太田述正コラム#0065(2002.10.14)
<分かれる対イラク戦の評価>

<第一部:始めに>

米国等による来るべき対イラク戦の目的が大量破壊兵器の除去までなのか、それともフセイン体制の変革を含むのか、仮に前者であったとしても、武力行使を認める国連決議がなければ、先制攻撃(Preemptive Attack)ないし 予防的自衛(anticipatory self-defense)であって国際法(国連憲章)違反だ、後者であれば国連決議があろうとなかろうと国際法(国連憲章)違反だといった議論が欧米諸国の間で口角泡を飛ばして行われています。

欧州では、国際法違反説を唱える政府が多く、例外はわずかにイタリア、スペイン、ポーランド、チェコの四カ国だけですが、逆にアングロサクソン諸国政府で国際法違反説を唱えるのは、(アングロサクソン文明と欧州(フランス)文明が国内で並存する)カナダくらいのものです(http://news.ft.com/servlet/ContentServer?pagename=FT.com/StoryFT/FullStory&c=StoryFT&cid=1033848939956&p=1012571727085。10月12日アクセス)。 まさに、「欧州人の最大公約数的な特徴は、米国の政策、とりわけ中東政策、就中イラク政策に対する反感にある」という状況を呈しています(http://www.nytimes.com/2002/10/13/magazine/13EUROPEAN.html。10月12日アクセス)。
そこへもってきて、(国際法違反説を唱える)カーター元米大統領にノーベル賞を授与したノルウェーのノーベル賞委員会の委員長までが公然と米国政府を批判し、一石を投じました(日経2002.10.12付朝刊6面)。

米英等のアングロサクソン諸国の人々は、国際法(International Law)という言葉からして英国の19世紀の哲学者ジェレミー・ベンサムの造語であるし、戦時国際法のサブスタンスは19世紀後半の米国の南北戦争の過程で形成されたのであり、また、第一次世界大戦後にできた国際連盟も、先の大戦後にできた国際連合も米国の創作物に他ならない(http://www.guardian.co.uk/bush/story/0,7369,756135,00.html。7月16日アクセス)と考えています。
そもそもイラクという国自体、英国が、第一次世界大戦後、敗戦国たるオスマントルコに放棄させた旧オスマントルコ領のうち、モスル、バグダート、バスラの三州を合体させて人工的に造った英国の国際連盟委任統治領が起源です(松井茂「イラク 知られざる軍事大国」(中公文庫1991年 18、23頁)。
しかも、「それを言っちゃあおしめえよ」なのですが、もともと、親ソ的なカシム政権を倒すためにバース党を積極的に援助して1963年に同党による最初のクーデターを決行させ、バース党を一旦イラクの政権の座につけた張本人は米国(のCIA)です(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/2694885.stm。2003年1月26日アクセス)。(もっとも、数ヶ月たたない内にカシム政権が復活し、フセインらは投獄・逃亡生活を余儀なくされます。その後1968年に至って二度目のクーデターが成功し、ようやくバース党によるイラク支配が確立することになるのです(http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/middle_east/02/iraq_events/html/activist.stm。2003年1月26日アクセス)。
とすれば、対イラク戦の準備を着々と進めている米国や英国の多数派の人々、とりわけ政府関係者からすれば、対イラク戦が国際法違反だなどといったそしりを受けるのは、まことに片腹痛いことでしょう。

このような感情論が噴出する中、アングロサクソン諸国の政府関係者で、あえて対イラク戦は国際法違反だとする論者がいないわけではありません。例えば、英国の法務長官と法務次官は、ブレア首相に対して政権交代のために戦争を行うことを国際法は認めていないという内容の勧告書を提出しました(Financial Times 2002.10.7。http://j.people.ne.jp/2002/10/08/jp20021008_21996.htmlより孫引き。10月8日アクセス)し、現カンタベリー大司教と次期カンタベリー大司教指名者の二人を含む、イギリス国教会の約50名の司教達が、イラクが国際平和に差し迫った脅威を与えていない以上、対イラク戦の遂行は国際法と神学的正戦理論に抵触すると訴えたところです(http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,808968,00.html。10月10日アクセス)。法務長官にせよ、カンタベリー大司教にせよ、そのどちらも、イギリスの権威ある公職者(・・カンタベリー大司教はイギリス国教会の長たる女王が任命します・・)ですから、彼らの意見を無視するわけにはいきませんが、所詮は(法に従って紛争を平和裡に解決することが商売の)法律家と(命を尊び平和を追求するのが身上の)聖職者の主張であり、相当割り引いて受け止めるべきでしょう。

