太田述正コラム#5016(2011.9.26)
<戦間期日本人の対独意識(その12)>(2011.12.17公開)
 「ドイツの「快進撃」は、日本国民にイギリス敗北という希望を抱かせた一方で、恐怖感、警戒感を与えるものであったといえる。たとえば、頻りに礼讃されたドイツの科学技術は国民をかえって不安視させ、陸軍当局には、「日本にもドイツのような新兵器があるのか」、「日本の軍備は大丈夫か」等といった投書が続々と舞い込んでいたという。・・・
 しかし、何よりも国民を不安視させたのは、蘭印と仏印の問題である。オランダとフランスの敗退により、両国の東南アジアにおける植民地がクローズアップされてくる。資源面に不安を抱えていた日本にとって蘭印と仏印は魅力的であり、また「援蒋ルート」遮断のためにも仏印は戦略的に重要であった。日本政府はドイツに仏印に関して申し入れを行い、これに対してドイツは蘭印・仏印への不干渉を非公式に表明していたが、それが当てにならないことは、独ソ不可侵条約の経験により、明らかであった。英国を屈服させてしまった後にはドイツの立場が圧倒的に強くなることは明白であり、「不介入」政策の日本の発言力は無きに等しくなる。すなわち東南アジアがことごとくドイツの植民地になることが予想されたのである。それは日本にとって黙過できないことであった。したがって、何らかの形で欧州戦に「介入」し、蘭印・仏印についてドイツと話をつける必要が生まれてくるのであった。
 こうしたドイツに対する警戒心は、社説で明確に吐露されることはほとんどなかったものの、短評やコラム欄では散見された。・・・
 以上の如く、独軍の華々しい戦果は、ドイツを礼賛し期待する親独的な感情と、ドイツを危険視し警戒する感情の二つを生み出したのである。この一見相反するかに見える二つの政治意識が一体となって、対独提携論が生まれるのであった。
 流行語「バスに乗り遅れるな」のもと、ナチスのような強力な指導体制を求める近衛新体制運動が開始されるとともに、新聞紙上では、不介入方針放棄を求める「外交転換」論が叫ばれるようになった。」(92~94頁)
→ここは、岩村の分析に首肯できます。(太田)
 「こうした新聞論調は、対独提携に消極的な米内内閣の足を引っ張る役割を果たしたと推測できよう。陸軍の策謀により畑俊六<(注35)(コラム#4548)>陸相が辞職したのは7月16日、後継を得られず内閣が総辞職し、第二次近衛内閣が成立するのは7月22日であった。米内と親しい緒方が主筆を務める『東朝』でさえも、内閣末期には外交方針転換を求める記事を掲載していたのである。
 (注35)1879~1962年。一中、陸士、陸大。1939~40年:年陸相(阿部信行~米内光政内閣)。支那派遣軍総司令官、第2総軍(西日本防衛担当、司令部広島市)司令官。元帥。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
 <1940年>8月に入り、ドイツ軍の本格的なイギリス本土爆撃が開始されたが、・・・各紙はドイツ勝利に確信を持ち、ドイツが早急に英本土上陸作戦を行いイギリスを敗北させることを待望するのであった。実際には、9月15日の空中戦<(注36)>でドイツ空軍はイギリス空軍を打ち破れず敗退し、上陸作戦を延期するのであるが、紙面からはドイツ空軍敗退をうかがうことはできず、むしろ勝ち続けている印象を受ける。・・・
 『東日』<では、>ロンドン特派員の工藤信一良<(注37)>・・・がイギリスは簡単に屈服しないという見通しを何度も伝えたにもかかわらず、本社整理部が付ける見出しにはそれが生かされず、むしろ反対のニュアンスの見出しが付けられ<続け>た・・・。
 朝日新聞社は大阪で8月14・15日に編集会議を開催した。そこで<主筆の>緒方は近衛新体制運動支持の方針を打ち出すとともに、「最近の国際情勢では日本の国際政治の上に独伊の比重が非常に重くなつて来て居るのは事実で、日英同盟も廃棄されてゐる今日、独伊とも適当に連携するのは、防共協定の関係からも反対出来ない」という意味の「消極的な意見」を述べたという。そして出席者の誰からも異論が出なかったため、緒方の意見通りに社論が決定したのだという。・・・
