太田述正コラム#5034(2011.10.5)
<歴代の駐日英国大使(その1)>(2011.12.26公開)
1 始めに
 引き続き、XXXXさん提供の、今度は、サー・ヒュー・コータッチ編著『歴代の駐日英国大使』(文眞堂 2007年)の抜粋からの紹介(私のコメント付き)をお送りしましょう。
2 イアン・ニッシュ 「第II部 同盟から疎遠化まで 1900~1941年 序文」
 「日英同盟には必然的に政治的、戦略的な面があったが、1923年に条約が終結した以降は、二国間の関係は益々商業的になる傾向があった。今までは商業的な面は、条約港に駐在する領事たちが大部分おこなっていた。しかし1920年代以降は、大使館の中に商業部門を設ける必要が生じた。商務省と外務省の間の合弁事業として1917年にロンドンで創設された海外貿易局から働き手が派遣された。・・・商務参事官と呼ばれるようになったこの人たちの中でも最も卓越したジョージ・サンソム<(コラム#4386、4388、4392、4582、4583、4584、4585、4726、4740)>は、商務部に属するようになったことを如何に喜んだか語っている。それによって彼は「自分で采配を振るい、自分自身の時間は自分で処理し、誰にも相談しなくてよいという大いなる独立性」を与えられたのである。商業的問題は次第に政治問題になりつつあったが、外交官たち、特にエリオット<大使>は、商業の問題の核心には興味を持っていなかった。・・・
 さらに1934年の英国産業連盟使節団と、その翌年のサー・フレデリック・リース・ロス(Sir Frederick Leith-Ross)<(コラム#4685、4687、4693、4699)>の使節団のような重要な商業上、財政上の使節団があり、さらに大使館には海軍武官と陸軍武官が派遣されており、1930年以降は空軍武官と報道官が追加された。これら側近の専門家たちの報告を調整し、個々の意見を融和させることは<困難>・・・であった。・・・
 中央官庁は当時の大使の判断よりも、1934年と1939年に賜暇で<本国に>戻ったジョージ・サンソムの判断を時として受け入れる傾向があった。東京の大使たちが政策に基本的な影響を与えたことは、滅多になかったと結論づけざるをえない。そして彼らの意見はどれほど良く記述されていても、無視されることがしばしばあった。」(171~173頁)
→前半は、「経産省の仕事自体が、(米国の商務省や通商代表の地位の低さが示しているように、)国の仕事としては「軽い」」(コラム#2975、5023)に通じる話ですね。
 後半の話は、国と国の関係が総体化、複雑化するとともに、国と国の間の移動、通信手段が発達するにつれて、外務省の仕事が困難となる、というより外務省の存在意義が減少する傾向の先駆現象である、と言えそうです。(太田)
3 イアン・ニッシュ 「サー・クロード・マクドナルド 駐日公使・初代大使 1900~12年」
 「マクドナルド<(注1)>・・・は日本で1900年から1905年まで、最初は公使として駐在し、次いで日英両国がお互いに公使館を大使館に昇格することを合意したとき、その初代の大使に就任した。そして1912年に引退するまで、その地位を保持していた。・・・
 (注1)Sir Claude Maxwell MacDonald。1852~1915年。「アピンガム[Uppingham School]校とサンドハースト王立陸軍士官学校に学び、1872年にイギリス陸軍のハイランド軽歩兵連隊[74th Foot]の将校に任命され、1882年にエジプトでアラービー=パシャの反乱(1882 Anglo-Egyptian War[=Egyptian campaign of 1882])が起きると、陸軍省の代表としてカイロに派遣されている。その後、イギリスの保護領であったザンジバル島総領事やニジェール・デルタ(当時はオイル・リヴァーズといった)総領事を務めた。1892年、ナイトの称号を授与され、エセル夫人と結婚した。
 陸軍を退職した後、1895年にソールズベリー内閣より北京駐在公使に選任され、1900年までその任にあった。[現在、支那とパキスタン/インドとの国境線となっているマッカートニ-マクドナルド線(Macartney-Macdonald Line)を起案。]・・・1900年の義和団の乱では各国の公使館が包囲され、軍隊経験があったマクドナルドは日本公使館の駐在武官であった柴五郎中佐らと協力して、各国の駐在者による篭城戦の指揮をとった。
 1900年10月に前任者のアーネスト・サトウとポストを交換して、北京から直接、駐日イギリス公使に赴任した。・・・1906年に枢密顧問官[Privy Councillor]に任命。・・・夫人のエセル・マクドナルドは慈善活動を活発に行い、1935年に自身の功績によって大英帝国勲章(DBE)を授与され、1941年に亡くなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89
http://en.wikipedia.org/wiki/Claude_Maxwell_MacDonald ([]内)
 マクドナルド<と彼の>夫人<の>二人は<北京の>公使館でお客を歓待する伝統を確立し、それは東京の公使館へと引き継がれた。・・・
 <ただし、>彼は日本で10余年もの間、それ以前の北京時代の4年間も含めて、日本の諸情勢に親しく関与してきた<が、>彼は日本語の知識がなく、それを覚えようとしたこともなかった・・・。・・・
 <他方、日露戦争中、>マクドナルド夫人は日本赤十字社での奉仕活動や陸海軍兵士の家族のための慈善行事をおこなって、大いに評価を高めた。・・・
 日本の閣僚たちが英国大使館を度々訪問したこの時代は、大使館として異例な時代であった。陸海軍の将官たちが玉突きをしに訪れたし、日本の社交界の名士の多くが、大使館で催されるパーティーを大いに楽しんだ。・・・
 マクドナルド夫人は模範的な大使夫人であった。容姿に勝れ、その物腰は人当たりがよく、利口で如才なかった。彼女は気前良く人びとをもてなし、持ち前の親切心と思いやりから、日本にいる英国人のすべて・・・から慕われていた。
 マクドナルド夫人は機知に富んだ人として<も>有名であった。・・・
 <日英>同盟締結の交渉は、意外なことに両国とも古参政治家によって引き延ばされたにもかかわらず続行された。つまり日本の場合、伊藤<博文>は英国との同盟成立に不本意であったが、最終的にはロンドンへ行って証人の判を書類に押すことに同意した。そして英国の場合はソールズベリー首相も同様に、日本と掛かり合いになるような危険の多い公約を結ぶことに不本意であったが、彼の考えは自分自身の内閣において少数意見であった。結局、同盟協約は1902年1月30日に調印され・・・た。・・・」(176~177、181~182、184、188~189頁)
→10余年日本にいて日本語を覚えようとしなかったというのですから、マクドナルドが取り立てて優秀な外交官であったとは思えません。
 そんな彼であったからこそ、駐日大使の言うことなど本国は顧慮しない、という「伝統」が形成されたのではないでしょうか。
 ただし、内助の功のおかげで、駐日英大使館と日本の指導層との関係は極めて良好で、日英友好関係が維持されたと思われるのであり、英国政府はマクドナルドを長期にわたって日本に駐留させた理由はそこにあったと考えられます。
(続く)