それにしても、アングロサクソン諸国の政府はおおむね合法説を当然視しているのに対し、欧州諸国の政府では国際法違反説が多数を占めているのは何故なのでしょうか。

結論は、私がかねてから力説しているところの、近現代史を貫くアングロサクソンと欧州の二つの文明のせめぎあいの一環だということなのですが、手順を踏んでその結論に到達することにしましょう。

<第二部:対立の構図>

まず、対イラク戦国際法違反説の論拠のおさらいをするところから始めましょう。

国際法違反説は、国際法のタテマエを重視し、
1 武力の行使(武力による他国への介入=Armed Intervention、を含む)は、国連憲章51条によれば、以下の場合に限って許される。
(1)その国が他国から侵略(Armed Aggression)を受けた時において・・(「侵略」とは、国連総会決議3314号(1974年)によれば、「武力による他国の主権、領域保全、または政治的独立の侵害」をいう。なお、侵略が実際に行われていなくても侵略が差し迫っておれば(=imminentであれば)足りる。)
(2)国連安全保障理事会によって必要な措置がとられるまでの間・・
(3)個別的又は集団的自衛権を行使すること・・(ただし、「これらの措置は、侵略に対して比例的なものでなければならず、また侵略を終わらせるために必要なものでなければならない。」(国際司法裁判所のニカラグアに関する1986年6月27日判決))
2 ただし、それ以外に例外的に、人道支援の一環として、人類の受難を防止し、「生命と健康を守り、人間の尊厳を確保する」場合、武力の行使が許されることがあるが、それは「国際赤十字の活動を念頭に置いた、無差別的な支援でなければならない」(同上判決)。
3 対イラク戦は、1、2の要件のどちらもみたしておらず、国際法(国連憲章)違反である。
と指摘します。
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/DJ09Ak02.html。10月9日アクセス)

これに対し、(本コラムの冒頭近くでアングロサクソン的感情論のご紹介をしましたが、)合法説は次のように指摘します。

1 国際法をホンネで語ろう
 (1) 国内法では法の前の平等が大原則ですが、国際法では必ずしもそうではありません。国際法は、覇権国を始めとする世界の強国が中心となって形成、維持し、修正し、更に発展させて行くものであることから、理の当然として、「国際法による強国の拘束度は弱く、強国中の強国たる覇権国は、自らの死活的利害に関わるような場合は国際法に拘束されない」ことにならざるをえません。
国連憲章が、核保有軍事大国である(米国、英国というアングロサクソン諸国を含む)五カ国を安全保障理事会の常任理事国とし、それぞれの国に安全保障理事会の決議に対する拒否権を与えているのは、「」内のような一般命題が存在することの傍証になります。
 ここ数世紀にわたって世界の覇権国であったのは、(英国から米国への選手交代はあったものの)アングロサクソン諸国であり、英国、米国ともに国内体制が自由・民主的であったことから、覇権国としての「逸脱行為」が、(覇権国交替の過渡期ではありましたが、米国の、第一次世界大戦後の国際連盟非加盟や、先の大戦に至る期間における対日政策等を除き、)比較的少なかったことは人類にとって幸いでした
 