 <すなわち、>新聞各紙は、ドイツの英本土爆撃が行われるころには、もはやドイツ勝利とイギリス敗北を自明のものとし、それを前提に不介入政策放棄を叫んでいたのであった。」(94~95、98頁)
 (注36)バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain)。「第二次世界大戦におけるドイツ空軍と<英>空軍の戦いのうち、ドイツによる<英>本土上陸作戦の前哨戦として<英国>の制空権の獲得のために行われた一連の航空戦」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%B3
は、ドイツによって1940年7月10日から開始された。1940年9月15日の空戦は、戦闘機620機、爆撃機500機で行われ、これを英空軍の630機の戦闘機が迎え撃ち、ドイツは57~61機、英国は29機を失い、英国の勝利に終わった。この日は記念日となって現在に至っている。ドイツは、その後も、夜間爆撃に切り替えつつも、英国への空襲を1941年5月まで続けた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Britain_Day
 (注37)1906~81年。京大卒。毎日新聞社に入り、1961年副社長。その間毎日オリオンズ球団の創設(1950年)につくす。1968年スポーツニッポン新聞社会長、1974年NHK経営委員会委員長、1978年プロ野球パリーグ会長。
http://kotobank.jp/word/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E4%BF%A1%E4%B8%80%E8%89%AF
→単に「新聞論調が」と書くのではなく、「世論及び世論を反映した新聞論調が」米内内閣の足を引っ張ったと岩村は正確に書くべきでした。
 また、米内内閣瓦解の岩村による説明は舌足らずです。
 帝国陸軍というより世論が「外交転換」を求めていたのに米内がそれを無視したことがその原因であり、畑について言えば、彼は自分の辞任を回避したかったのに、米内が裏切って・・より端的には、米内が政権を投げ出したかったので・・辞任させた、というのが実態であったからです。(コラム#4548参照)
 いずれにせよ、各紙が、その時々の世論に阿り、ドイツに係る情勢を歪めて報道し続けたことは嘆かわしい限りです。(太田)
 「1940年・・・9月27日にベルリンで日独伊三国同盟が調印されるに至った。・・・日本はこの同盟にソ連を加えて大陸ブロックを形成することにより、アメリカが日本の南進策に干渉するのを抑止しようと考えたのであった。
 各紙は号外を発行し、翌28日の朝刊では紙面のほとんどを同盟関係の記事で埋め尽くし、社説では同盟を大歓迎した。・・・このように同盟成立を大歓迎する『朝日』の紙面は、『新聞之新聞』から「親英色を一新した報道振りは近来ない大変化」と皮肉交じりの評価を与えられていた。・・・
 『読売」の社説は、「想へば日独伊防共協定成立の刹那からこれが広汎なる相互援助を目的とする条約にまで発展すべき必然性を内蔵してゐたのである」と述べ・・・た。しかし、<先に>述べたとおり、日独防共協定および日独伊防共協定成立時の『読売』は、協定をあくまでも「防共」の範囲のみにとどめようとしていたのだから、この説明は矛盾する。同紙が4年間で立場を大きく変化させていることが分かるであろう。・・・
 <もっとも、>同盟を批判しなかったものの、<米国との間で>今後予想される困難については、各紙とも認識していた。しかし、紙面全体が三国同盟への礼賛で埋め尽くされている中で、こうした社説の一部分が読者にどれだけ届いたのかは分からない。」(98~101頁)
→『読売』に至っては、自らの論調の歴史さえも歪めて恥じなかったわけです。
 このように、客観的国際情勢分析を怠るに至っていた当時の日本・・その中に、残念ながら帝国陸軍も含まれる・・が、日独伊三国同盟締結によって実現しようとした大陸ブロック構想が、ヒットラーの独ソ戦開始によって粉砕されてしまうことを予見できなかったのは当然のことでした。(太田)
(続く)