太田述正コラム#5052(2011.10.14)
<戦間期の排日貨(その3)>(2012.1.4公開)
 「1931年、中国では国内情勢、対外関係とも非常に不安定であった。国内では、蒋介石が引き続き掃共戦と党内抗争に没頭していた。・・・蒋介石は対立者であった胡漢民<(コラム#4948、4986)>を、2月28日、南京で自宅軟禁とした。汪兆銘<(コラム#219、234、922、1820、1859、3310、3774、3780、4010、4079、4376、4494、4711、4724、4740、4940、4946、4948、4950、4958、4968、4976)>、孫科<(コラム#4986)>らは蒋介石への過度の権力集中を批判し、南京を去った。5月には広州国民政府が樹立され、国民政府の分裂は1932年1月下旬まで続いた。さらに旧軍閥勢力や地方勢力は依然独立的または半独立的な地位を維持していた。
 一方、1928年12月29日の張学良政権による易幟以来、日本に対する中国の抵抗は東北部においても力強いものとなっていた。緊張と摩擦の一つの焦点は鉄道問題だった。中国が南満州鉄道(満鉄)に並行して走る鉄道を建設した<(注5)>ために、経済不況とも重なって、満鉄の収入は1929年以降年々半減していた。緊張のもう一つの原因は、東北地方への朝鮮人の移住であった。中国はこれを日本帝国主義の尖兵と見なしたが、日本は朝鮮の独立運動が中国の反日運動や共産党の活動を結びつくことを懸念していた。さらに、ソ連の発展が中国、朝鮮、日本の革命運動に及ぼす影響も脅威と考えられていた。・・・」(217~218頁)
 (注5)「1905 年12 月12 日に日清間で締結された・・・「満洲に関する条約附属秘密議定書」の第3条がいわゆる満鐵平行線禁止規定となっている。条文は次のとおり。
 「清国政府ハ南満州鐵道ノ利益ヲ保護スルノ目的ヲ以テ該鐵道回収以前ニ該鉄道ニ近ク若シクハ之ト併行シ該鐵道ノ利益ヲ害スル虞アル他ノ鐵道ノ本線又ハ支線ヲ施設サセルベキコトヲ約ス」・・・
 芳井研一は、「第二次幣原外交の採った鉄道政策は、それ以前の吉敦延長線敷設などの個別交渉が頓挫したことを踏まえて一括方式による交渉の再開を政治的にはかるという方針であったが、そのことが却って中国側の疑心を増幅させ、結果として日本側の政策を硬直化させることになった。中国側が熱心に自弁鉄道を敷設しようとする状況のなかでは、仙石満鉄総裁が求めたような経済的アプローチも一つの選択肢であった。幣原外交はそれでは、『満蒙特殊権益』を維持できなくなるとして、あえて問題を政治化することによって解決をはかろうとしたのである。そのため中国側の反発や大新聞の満鉄包囲網キャンペーンに直面して身動きが取れなくなった」と整理している。そしてこの身動きできない状況の中から満州事変が引き起こされ、幣原外相も陸軍に引きずられていく中、鉄道問題の「解決」がはかられることになったのである。」
http://www.nagaokauniv.ac.jp/m-center/syogai/pdf/nenpo12/12_007-013.pdf
→幣原は、満州を除く支那においては、揚子江流域を中心に利権を持つ英国の相対的衰退にいわば付けこむような形で、経済的アプローチを行い、政治的アプローチ(≒軍事的アプローチ)を排するとともに、満州においては、日本が利権を持っているからとして、経済的アプローチを排し、政治的アプローチ(≒軍事的アプローチ)に固執したわけですが、これぞ、利己主義的なご都合主義外交の最たるものと言えるでしょう。
 そのため、幣原は、第一次幣原外交の時に日英関係を破綻させてしまったところ、全くそのことに無自覚なまま、第二次の時にも、第一次の時と同様の利己主義的なご都合主義外交を推進したため、外務省は、日本の世論、帝国海軍(後出)、帝国陸軍から、完全に浮き上がり、見放されてしまうのです。(太田)
 このような状況下、1931年7月2日には万宝山事件、4日から7日にかけては朝鮮事件が起こり<(注6)>、上海などでは排日貨が復活した。
 (注6)「・・・日本の主張 – ・・・朝鮮人が取水口から20里にわたる用水路を作った。(朝鮮語版では作成したのは日本)
7月2日、武装した満人農民約四百人と対峙した日本警察約60人が暴徒に対して発砲
中華民国資料 死者0
日本の主張 – 7月2日に朝鮮日報長春支局記者金利三が200人が万宝山で死亡の報道 その後死亡者数を800人以上と報道の号外
7月5日平壌在住中国人が襲われ、死者37名、重軽傷者93名
7月14日 朝鮮日報長春支局記者金利三、誤報であったとして謝罪訂正記事発表。
7月15日 金利三、日本警察巡査(朝鮮人 朴昌厦)に殺害さる。
