太田述正コラム#0055(2002.8.13)
<対イラク戦争とアラブの二つの名門の「確執」(その1)>

本稿は、米国が着々と準備しつつあるきたるべき対イラク戦争と、アラブの二つの名門、サウド家とハーシェム家の「確執」との関係について論じるものです。

1 サウド家とハーシェム家の「確執」

私は1991年に次のように書いたことがあります。
「世界に二つだけ元首の名字が正式国名に入っている国がある。一つはサウディアラビア王国(1932年正式建国)であり、もう一つはその隣国のヨルダン・ハシェミテ王国(1946年独立)である。
1902年、アラビア半島のリアド地方の旧家、サウド家のアブドル・アジズは、亡命先のクウェートから、同志と共に長駆リアドの代官所を襲って代官を殺害し、リアドを奪還する。二メートル近い長身のアブドル・アジズは"厳格なイスラム教への回帰"を唱えつつ、武力と通婚政策によって次々と他の土豪を帰順させていく。彼はその生涯に嫡男だけで36人設けており、精力絶倫だったらしい。ある土豪と戦ったときのこと、腹部に腸の飛び出るほどの重傷を負ったアブドル・アジズは、その腹に晒(さらし)を巻いて戦いを続行し、優勢の内に和平に持ち込んだ。そして和平会議の席で、その土豪の娘と結婚。その夜の内に一子を設けたという。
アブドル・アジズの前に立ちはだかったのが、当時オスマン・トルコの宗主権のもとにあったアラビア半島西部ヒジャーズ地方の太守にして聖地メッカの守護者、ハーシェム家のフセインだった。ハーシェム家はイスラム教の創始者ムハンマドの血筋につながる。
第一次世界大戦の最中の1916年、フセインは"アラブ人の王"の称号を自ら唱え、英国人のアラビアのロレンスらと共にアラブ及び英国共通の敵、オスマン・トルコに反旗を翻す。この大戦で敗戦国となったオスマン・トルコは、1920年にヒジャーズ地方の独立とパレスティナの英委任統治領化等を認めたが、英国はフセインへの恩賞の一つとして"パレスティナの東部(ヨルダン)"をその息子のアブドゥラーに与えた。
ところが、ハーシェム本家の方は、1925年にアブドル・アジズによってヒジャ??ズから駆逐されてしまい、分家の方が今日まで残ることになった。
考えてみると、イスラム原理主義、アラブ民族主義、そしてパレスティナ問題がせめぎあう現代中東史の淵源は、このサウド、ハーシェム両家興亡の歴史に求められるのかも知れない。」
(自衛隊の部内紙(週刊)「朝雲」91.3.10の「募集譚」欄より転載。アブドル・アジズの「武勇伝」は、91年8月、当時の江口防衛政務次官に随行してエジプト(カイロ)、サウディアラビア(ジェッダ、リヤド)、及びアラブ首長国連邦(アブダビ、ドバイ)を訪問した際、サウディで聞いた話。なお、アラブ首長国連邦を訪問したのは、湾岸戦争の時の機雷を掃海するために派遣されていた海自部隊の視察・激励目的。)

2 「確執」についての補足
 時間もたったことですし、もう少し補足しておきましょう。

(1) サウド家
中東の近代史は、ワハブ(1792年没)が厳格なイスラム復古運動を開始し、1745年にこのワハブが、アラビア中央部の小部族の首長だったサウド家の当主と同盟関係を結んだ時から始まると見ることもできます。
ワハブ、サウド両家はその後通婚関係を重ね、この聖俗が一体となった「イスラム原理主義」勢力は、瞬く間に勢力を伸ばし、その「領土」はアラビア半島中・東部からオスマン・トルコ領のアラビア半島西部のヒジャーズ地方、更には同じくオスマン・トルコ領のイラク、シリアに及ぶことになります。恐惶をきたしたオスマン・トルコ政府は、半ば独立していたエジプトの太守モハメッド・アリに頼み込んで、1818年にこのワハブ派反乱軍を壊滅させます。
それにもかかわらず、ワハブ派の教義は全イスラム世界へと更に広がっていきます。
サウド家はその後一時復興してすぐまた衰退しますが、1912年にワハブ派の復興運動が起こると、この運動に乗じる形で引用文中で紹介したようにサウド家のアブドル・アジズ(イブン・サウドという略称もよく使われます)はサウド家の再興に成功し、1932年のサウディアラビア王国の創設に至るわけです。
ちょうどその頃、サウディの東海岸で石油の埋蔵が確認され、米国系資本によって油田が開発された結果、サウド家は宗教的権威と財力という絶大なパワーを併せ持つこととなりました。(フィリップ・K・ヒッティ「アラブの歴史 上下」(講談社学術文庫83年。原著は1930年)754-757頁、及びDavid Fromkin, A Peace to End All Peace-The Fall of the Ottoman Empire and the Creation of the Modern Middle East, Avon Books, 1989 PP424-426)
アブドル・アジズは第二次大戦後なくなりますが、その後、サウディの王座は、アブドル・アジズの大勢の息子が次々に後を襲い、現在ではハレド国王の後を継いだ弟ファハド国王の体調が優れないため、そのまた弟のアブドゥラ皇太子が国政全般を取り仕切っています。
最近のサウディはさまざまな問題を抱えています。一つには、人口が毎年4%も増え続けているのに、石油収入の方は、実質ベースで目減り傾向が続いており、2000名にのぼる王族の公金による浪費生活に対し、国民から厳しい目が注がれ始めていることですし、二つには昨年の同時多発テロ以降、サウディがオサマ・ビン・ラディン等のイスラム原理主義的テロリスト達を輩出させている非民主的国家である・・例えば、同時多発テロの実行犯19名中15名がサウディ国籍でしたし、パキスタン等のイスラム原理主義神学校の経費を負担しているのはサウディのチャリティー団体です・・として米国等の猜疑心が高まってきていることです。
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/DH10Ak01.html、8月10日アクセス。http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/2187300.stm、8月12日アクセス。http://www.nytimes.com/2002/08/12/international/middleeast/12SAUD.html。8月12日アクセス)

