太田述正コラム#5032(2011.10.4)
<戦間期日本人の対独意識(その19)>(2011.12.25公開)
 「<次に、>馬場恒吾のナチス・ドイツ批判<についてである。>
 馬場恒吾<(注65)>(1875-1956年)は、・・・著名な評論家で・・・議会政治を擁護し、軍国主義に抵抗したリベラルな議論<を展開した。>・・・
 (注65)東京専門学校中退後、英字紙『ジャパン・タイムズ』に入社。1909年、ニューヨークで月刊誌『オリエンタル・レヴュー』編集長。1913年帰国。翌年『国民新聞」に入社して外報部長・政治部長・編集長を歴任。1924年に退社後、終戦後まで政治評論家として活動。1945年に正力松太郎の後を受けて読売新聞社長に就任し、いわゆる「読売争議」の収拾にあたった。(242頁)
 <彼は、>『文藝春秋』1937年1月号に掲載された「日独協定の反響座談会」・・・で、日独防共協定に対する批判的姿勢を明瞭に打ち出した。そして、「デモクラシーと軍国主義とどちらが強いかといふことは、欧州大戦で試験済みぢやないか。独裁政治といふものは畢竟するに壊れるよ」と発言し、ナチス・ドイツは日本が手を結ぶべき相手ではないと示唆したのである。・・・
 しかし、昭和初期の日本国内では、社会の閉塞状態打開のために、英雄的存在の登場を待望する傾向が生まれつつあった。それはやがて、ムッソリーニやヒトラーへの礼賛、「指導者原理」に基づく独裁政治待望論へとつながっていく。・・・」(223~224頁)
→「それはやがて」から始まる最後のセンテンスには典拠が付されていません。
 恐らく、典拠は求めても得られないでしょう。
 それもそのはずであり、日本のような自由民主主義的国においても、「社会<が>閉塞状態<に陥った時>」、すなわち有事においては、トップダウンの政治が求められるというのが生理であるところ、そのことは、「「指導者原理」に基づく独裁政治」とは無縁なのであり、既に歴史によって明らかになっている通り、日本は、自由民主主義に反する「「指導者原理」に基づく独裁政治」とは無縁であり続けたことはもちろん、先の大戦中においてさえ、日本の日本型政治経済システムとは相容れないことから、トップダウンの政治がまともには確立しなかったわけです。(太田)
 「当該期の英雄待望論として代表的な著作は、鶴見佑輔『英雄待望論』(・・・1928年)であろう。同書は、・・・ベストセラー<とな>った。鶴見は次のように言う。人口問題を抱える日本民族は、世界へ膨張していかなければ生きていけない。そのためには、新しき偉大なる時代を建設すべき偉大なる天才が登場し、行き詰った日本の現状を打開しなければならない、と。・・・
 鶴見・・・には、困難な時代において政治の進むべき方向を誤らせないためには、優れた人物が民衆を啓蒙し指導しなければいけないという考えがあったとされている。しかし馬場はこれと反対に、凡人が良心に従って知恵を出し合い、悪戦苦闘することによって社会は進歩するという考え方をもっていた。「人類世界の進歩は政治家の指導原理では結局駄目で、人民の良心を標準とする政治を行ふことに依つて初めて希望が生ずる」という信念を持っていたのである。」(225頁)
→ここも、馬場の方が間違っています。
 危機においては、「凡人が良心に従って知恵を出し合い、悪戦苦闘」しておれば、破局へまっしぐらだからです。
 なお、鶴見の「世界へ膨張」というのは、植民地獲得を意味するのではなく、英米列強によってブロック化された体制の打破を意味している、と受け止めるべきでしょう。(太田)
 「1933年にヒトラーがドイツ首相の座について政権を掌握すると、馬場はさっそく『中央公論』に「ヒトラー論」を寄せた。・・・
 馬場の結論は、「経済的に疲弊困憊した国には種々の畸形な政治家が出る。ヒトラーも亦大戦にたたきのめされた独逸の特殊の社会状態が産んだ所の特殊な政治家たるに過ぎない」ということであった。・・・<このほか、馬場は、>ヒトラーのユダヤ人迫害や資本家との癒着を批判的に捉え<ていた。>・・・
 <この点と、上述の>ヒトラーの・・・政治家としての実力を過小評価する見方は当時の論壇に共通する傾向であった・・・が、馬場もその例に洩れなかったのである。」(227頁)
→ここも、私は、岩村とは見解を異にします。
 馬場のヒトラー畸形政治家論は、ヒトラー過小評価論とは必ずしも言えないのであって、その限りにおいては正論である、と思うからです。(太田)
 「しかし、のちには馬場も、こうした考えを修正せざるを得なくなる。・・・
 馬場は『文藝春秋』1936年6月号に、「権力に酔ふもの」と題した論文を寄稿した。ここで馬場は、・・・以下の二つの点においてヒトラーを評価してみせた。
 第一に、ヒトラーが大衆の心を掴み、熱狂的支持を得ることに成功している点である。ナチス党大会の記録映画・・・を見た馬場は、・・・一緒に見た友人に向かって、「これほどデモクラチックな政治家は外に何所にもない。大衆の面前に身を曝らす、大衆と共に動き、そして大衆を動かす。・・・」と語ったという。・・・