(2)「覇権国等強国による武力行使に対する国際法上の許容度は小国に比べて大きい」
これは(1)の「」内の一般命題の部分命題ですが、実際、覇権国たる米国は、国連成立以降も、(先の大戦以降は非共産圏の、そしてポスト冷戦期は全世界の、暗黙の了解の下に)自ら自分を世界の警察官に任じ、自衛権(国連憲章51条)を根拠に武力行使を「自由に」行ってきました。
そのうち、最も「あやうい」二つの事例が、たった一人米兵の死者を出したベルリンのディスコ爆破事件の報復として行われ、(大部分が非軍人であるところの37名もの死者を出した)1986年のリビア攻撃であり、ブッシュ(父)米大統領暗殺の再度の試みを抑止するために行われた1993年のイラク攻撃です。
  
なお、米国は、前出のニカラグア事案の国際司法裁判所の判決の拘束力、先例性を認めてはいません。(そもそも、米国は、この裁判をボイコットしました。)
 
ちなみに、中東では強国であっても、世界的に見れば一小国にすぎないイスラエルあたりが、「自由に」自衛権を行使すると、国際社会からの厳しい叱責が待っています。
例えばイスラエルは、1975年に予防的自衛であるとしてレバノンのパレスティナ人キャンプを攻撃しましたが、国連安全保障理事会は、予防的自衛は自衛権の発動とは認められないとしてイスラエルを非難する決議を採択しています。
(以上のリビア、イラク、レバノンに係る記述は、Atimes(Asia Times) 前掲記事による。)   

(もっとも、イスラエルの場合、「不始末」をしでかしても、叱責以上のお咎めを国際社会から受けることはまずありません。それは、国際法で法の前の平等が貫徹しないもう一つのケースがあり、「国内体制の自由・民主的な度合いに応じて、国際法の拘束力が変化する」からです。これは、自由・民主的な米国が覇権国であるため、イスラエルのような自由・民主的な国は覇権国たる米国の同情や支援が得られ易いからです。具体的な例をあげれば、自由・民主的なイスラエルと全体主義独裁のイラクとでは、国連安保理決議の拘束力が異なり、イスラエルの方は、その「自衛権」行使の対象が非自由・非民主的な国または地域であれば、緩やかにしか決議に拘束されないのに対し、イラクの方は、その「自衛権」行使対象のいかんにかかわらず、厳しく決議に拘束されます。イラクの核開発を予期して行われた1981年6月のイスラエル空軍による建設中のイラクの(フランスが技術供与した)オシラク原子炉の破壊は、米国を含む世界の非難を呼び起こしましたが、当時のイスラエルは具体的な制裁は一切受けることはありませんでした(http://www.nytimes.com/2002/11/15/opinion/15KRIS.html。11月15日アクセス)。
1967年以降の占領地の放棄をイスラエルに求める安保理決議が履行されないまま「放置」されているのに、国連による大量破壊兵器の査察をイラクに求める安保理決議が厳格に履行されようとしているのもその現れだと言いたいところですが、第一に、前者はすべて国連憲章第6章の下での決議であって紛争の平和的解決に係る非拘束的勧告であるのに対し、後者はすべて憲章第7章の下での決議であって「平和への脅威・・又は侵略行為」に係る安保理への(武力の行使を含む)幅広い権限を付与するものであって決議の法的性格が異なること、そして第二に、イスラエルに係る最も有名な決議である1967年の242号決議は、両当事者に課せられた義務が履行されて初めてイスラエルが占領地から撤退するという内容であるところ、この前提条件が充たされていないこと( http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,846975,00.html。11月25日アクセス )、から、例として必ずしも適切ではないと考えられます。)

2 イラクは危険なので、その体制変革を図るべき
(1)「現代」全体主義独裁国家イラクを放置しておく危険性

 ア イラクによる侵略の危険性
  過去にイランとクウェートを侵略したことのあるイラクは、それだけでも札付きのならず者国家(rogue state)という刻印を押されても仕方ありませんが、湾岸戦争によって被ったダメージとその後の国連による経済制裁によって、イラクの軍事力は弱体化しており、再び侵略行為を行う意思も能力もないと考えられます。
  しかし、国連の経済制裁が解除されれば、事情はがらりと変わってしまいます。

