに対する>爆撃作戦と、下手人にとっての唯一の危険が、ウクライナのどこかの穴の中で血と脳漿まみれになることであったところの無辜の一般住民の殺戮とを、同じ次元で比べるわけにはいかない。」(L)
 ここは、日本人がキリスト教的な信仰と無縁なるがゆえに生来的に非道徳的であるというのは、人間一般に(例えば、狩猟採集時代に適合的な遺伝子の承継を通じて)道徳観念が生来的に備わっていること、とりわけ、日本人の場合、縄文時代という特異な、定着的狩猟採集時代を過去において長期にわたって持ったために、その備えている道徳観念が相対的に強固であることについてのバーレイの無知(無視?)に根差す暴論です。(コラム#省略)
 そもそも、キリスト教を始めとする世界宗教は、かかる生来的道徳観念を強化する面と弱体化する面とを併せもっており、むしろキリスト教の場合、その教義のプラトン/アリストテレス的再編を通じて、欧州において、鬼子たる民主主義独裁の諸イデオロギーを生み出したと言えるのであって、ナチスドイツ(やスターリン主義ソ連)による数々の蛮行は、キリスト教に由来する、と見るべきである、ということについてのバーレイの無知(無視?)もまた咎められなければなりません。(コラム#省略)
 「バーレイは、SSは死の収容所群で比較的安全にユダヤ人達を殺害したのに対し、ハリスの爆撃司令部の要員たちは、ドイツの高所から下界を破砕しながら、55,000人もがひどい死に方をした、・・・彼らは英雄だ(L)・・・と指摘している。」(K)
 こんな比較をしても仕方がないでしょう。
 ホロコーストは、たまたま戦時中になされたけれど、戦争行為ではなかったのに対し、ドイツに対する空爆は戦争行為として行われた、というだけのことです。
(続く)