 第二の点は、ヒトラーが「合法的な議会政治の法式に依って其勢力の基礎を築いた」点である。・・・
 しかし、独裁者が大衆の熱狂的支持に支えられるのは、ヒトラーに限らず、よくある話である。また、ヒトラーが議会での勢力拡大に努め、その当時において合法的な手段で政権の座に就いたことは事実であるが、他方で突撃隊による暴力行為は頻発していたから、ヒトラーの非暴力性を強調する馬場の見解は一面的にすぎるといえよう。」(228~229頁)
→岩村と違って、私なら、ヒトラーが政権の座に就くまでの突撃隊の暴力行為よりも、就いた後の全権委任法(Enabling Act=Ermachtigungsgesetz)の暴力的成立による憲法と議会の事実上の停止
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%A8%A9%E5%A7%94%E4%BB%BB%E6%B3%95
http://www.encyclopedia.com/doc/1O46-Ermchtigungsgesetz.html
の方を問題にするでしょう。
 なお、これはヒトラー一人の罪というよりは、当時のドイツの自由民主主義が日本と違って未成熟であった・・「ヒンデンブルク大統領は議会を重視せず、国家緊急権である大統領緊急令(ヴァイマル憲法第48条)を多用することで政治運営を図った。1931年には大統領緊急令の数が国会採択<法律数>を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5に留まっている。こうした権威主義体制は、議会制民主主義に失望する大衆の支持を集めていった。これらのことは、既に全権委任法以前から反議会主義的な世論が形成されていたことを示している。」(同上)・・ためでもある、と認識すべきでしょう。(太田)
 「ヒトラーはさらに、1939年8月にソ連と不可侵条約を結んで世界を驚かせ、9月にはポーランドに<侵攻した。>・・・しかし英仏は宥和政策を放棄して対独宣戦布告を行い、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされたのである。・・・
 馬場は既にこの4年前に、次のように述べていた。国内人気維持のために外国に向かって無理な見得を切るヒトラーは、結果的に戦争をもたらすであろう。独裁政治ほど戦争を挑発する傾向のあるものはない、と。馬場の予言が的中したのである。・・・
 馬場は、雑誌『改造』に「ヒトラアとチェンバレン」、『大陸』に「欧州の悲劇」と題した評論を寄稿し、大戦勃発はヒトラーにとって誤算、失敗だったと論じた。それは第一に、英仏の戦争をも辞さないという覚悟を見抜けなかった点であると馬場は言う。・・・第二の誤算は、独ソ不可侵条約によって防共枢軸を破壊したことであると馬場は言う。ヒトラーはソ連を味方にした代わりに、「防共友邦」を失った。イタリアはともかくとしても、「日本とのよりを戻すことは殆んど不可能である」と馬場は断じた。
 ・・・馬場は<また、>・・・ナポレオンの敗北を「平凡な民衆が英雄に勝ったのである」として、英雄ヒトラーも敗北するだろうことを示唆している。前述の如く、「畢竟するに独裁主義は壊れる」との信念を持っていた馬場は、ドイツの敗北を確信していたであろうと推断される。」(230~232頁)
→比較的最近まで、ナポレオンのロシア遠征の失敗を「平凡な民衆が英雄に勝った」ことに求める見方ばかりであったので、必ずしも馬場を責められませんが、この遠征の失敗は「エリート達が英雄に勝った」ことに求められる、というのがより実態に即していた(コラム#3942)のであり、馬場の見解は誤りです。
 また、馬場は、「平凡な民衆」という言葉でもって民衆の力を結集できる戦間期の自由民主主義国家たる英仏を連想しているようですが、仮に馬場の見解通り、ナポレオンのロシア遠征の失敗を「平凡な民衆が英雄に勝った」ことに求めることができたとしても、ナポレオンと戦った当時の専制国家ロシアでさえ、民衆の力を結集できたことになりますから、一体全体、馬場が何を言いたかったのか、訳が分からなくなってしまいます。
 むしろ、民主主義独裁国家や自由民主主義国家は民衆の力を結集して戦争を行うことができるけれど、専制国家にはそれはできない、と考えるべきでしょう。
 ただし、民衆の力を結集したところで必ず戦争に勝つわけではありません。
 実際、ナショナリズムという民主主義独裁国家の(ナポレオン率いる)フランスが専制国家のロシアに敗北したところです。
 遡って、馬場の、「独裁政治ほど戦争を挑発する傾向のあるものはない」という見解もまた、必ずしも正しいとは言えません。
 フランコ率いるファシスト・スペインは、全く戦争を挑発することはなく、先の大戦にも中立を通したことを想起しましょう。
 結局、馬場が、ヒトラーが戦争をもたらすであろうこと、そしてその戦争に敗北するであろうこと、を予想し、その予想が二つとも当たったとしても、それは、どちらもまぐれあたりに他ならなかった、と言うべきでしょう。
 ですから、馬場を評価している岩村に、私は到底同調することはできません。(太田)
(完)