イ イラクによる大量破壊兵器の取得・保有・使用・横流しの危険性
  米上下両院がブッシュ大統領にイラク攻撃の権限を与えた10月中旬に至っても、なおイラクが執拗に国連による大領破壊兵器の査察を回避しようと画策していること(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A14639-2002Oct11.html。10月12日アクセス)から見て、イラクは大量破壊兵器を依然保有していると断言していいでしょう。
  イランとイラク国内のバスク人に対して化学兵器を使用した前歴のあるイラクが、再び国内外の「敵」に向けて化学兵器を含む大量破壊兵器を使用する可能性は、アで述べたところから殆どないと考えられます。(ただし、米国等が対イラク戦を行えば、(国内の反乱勢力や米軍等に対して)イラク自ら、或いはアルカイーダ等に横流しする形で、イラクが大量破壊兵器を使用する可能性はあります。)
しかし、国連の経済制裁が解除されれば、やはり事情は一変します。
いずれにせよ、イラクが大量破壊兵器を取得・保有していることは、国際社会にとって大きな危険であると言えるでしょう。
 (イで述べたことは、おおむね米CIAの判断でもあります(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A62727-2002Oct8.html。10月9日アクセス)。)

 ウ イラクがイスラム原理主義と結びつく危険性
  フセイン体制下のイラクは、後で述べるように、中東アラブ世界の中で有数の非イスラム化国でしたが、湾岸戦争敗戦後の国連の経済制裁下で困窮する国民の不満をそらすねらい等から、フセイン大統領はイスラム色を前面に出すようになりました。
  さりとて、イラクがアルカーダ等のイスラム原理主義勢力と結びつくところまで行くかどうかは疑問です。
  もっともこれも、国連の経済制裁が解除された暁にはどうなるか分かりません。

(2)イラクの体制変革の意義と実現可能性
  先入観を振り払って歴史を回顧すれば、これまで欧州地域及び欧州文明の外延地域において出現した全体主義独裁は、それぞれの国における自由・民主化への通過儀礼であったと言えそうです。
欧州地域(カトリック地域)にあっては、フランスはナポレオンの第一帝制とナポレオン三世の第二帝制を経て、ドイツはヴィルヘルム三世のドイツ帝国とヒットラーの時代を経て、イタリアはムッソリーニのファシズム(注)時代を経て、そしてポルトガルとスペインはそれぞれサラザール時代とフランコ時代を経て自由・民主化しましたし、欧州文明の外延地域にあっては、ロシア(正教地域)はスターリン主義時代を経て自由・民主化したのでした。
(侵略的でなかったために「放置」できたポルトガルやスペインのケースを除き、)これら諸国における全体主義独裁の終焉に決定的役割を果たしたのが英国と米国でした。「近代」全体主義独裁国家フランスに対しては英国が軍事介入を行い、「現代」全体主義国家たるドイツ(ただし、ウィルヘルム三世のドイツは「近代」全体主義独裁国家)とイタリアに対しては英国と米国が軍事介入を行い、同じく「現代」全体主義国家ロシア(=ソ連)に対しては(ボルシェビキ革命直後にまず米国が先制攻撃の形で軍事介入(=シベリア出兵)を行ったが失敗した後、先の大戦後、)米国が英国とともに軍事的抑止を行うことによって、各国の全体主義独裁を崩壊に導きました。そして全体主義独裁崩壊の後、フランス、ドイツ(帝国)、イタリア、ロシアは自主的に、また(西)ドイツは自由・民主的な米国、英国、フランスの軍事占領下で、それぞれ体制変革が行われ、自由・民主的な国に生まれ変わって現在に至っています。

(注)イタリアのファシスト党とドイツのナチスによって代表されるファシズムは、もう一つの「現代」全体主義独裁のイデオロギーであるスターリン主義と共通の、世俗主義、一党独裁(=制度化された一般意志の優越、そしてその極限形態としての個人崇拝)、秘密警察等の活用、大衆の積極的動員による擬似的な解放・参加の促進、経済統制、のほか、ファシズム特有の反共、ウルトラ・ナショナリズム、戦争・暴力志向、という諸特徴を持っています(http://www.law.ryukoku.ac.jp/~takahash/html/essay/fascism.html(10月10日アクセス)を参考にした)。