その後(ママ)、破壊水路の復旧工事は何の妨害もなく進捗し、7月11日に完成して通水され、堰堤手直し工事も進められた。<日本の>領事は「鮮農五十余名は歓喜して万歳を連呼し我等は永久にこの地を死守すべしと絶叫するものあり」と報告した。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 万宝山は、中国の東北地方、長春の西北郊外である。ここで1931年4月以来、移住してきた200余名の朝鮮人農民と中国人の地主や農民の間に灌漑水路をめぐる争いが続いていた。・・・
 7月・・・2日には、中国人農民と・・・派遣された日本人警官<(注7)>の間の銃撃戦にまで発展したのである。
 (注7)満鉄沿線であったので日本人警官が派遣され得たのであろうか。
 この万宝山事件が引き金となって朝鮮で反中国暴動が起こり、ソウル、平壌などの都市で報復として119人の中国人が殺され、200人以上が負傷した。・・・<うち、>平壌<だけで>112人が殺された。・・・
 上海では朝鮮での華僑迫害は日本の教唆によるとの報道がなされ、排日貨が復活した。・・・
 当時、国民党員や中国人商人の間にはいくつかの異なった意見があった。南京国民政府は排日貨から距離を保ち、運動は上海で指揮される私的なものであると強調した。・・・
 南京の姿勢とは全く対照的に、上海市国民党部は反日会に参加して運動を指揮することを決定した。ただし、指導団体として参加するのではなく、個々の党員が積極的な役割を果たすということであった。
 上海の中国人実業家<に関しては、>・・・<単に、>自国産業育成、国産品使用の奨励<を追求する>・・・商業界の古くからの名士たちと、国民党を支持する・・・急進的<で>・・・民族主義的<な>中小商人との間には溝があった。・・・
 8月・・・5日、・・・金曜会は・・・中国に対する強硬抗議を公使と総領事に要請することが決定された。14日、この主旨の嘆願書が・・・上海日本商工会議所会頭から村井<(注8)>総領事を通じて幣原<外相>に送られた。・・・
 (注8)1888~1953年。東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒。外交官、政治家。「長春領事官補<から始まり、>上海総領事、シドニー総領事などを務め、上海総領事時代には、上海天長節爆弾事件に遭い、重傷を負った。1940年(昭和15年)シャム公使(駐タイ公使)を最後に退官した。1951年・・・に八戸市長に就任したが、任期途中で死去した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E5%80%89%E6%9D%BE
 済南事件をきっかけに始まった1928~9年の排日貨の開始当初、金曜会は一時的にせよ海軍力の行使を強く求めた・・・<ものの、それが>実現することはなかったが、1931年の海軍は、1928~9年より積極的であった。・・・
 上海<を拠点にしていた帝国海軍部隊は、>1930年12月1日以来その職にあった・・・塩沢幸一<(コラム#4612、4614)>海軍少将<率いる>第一遣外艦隊<だった。>・・・
 海軍兵学校32期卒業の際に、塩沢は堀悌吉<(注9)>に次いで2番の成績をおさめた。堀は・・・ロンドン海軍軍縮会議<におけるバリバリの>・・・「条約派」と見なされて<いたのに対し、>・・・塩沢は・・・「艦隊派」<とまでは言えないが、>・・・少なくとも「条約派」の中心人物ではなかった。・・・<ちなみに、>堀が1934年に失脚したのに対し、塩沢は最終的には大将、軍事参議官まで昇進したのである。・・・」(218~223頁)
 (注9)1883~1959年。「艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられる。第3戦隊司令官、第1戦隊司令官を歴任し1933年・・・に海軍中将に昇進したが、翌1934年・・・、艦隊派が主動したいわゆる大角人事により予備役に編入された。このとき・・・同期生の・・・山本五十六は”巡洋艦戦隊と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか”と嘆き、自らも海軍を退くことを考えたという。しかし堀は山本を励まし思いとどまらせた。1936年・・・1月、政府は堀が尽力したロンドン海軍軍縮条約からの脱退を通告する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%82%8C%E5%90%89
→今度の排日貨も、要するに中国国民党政府による排日貨であったわけですが、相手が政府であろうと私人であろうと、違法、不当な行為が在支日本人に対して行われた場合、出先の日本の外交官は、その場に正当な権限に基づいて所在している日本軍の実力を背景に、断固として、違法、不当な行為の排除に邁進すべきなのに、それをほとんど行おうとしなかったのですから、外務省が在支日本人から浮き上がり、見放されてしまうことになったのは当然のことでした。
 当時の外務省は、中央(幣原)も出先も、無能の極みであった、ということです。(太田)
(続く)