(2) ハーシェム家
 最初にハーシェム家の家系図をご覧下さい。

           <Hashemi(ハーシェム)家の略系図>
[Hejaz]   [Jordan]
Hussein―Abdullah―Talal―Hussein―Abdullah
             -Hassan
― ○―Hussein(Faysalの母方の従兄弟でHassanの父方の従兄弟)
          [Iraq]
―Faysal??―Ghazi―Faysal??

(注)左端から、Husseinの子がAbdullahとFaysal、そのAbdullahの子がTalalと○、といった具合に読む。資料源は()内はhttp://www.atimes.com/atimes/Middle_East/DG20Ak01.htmlだが、全般的にはhttp://www.kingabdullah.jo/hashemites/hashemites.html
 
一番最初に出てくるHussein(フセイン)が、引用文中に登場したヒジャーズ(Hejaz)地方の太守であり、その息子の、同じく文中に登場したAbdullah(アブドラ)、Faysal(ファイサル)等の兄弟とともに第一次世界大戦中の1916年、協商国側にたって英国等と戦っていた宗主国オスマン・トルコに反旗をひるがえします。(これが名高いアラブの反乱=Great Arab Revoltです。)
 そのご褒美として、大戦後、紆余曲折はありましたが、英国は兄のアブドラをヨルダンの、そして、文中では触れませんでしたが、弟のファイサルを(ヨルダン同様オスマン・トルコが放棄させられた)イラクの国王にすえます。
 英国がこのハーシェム家の二つの王国をつくったことで、サウド家(=ワハブ派復興運動)の全アラブへの勢力の伸張は挫折し、サウド家はサウディアラビア半島の中に封じ込められてしまいます。(J.E. Peterson, Saudi Arabia and the Illusion of Security, Adelphi Paper 348, IISS, 2002 PP61)
 さて、二つの王国のうちヨルダンの方は、1946年に英国からの完全な独立を達成しますが、英国の委任統治領当時からのアブドラ初代国王が暗殺された後、短期間のTaral(タラル)国王の治世を経て、英国のハロー校(有名なパブリックスクール)とサンドハースト英陸軍士官学校で教育を受けたフセイン国王の治世となります。1999年にはフセイン国王が死去しますが、死去直前にそれまでのHassan(ハッサン)皇太子(=フセイン国王の弟)に代わってAbdullah(アブドラ。やはり英国で教育を受けた)が後継に指名され、国王に即位して現在に至っています。
ヨルダンがサウディと違う点は、石油の出ない貧しい国である一方、立憲君主国であることです。(もっとも、立憲君主国としての実態を備えたのは1989年からと言ってよいでしょう
http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field(DOCID+jo0008) 8月13日アクセス)。)1967年の第三次パレスティナ戦争の結果、1948年の第一次パレスティナ戦争で獲得したヨルダン西岸を失いましたが、一貫してヨルダン国民の多数派はパレスティナ人、少数派はベドウィン人です。

 イラクの方は、ファイサル(一世)国王、Gazi(ガジ)国王を経て、1958年に至って革命が起き、当時のファイサル(二世)国王が暗殺されて共和制に移行します。そして、やがてフセイン大統領が権力を掌握し、現在に至っています。

 西はイスラエル及びヨルダン川西岸(パレスティナ)、東はイラクに接し、国内には多数派たるパレスティナ人を抱えるヨルダンは、西側(イスラエル/米国/英国)とアラブ過激派(パレスティナ/イラク)との間にはさまれ、基本的には親西側路線をとりながら、1991年の湾岸戦争の時にはイラク寄りの姿勢を打ち出す等、親アラブ過激派的政策をとりまぜるという綱渡り外交を強いられてきました。
 その綱渡り外交の幾多の失敗を乗り越えて、現在ではヨルダンは、米国からは経済援助と軍事援助を合わせて毎年4億ドル、またイラクからは石油を割引価格で提供してもらっており、その割引分が毎年3億ドル相当、と両陣営から貢がれる立場にあります。
http://news.ft.com/servlet/ContentServer?pagename=FT.com/StoryFT/FullStory&c=StoryFT&cid=1028185675978&p=1012571727102。8月12日アクセス)