 イラクは、非イスラム(=世俗主義)、バース党イラク支部(実体はイラクバース党)による独裁とフセイン崇拝、秘密警察等の活用、大衆の積極的動員、経済統制、そして反共、アラブ統一(=ウルトラ・ナショナリズム)の標榜、戦争・暴力志向、という特徴を持つ全体主義独裁国家であり、典型的なファシズム国家であると見ることができます。(シリアバース党エリートが支配するシリアもファシズム国家の色彩を帯びています。)イラクバース党は1968年にクーデターでイラクの政権を握り、イラクバース党の重鎮であったサダム・フセインが1979年に全権を掌握し、もともと中東アラブ世界の最先進地域の一つであったイラクは、教育水準がシリアと並んで中東一、脱イスラム化の度合いが(とりわけバグダード周辺において)中東一(・・その象徴が、長期に渡ってイラクの副首相をつとめ、最近まで外相を兼ねていたキリスト教徒のタリク・アジズ・・)、貧富の差の少なさが中東一、女性の社会進出の度合いが中東一の国となりました(松井 前掲書52-54、277、271、27-33頁)。
 このイラクの全体主義独裁を崩壊させることができれば、イラクが自由・民主化に成功し、その石油資源とあいまって、中東アラブ世界における「西側」のショーウィンドウへと変貌を遂げる可能性は十分あります。「西側」は、湾岸戦争の時にフセイン体制にとどめをささず、チャンスを逃してしまいましたが、イスラム原理主義勢力による反「西側」テロの猖獗、この期に及んでのイラクによる国連査察の回避(=これは国連の対イラク経済制裁の継続によるイラク国民の困窮の長期化をももたらしている)、及び国連経済制裁によるイラク軍事力の弱体化、とあいまって「西側」は、二度目の、しかも絶好のチャンスを手にしています。
 
(ちなみに、タリバン治下のアフガニスタンは、政教一致体制だったのであって、到底「近代」ないし「現代」全体主義独裁国家とは言えない代物でした。タリバン崩壊後、アフガニスタンは現在事実上米国等の軍事占領下にありますが、アフガニスタンには資源もなく、一足飛びに自由・民主化に成功するとは到底考えられません。)

 
<第三部:対立の本質>

 欧州諸国は、上記対立の構図において、国際法のタテマエを重視し、イラクの危険性をプレイダウンするとともに、イラクの体制変革の意義を認めず、しかも体制変革が困難であると指摘する傾向があるのに対し、アングロサクソン諸国は、国際法のホンネを重視し、イラクの危険性をプレイアップするとともに、イラクの体制変革の意義を強調し、体制変革が実現可能であると指摘する傾向があります。

