太田述正コラム#4854(2011.7.7)
<支那における自由民主主義的伝統の発掘(その2)>(2011.9.27公開)
 私は、全くそうは思いません。
 黄が物心ついた頃は萬暦帝の時代だったわけですが、同帝は、治世の初期は、能吏たる主席大学士の張居正(Zhang Juzheng)の言うことを良く聞く賢帝であり、1582年に張が死去すると、親政を開始し、日本の朝鮮出兵等を乗り切ったものの、1600年から20年に亡くなるまでの晩年は、政治に関心を失い、アヘンに溺れ、自分の墓廟(注4)の建設等に国金を湯水のように使うようになり、1619年には女真族(Jurchen)との会戦で大敗北を喫し、明の衰亡は決定的となります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wanli_Emperor 前掲
 (注4)定陵(Dingling)。北京北方50Kmに位置する明の十三陵の中で発掘された唯一のもの。私自身も、2003年に訪問している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ming_Dynasty_Tombs
 そして、泰昌(Taichang)帝(1582~1620年。皇帝:1620年の1か月弱。萬暦帝の長男。内向的で半文盲のアル中)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Taichang_Emperor
天啓(Tianqi)帝(1605~1627。皇帝:1620~27年。泰昌帝の長男。知恵遅れ。宦官が実権を握る)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Tianqi_Emperor
崇禎(Chongzhen)帝(1611~44年。皇帝:1627~44年。帝の弟。それまでの3人の皇帝よりはマシだったが、妄想癖があって頑固)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Chongzhen_Emperor
の3代を経て、萬暦帝死後24年で明は清によって滅亡に追い込まれるのです。
 黄の主著である『明夷待訪録』は、明滅亡後20年近く後、清が鄭成功の北伐軍を跳ね返して国内をほぼ平定した(1659年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%B2%BB%E5%B8%9D
直後に上梓されたものですが、第一にそれは、黄自身の思想を展開したものというより、明の万暦帝とそのとりまきの宦官勢力等による悪政を批判したことに始まる東林学派(東林党)の人々のコンセンサスを祖述したものと言うべきでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9E%97%E6%B4%BE
 (なお、私は、東林学派を突き動かしていたものは、明は、ついに漢人文明化しなかったところの唯一の「支那王朝」たる元(1271~1368年)による支配を漢人が打ち破って建国されたことから、支那が再び遊牧民によって征服されることを回避したいという気持ちだったのではないか、と忖度しています。
 蛇足ながら、「明朝の始祖洪武帝(朱元璋)<がその中から現れたところの元末の>紅巾の乱を引き起こした白蓮教教団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としている」というのは面白いですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D) )
 まあ、この点はともかくとして、
 第二に、黄は、統治者と被治者の不平等を前提としており、人民の福祉向上を唱えたけれど、人民の福祉はあくまでも帝国を富強にする手段であって目的ではありませんでしたし、このような黄の考え方すら、社会の上層部中の少数派に属しました。
 (他方、日本では、慈円から、北畠親房、新井白石、松平定信へとつながるところの、(コラム#4168、4170、4175、4177、4324)人間平等観を前提にした人民の福祉を政治の目的とする考え方が社会の上層部中の多数派であり続けました。)
 第三に、それは、あくまでも、皇帝に善政を施させるには皇帝の補佐機構をどうしたらよいかを模索したものであって、萬暦帝の治世の後半以降の歴代の明末の皇帝のように、皇帝に善政を行う意思または能力が欠けている場合には一体どうしたらよいかの方法論を持ち合わせてはいませんでした。
 (他方、日本にはそれがありました。「鎌倉時代から武家社会に見られた慣行で、特に江戸時代の幕藩体制において、行跡が悪いとされる藩主を、家老らの合議による決定により、強制的に監禁(押込)する行為を指す・・・主君押込」がそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E5%90%9B%E6%8A%BC%E8%BE%BC )
 第四に、押込的なものを認めないとすれば、孟子のように、せめて放伐論(易姓革命論)(後述)を認めなければならないはずですが、黄は、悪政が続いて衰亡した明が清によって取って代わられることに、自ら兵を募ってまで抵抗したのですから、一貫しないこと夥しいものがあります。
 せめて、彼は、この点について申し開きをすべきだったと私は思うのですが、それをした形跡はありません。
 仮に、清(Qing。女真)が非漢人勢力だから、ということであったとすれば、彼はそう書けばよかったはずですが、「清<は、>武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成<(Li Zicheng)>を逆賊として討伐し、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備するなど、あくまで明の後を継いだことを前面に出してい」ましたし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85
http://en.wikipedia.org/wiki/Qing_Dynasty
「<清の>順治<(Shunzhi)>帝<(1638~61年。皇帝:1643~61年。親政:1850~61年)>は「朕は今日官民の苦を均しく知る」と宣言し、内政の改革を始めた。当時は全国各地から名産品を皇帝に献上する事になっていたがこれをいくつかの場所で止めた。また質の悪い官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっている者を還俗させた。また宦官が政治に関与する事を厳重に禁止し、破れば即座に死刑になった。・・・順治帝は漢文化に心酔していて非常な読書家であり、自らだけでなく臣下にも積極的に漢文化の習俗を取り入れさせた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%B2%BB%E5%B8%9D 前掲
http://en.wikipedia.org/wiki/Qing_Dynasty 上掲
のですから、まさに、黄らにとって待望の理想的な皇帝が出現していたとさえ言えるのであって、黄がそんな風に書けるはずがありませんでした。
 結局、『明夷待訪録』を書いた黄宗羲は、時代について行けなかったジレッタントに過ぎなかったのであり、支那の儒教の王道論(後述)を一歩も出ることができなかった人物である、というのが私の考えです。
(続く)