太田述正コラム#5108(2011.11.11)
<世界殺戮史に思う(その3)>(2012.2.27公開)
 (5)安史の乱(An Lushan Rebellion=An-Shi Rebellion)(755~63年。内。13。5.9%)
 唐(Tang)の玄宗(Xuanzong。685~762年。皇帝:712~756年)の治世下、北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたっていた、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血の安禄山(An Lushan。~757年殺害。皇帝僭称:756~757年)は、彼の補佐役で突厥生まれの史思明等の進言を入れて755年に挙兵します。
 そして、わずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させます。
 ここで安禄山は燕(Yan)の聖武皇帝を名乗り、さらに唐の首都の長安へと侵攻を開始して唐の国軍を破ります。
 しかし、安禄山は、息子の安慶緒(~759年殺害。皇帝僭称:757~759年)の反発を買い、殺害されてしまいます。
 史思明(Shi Siming。703~761年殺害:皇帝僭称:759~761年)は、759年、洛陽の安慶緒を攻め滅ぼして、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立します。
 しかし、史思明も安禄山同様、息子の史朝義(~763年自殺。皇帝僭称:761~763年)との不和から、761年に史朝義に殺害されてしまい、ここに安史の乱は終わるのです。
 この時、安史の乱の下、譲位を余儀なくされた玄宗の後を襲っていた、玄宗の息子の粛宗(Suzong。711~762年。皇帝:756~762年)は病死し、更にその息子の代宗(Daizong。727~779年。皇帝:762~779年)の時代になっていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
http://en.wikipedia.org/wiki/Anshi_Rebellion
http://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Xuanzong_of_Tang
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%A6%84%E5%B1%B1
http://en.wikipedia.org/wiki/An_Lushan
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%85%B6%E7%B7%92
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%80%9D%E6%98%8E
http://en.wikipedia.org/wiki/Shi_Siming
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%9C%9D%E7%BE%A9
http://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Suzong_of_Tang
http://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Daizong_of_Tang
 殺戮状況については、「安史の乱」の英語ウィキペディアでは、「抑圧と飢饉によるものを含め、死者と行方不明者は3,600万人にも達すると推定されている。
 当時の世界人口は2億700万人から2億2,400万人と推定されている。
 この数字は、フビライ・ハーン(Kublai Khan)の侵攻に伴う支那でのひどい死者数ともども、爾後1200年近くにわたる全ての出来事よりも、大きな死者数の一つであり続けた。
 この二つの出来事における死者数をついに凌駕したのは、第二次世界大戦だ」
http://en.wikipedia.org/wiki/Anshi_Rebellion 前掲
と記されています。
 (ちなみに、「安史の乱」の日本語ウィキペディアは、「安史の乱で起きた大量虐殺による死者数は、マシュー・ホワイトによれば3600万人に達<す>・・・る」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1 前掲
で片づけていますが、いわば3次史料であるホワイトの本に拠ってはいけません。)
 それにしても、安禄山と史思明、それぞれの父子の凄まじい確執は、一体父親にとって息子とは何だろうか、を考えさせますね。
 (6)明王朝の没落(Fall of the Ming Dynasty)(1635~52年。壊。25。4.6%)
 清についての日本語ウィキペディアをベースにして、明末清初をざっと振り返りましょう。(ただし、この頃の殺戮については、「清」の英語ウィキペディアにしか記述はありませんでした。)
 17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女直(=女真族=Jurchen)の統一を進めたヌルハチ(Nurhaci=太祖。1559~1626年。後金皇帝:1616~26年)が、1616年にハーンとして即位し、明から独立して後金国を建国します。
 1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍(死傷者4万5千人)を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至ります。
 その子のホンタイジ(Huang Taiji=太宗。1592~1643年。後金/清皇帝:1626~43年)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽(Shenyang)に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られ、大清(Qing)皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲(Manchu)に改めます。
 その子の順治帝(Shunzhi Emperor=世祖。1638~61。清皇帝:1643~61年)の時、支那では李自成(Li Zicheng)の乱によって北京が攻略されて明の最後の崇禎帝(Chongzhen Emperor。1611~44年。明皇帝:1627~44年)が自殺し、明が滅びます。
 清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂(Wu Sangui)からの要請を奇貨として、万里の長城を越えて李自成を破ります。
 こうして1644年に清は首都を北京に遷し、支那支配を開始します(「清の入関」)。
 しかし、支那南部には明の残党勢力(南明)が興り、抵抗を続けます。
 この頃、多大の人命が失われました。
 例えば、1645年、江蘇省の揚州(Yangzhou)では、摂政王(Prince Regent)ドルゴン(Dorgon。ヌルハチの子)の許可の下、清軍によって10日間にわたって乱暴狼藉が行われ、推定800,000人が死亡しました。
 また、1645年にドルゴンが発した辮髪令(haircutting order)は極めて不評であり、これを契機に1640年代末まで、江南地方で反清蜂起が続いたため、これに対し大量虐殺が行われました。
 例えば、現在の上海市の北西部の区である嘉定(Jiading)で、旧明臣で降伏して清臣に転じた李成東(Li Chengdong)将軍率いる部隊によって1カ月以内に3回虐殺が行われ、数万人が死亡し、この都市は無人状態になったとされています。
 ドルゴンが死んだ1650年からは順治帝(当時13歳)の親政が始まり、彼は、1659年には鄭成功(Zheng Chenggong=国姓爺=Koxinga。1624~62年)の北伐軍を跳ね返して支那内をほぼ平定するとともに、明の制度を取り入れて国制を整備することになるのです。
 (なお、鄭成功は、台湾に拠って、その息子の鄭経(Zheng Jing)の代まで抵抗を続けます。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Fall_of_the_Ming_Dynasty 明の没落
http://en.wikipedia.org/wiki/Ming_Dynasty 明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E 明
http://en.wikipedia.org/wiki/Qing_Dynasty 清
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85 清
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 サルフの戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%81 ヌルハチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%B8 ホンタイジ
http://en.wikipedia.org/wiki/Shunzhi_Emperor 順治帝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%B2%BB%E5%B8%9D 順治帝
http://en.wikipedia.org/wiki/Chongzhen_Emperor 崇禎帝(明)
http://en.wikipedia.org/wiki/Koxinga 鄭成功
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F 鄭成功
http://en.wikipedia.org/wiki/Zheng_Jing 鄭経
 気が付いた人もいるのではないかと思いますが、「1635~52年」の始期にも終期にもとりたてて大きな出来事は起こっていないので、この期間に何の意味があるのか不明です。
 これは、ホワイト自身の誤りなのか、NYタイムスが表を作成した時のミスなのでしょうか。
 なお、鄭成功については、彼についての英語ウィキペディアは別として、日本語ウィペディアの「明」、「清」、「順治帝」には登場するけれど、英語ウィキペディアの「明の没落」や「清」や「順治帝」には登場しません。(どういうわけか、英語ウィキペディアの「明」だけには登場します。)
 彼の母親が日本人であったこともあり、鄭成功が人形浄瑠璃や歌舞伎の「国性爺合戦」等を通じて日本で良く知られているだけに、日本人には彼に対する思い入れがあるのでしょう。 
(続く)