問題は、両者のこの傾向の違いが何に由来するかです。
そもそも、アングロサクソン(=コモンロー地域)にあっては、個人の人権や自由に関わる実体法・手続法の核心部分を除き、法は便宜的な存在に過ぎず、必要に応じどんどん修正すべきものと考えられているのに対し、欧州(=大陸法地域)にあっては、法的安定性それ自体が尊ばれるところから、国内法、国際法を問わず、法に対する見方が異なっていることも背景としてあげられると思います。
しかし、より大きいのは、
第一に、欧州地域及び欧州文明の外延地域の諸国にあっても、(アングロサクソンを除く)世界の国や地域と同様、かつて覇権国であった英国、並びに現在覇権国である米国に対するコンプレックスないし妬みがあり、覇権国を特別扱いしている国際法のホンネを直視したくない、従ってイラクの危険性や体制変革の問題にも深入りしたくない、という気持ちがあることですし、とりわけ大きいのは、
第二に、欧州地域及び欧州文明の外延地域の諸国に固有の軍事アパシーと嫌米感情の蔓延です。
このことを、舌鋒鋭く指摘して欧米で話題を呼んでいるのがロバート・ケーガン(Robert Kagan)の論考’Power and Weakness’(http://www.policyreview.org/JUN02/kagan_print.html。10月9日アクセス)です。
 ケーガンは、「小国にとっては国際法のタテマエを掲げて平和的に行動するのが合理的であるのに対し、覇権国ないし覇権国をめざす国は軍事力を行使して決着を図るのが合理的である」という仮説を提示します。そして、英国が覇権国であった頃は米国は借りてきた猫のようにおとなしかったのが覇権国になってからは180度変身した、また、欧州全体が束になったとしても、現在の覇権国たる米国を脅かす存在にはなれそうもないと欧州が自覚したのが先の大戦が終わった時だったが、ソ連の脅威があったため、軍事を擲つわけにはいかなかったところ、冷戦の終焉によって、欧州は名実ともに「小国」的な行動様式を身につけたと論じます。
 しかし、このケーガン説では、湾岸戦争の時といい、今度の対イラク戦に対する姿勢といい、英国が米国に協力し、あたかも依然覇権国であるかのような対外政策をとっていることを説明できません。
 私の考えはこうです。
 ロシアが欧州の外延であったように、オスマントルコも欧州の外延でした。ロシアとの歴史の関わりなくして現在の欧州を論じられないように、オスマントルコとの歴史の関わりなくして現在の欧州を論じることはできません。旧ユーゴ地区の問題一つとってもそうです。(逆に「外延」に他ならないが故に、ロシアも、(オスマントルコの末裔たる)トルコも、EUへの加盟は困難です。)そのオスマントルコが分解してできた中東諸国もまた、欧州の外延であると言えます。
 他方、欧州は、プロト欧州文明時代(=カトリック政教一致時代)を経て、欧州文明時代(=全体主義的独裁時代)に入りますが、この時代を特徴づけるものは、このコラムの中で前述したように、全体主義的独裁国家の盛衰と、これに伴う戦乱・荒廃の連続でした。
 モグラ叩きのように、アングロサクソンによって欧州の全体主義的独裁国家は次々に崩壊せしめられて行った結果、欧州諸国の軍事的エネルギーは、ファシズムのナチスドイツの崩壊と欧州の外延たるスターリン主義ロシアの崩壊に至って、ついに枯渇します。
 欧州の外延国の一つたるイラクのファシズムを前にして、欧州諸国は、かつての自分たち自身の写し絵そこに見いだし、対イラク戦の準備を進めるアングロサクソンの中に、かつての自分たちへ鉄拳を下してきたアングロサクソンの姿を「再発見」しているのでしょう。欧州のイラクファシズムに対する煮え切らない態度を見ていると、かつての欧州のロシア(ソ連)スターリニズムに対する煮え切らない態度を思い起こさせます。
 自身の歴史に根ざすトラウマが、欧州において、軍事アパシーと嫌米(=嫌アングロサクソン)感情の蔓延をもたらしているということです。

<第四部:結論>

 このような欧州の姿は、一見日本と同じに見えますが、日本は、憲法(解釈)で自らの手をしばるとともに、その論理的帰結として米国に安全保障を丸投げしてきており、軍事アパシーと嫌米感情を踏まえつつ、対外政策を自由かつ自主的に採択している欧州とは全く事情が異なります。
このことと、(中東地域で英国は諜報活動と電波傍受活動(キプロス島に傍受施設を持つ)、フランスとドイツは諜報活動を行っているところ、)日本はかかる情報収集手段を全く持っておらず、独自情報がゼロであることから、日本は米国に対し、対イラク戦について意見を述べうる立場にはないと私は考えています。

そこで結論ですが、対イラク戦を理解するためには、以前のコラムで紹介したハーシェム家とサウド家の確執という「幕末」的な基本的視点と、イラクファシズム論という「現代」的な基本的視点の二つが必要だということです。