太田述正コラム#5018(2011.9.27)
<戦間期日本人の対独意識(その13)>(2011.12.18公開)
 「緒方は・・回想で、同盟に反対出来なかつた理由について、「事前に一切の報道と論議は禁ぜられ、発表と同時に詔書の弾丸は撃たれてしまつたのである」と述べている。すなわち、言論統制と詔書渙発である。
 三国同盟に関しては、同盟成立直後の9月27日に、内務省警保局から新聞記事取締要綱が「同盟通信社他七大新聞社」に伝えられた、そこでは、「日独伊三国条約締結ニ反対シ又ハ之ヲ誹謗スルガ如キ記事」が取り締まりの対象とされ、具体的に<取り締まりの対象となる例示を細かく挙げられていた。>・・・
 詔書は同盟成立とともに渙発され、各紙とも全文をうやうやしく掲載していたが、そこでは、・・・平和のために独伊と結んだと説明されていた。各紙が同盟成立に感激したのは、この詔書の存在が大きかったのである。詔書が出た以上、三国同盟を批判することは天皇の意志を批判することになるので、モラル的に非常に困難であった。・・・
 以上の二つの理由から考えれば、新聞が反対論を掲載できなかったのは仕方がないと言えるのかもしれない。しかし、前述したように、各紙はドイツの華々しい戦果をみて、米内内閣末期から対独連携を主張していたということを忘れてはならない。たとえ言論統制や詔書渙発がなかったとしても、新聞は同盟礼賛を繰り広げたであろう。緒方<は>「日本の新聞幹部の大多数は、これに反対であつたらう」と・・・回想<しているが、これには、>同盟成立以前の新聞紙面と照らし合わせると、いささか疑問を感じざるを得ないのである。」(101~102頁)
→戦前、自らの論調の歴史を臆面もなく歪めた『読売』(前出)、戦後、ウソをついてまでして、戦前の自分自身を含む新聞幹部達の「潔白を証明」しようとした『朝日』の大幹部、と日本の大新聞はまことに不名誉な過去を持っているものです。
 このような過去の体質を、現在の日本の大新聞も引き継いでいる、と思った方がいいでしょう。(太田)
 「<若干時計の針を戻すが、1940年半ばに>「外交転換」が叫ばれ・・・<た>時期、ダイヤモンド社の月間経済雑誌『経済マガジン』は、「大戦に介入か・不介入か?」を尋ねた「国民世論調査」の結果を発表した。読者から5万人を選び、大戦に関して日本が「軍事に外交に積極的行動」を行うべきかどうかを尋ねたのである。その結果は、65.6パーセントが何らかのかたちで欧州大戦に「介入」することを希望したのであった。この「世論調査」の信頼性については多少の疑問符もつくし、「介入」の定義が不明確であるという問題点はあるが、当時の日本人の政治意識を考える目安にはなるであろう。・・・
 以上のような、・・・世論の後押しもあり、日本の外交政策は再び対独接近の方針をとり、9月の日独伊三国同盟締結へと進むのであった。・・・
 <もっとも、>ドイツが「快進撃」を続けている時期においても、わずかではあるがヒトラー批判はなされていた。竹山道雄(一高教授)<(注38)(コラム#1019、2577、4013)>は、ドイツ勝利は世界を野蛮な中世に逆戻りさせるとして危惧を表明した。加田哲二<(注39)>や松沢勇雄<(注40)>(『ダイヤモンド』編集長)のように、中立国を侵犯するヒトラーのやり方を帝国主義的であるとして批判する者もあった。また蜷川新<(注41)>(駒大教授)は、親独主義を気取る一部の知識人に対して痛烈な批判を加えていた。
 (注38)1903~84年。一高、東大文卒。独仏留学。評論家、ドイツ文学者、小説家。一高教授、東大教養学部教授などを歴任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E9%81%93%E9%9B%84
 (注39)1895~1964年。ドイツに留学後、母校慶大の教授。戦後は日大教授、「読売新聞」の論説委員。著作に『近代社会学成立史』『日本社会思想史』等がある。
http://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E7%94%B0%E5%93%B2%E4%BA%8C
 (注40)著作に『国策会社論』(1941年)
http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E7%AD%96%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E8%AB%96-1941%E5%B9%B4-%E6%9D%BE%E6%B2%A2-%E5%8B%87%E9%9B%84/dp/B000JBNKP2
 (注41)1873~1959年。一高、東大法。外交官試験不合格。読売新聞記者を経て陸軍の国際法顧問、同志社大等の教授。文部省の思想善導事業に協力。戦後、公職追放。その後、論壇に返り咲く。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%B7%E5%B7%9D%E6%96%B0
 三国同盟に対しても、反対者は存在した。・・・永井荷風<(注42)や>・・・野上弥生子<(注43)がそうであり、その旨をそれぞれの日記に記している。>・・・
 (注42)1879~1959年。旧制中学卒。米国で「実業」勉強、その後フランス遊学。慶大文教授。小説家。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%8D%B7%E9%A2%A8
 (注43)1885~1985年。女学校卒。小説家。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%8A%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%AD%90
 <また、>石井菊次郎<(注44)(コラム#4464、4466、4500、4540、4561、4600)は、>三国同盟締結直前の枢密院本会議で、・・・ヒトラーは危険なマキャベリストであり、いったん約束したことも都合が悪ければそれを破棄することをはばからない。<ナチスドイツと>同盟を結ぶのは危険だと述べた・・・。・・・
 (注44)1866~1945年。大学予備門、東大法卒。駐仏大使、外務大臣、米特派大使(石井・ランシング協定を結ぶ)、駐米大使、駐仏大使/国際連盟日本代表、空襲で死去。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E8%8F%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
 当時の日本社会では、概して外交を道義や信頼関係で考える傾向があり(平沼内閣のスローガンの一つは「道義外交」であった)、同盟を目的達成のための手段に過ぎないと見なすマキャベリストについては、負のイメージしかなかった。・・・
 しかし、こうした三国同盟反対論は、ジャーナリズムの表舞台に表れることはほとんどなかった。」(128~131頁)
→幕末における薩長等の雄藩のマキャベリスティックな行動を思い起こせば、先の大戦前における「外交を道義や信頼関係で考える傾向」は、日本に、その後、大きな変化が起こったことを示しています。
 幕末から明治・大正期にかけての日本は、弥生モードであり、軍事を重視しつつ、積極的な対外政策を展開したところ、そうは言っても、欧米と同じような利己主義的な対外政策を遂行したのではなく、縄文モード的(人間主義的)な対外政策を遂行しました。
 そのような対外政策が、うまく行ったように見えたことが成功体験となり、次第に日本の対外政策は硬直化し、激動の戦間期(日本では昭和初期)において、それをより冷徹なものへと切り替えることを不可能にしてしまった、と言えそうです。 
 この頃、日本の社会全体が縄文モードへと回帰しつつあったことも忘れてはならないでしょう。
 こうして、当時の日本の朝野は、人間主義的に世界を見ていたため、ナチスドイツの裏切り(対ソ侵攻)すら想定外であったわけですが、英米、就中英国が陰謀によって日本を先の大戦に引きずり込むなどということは、およそ彼らの想像を絶することであったに違いありません。(太田)
(続く)