太田述正コラム#5116(2011.11.15)
<世界殺戮史に思う(その4)>(2012.3.2公開)
<脚注:1次どころか2次史料にすら拠っていない(?)ファーガソン>
 「ニール・ファーガソン・・・は、ローマ<帝国>は、「一世代の間に」内から崩れた(implode)と記す。
 明期の支那は、「儒教的平衡(equipoise)から無政府状態(anarchy)」になるのに「10年ちょっとしかかからなかった」。また、ソ連は「ゆるやかに没落したのではなく、がけから墜落した」と。」
http://www.nytimes.com/2011/11/15/books/niall-fergusons-empire-traces-wests-decline-review.html?_r=1&hpw=&pagewanted=all
(11月15日アクセス)
 ソ連についてはファーガソンの言うとおりだが、明の没落については間違いだ。彼は、恐らくホワイトかピンカーの本をもとに、そこに出てくる年数を下一桁切り捨てて「10年ちょっと」と誇張して記したのだろうが、ホワイトないしピンカーの数字が、そもそも間違いであることを思い出して欲しい。
 ローマについては、以下を参照。
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 (7)ローマの没落(Fall of Rome)(5世紀(A、Bには年数が出てこない※) 壊 7 ?%(Aに出てこない*))
 「多くの学者は、<ローマ末期の>諸変化は「没落」ではなく、複雑な変異(complex transformation)と実際には形容されるべきであると指摘している。・・・
 <ここでは、生起した主な政治・軍事的出来事を順に記しておく。>
 406年12月31年(歴史家の中には405年とする者もいる)に、ヴァンダル族(Vandals)、スウェビ族(Suebi)、アラン族(Alans)からなる一団が・・・現在のマインツ(Mainz)で氷結したライン河を渡河し、ガリア(Gaul)の掠奪(ravage)を開始した。
 その中から、ヒスパニア(Hispania)とアフリカに移動した者があった。
 ローマ帝国は、これらの地の大部分を再び支配下に取り戻すことはなかった。
 二番目の戦争は西ゴート族(Visigoths)とだった。
 彼らはアラリック(Alaric< I。370?~410年。西ゴート王:395~410年
http://en.wikipedia.org/wiki/Alaric_I
>)王に率いられ、ギリシャを襲撃し、次いでイタリアに侵攻した。
 そして、410年には、ローマ劫掠(sack of Rome)が行われた。
 西ゴート族は、やがてイタリアを去り、南ガリアとヒスパニアに王国を創建した。
 そして、アッティラ(Attila<?~453年。フンの長:434~453年
http://en.wikipedia.org/wiki/Attila
>)とブレダ(Bleda<=Aka Buda。390?~445年。フンの長:453~445年。アッティラの弟
http://en.wikipedia.org/wiki/Bleda
>)の下でのフン帝国の興隆があり、バルカン、ガリア、そしてイタリアが襲撃され、コンスタンティノープルとローマが脅かされた。
 455年には、ローマ劫掠が、今度はヴァンダル族によって行われた。
 461年から468年にかけての、・・・西ローマ皇帝のマヨリアヌス(Majorian<=Flavius Julius Valerius Majorianus Augustus。420?~461年。皇帝:457~461年
http://en.wikipedia.org/wiki/Majorian
>)・・<や東ローマ>皇帝のレオ(Leo)1世<(Leo the Thracian。401~474年。皇帝:457~474年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Leo_I_the_Thracian
と>・・・西ローマ皇帝のアンテミオス(<Procopius> Anthemius<。420?~472年。皇帝:467~472年
http://en.wikipedia.org/wiki/Anthemius
>)による、ヴァンダル族に対する・・・海上・・・反攻は失敗した。・・・
 さて、ユリウス・ネポス(Julius Nepos<。430?~480年。事実上の西ローマ皇帝:474~475年
http://en.wikipedia.org/wiki/Julius_Nepos
>)が東ローマ皇帝のゼノ(<Flavius >Zeno< Augustus。425?~491年:東ローマ皇帝:474~475、476~491年
http://en.wikipedia.org/wiki/Zeno_(emperor)
>)によって<西ローマ皇帝に>指名されて<皇帝に就任し>たところ、彼は、行政長官(magister)・・・の反乱により退位させられ、<この反乱首謀者は、>自分の息子のロムルス(<Romulus >Augustus<。460?~500年?。西ローマ「皇帝」:475~476年
http://en.wikipedia.org/wiki/Romulus_Augustulus
>)を帝位に就けた。
 しかし、東ローマのゼノも、そのライバルであったバシリスカス(Basiliscus< Augustus。?~476/477年。東ローマ皇帝:475~476年。ゼノの后の兄弟
http://en.wikipedia.org/wiki/Basiliscus
>)も、ダルマティアに逃亡したネポスを引き続き正統な西ローマ皇帝であると見なし続けた。
 そのすぐ後の476年9月4日、ネポスによって軍事行政官(magister militum)に任命されたオドアケル(<Flavius >Odoacer<。433~493年。イタリア副王:476~493年、西ゴート摂政:511~526年
http://en.wikipedia.org/wiki/Odoacer
>)がロムルスを退位させ、自らをイタリアの支配者と宣言し、東ローマ皇帝のゼノに、東西両帝国の正式の皇帝になり、そのことによって自分自身の帝国イタリア副王としての地位を合法化するよう求めた。
 ゼノは、ネポスの主張を退け、オドアケルの求めた通りにした。
 そして、480年に、ネポスは、自らの兵士達によって殺害された。
 オドアケルの成功と人気を憂慮したゼノは、オドアケルに対し、最初は言葉だけの、継いで東ゴート族(Ostrogoths)にイタリアをオドアケルから取り戻すことを唆す形での、作戦を発動した。
 東ゴート族は、まさにそうしたが、テオドリック(Theodoric< the Great。454~526年。東ゴート王:471~526年。イタリア支配者:493~526年
http://en.wikipedia.org/wiki/Theodoric_the_Great
>)王の支配の下での、彼ら自身の独立王国を・・・493年、・・・創建した。
 かくして、イタリア及び西ローマの全体が帝国から失われたのだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Decline_of_the_Roman_Empire
 これだけ見ても、ゲルマン民族のローマ帝国への侵入から西ローマ帝国が完全に消滅するまで、87年かかっており、ファーガソン言うところの一世代よりかかった(注1)わけですし、そもそも、ローマ帝国の「没落」は政治的・軍事的のみならず、経済的、文化的等様々な側面からの「複雑な変異」ととらえなければならないとすれば、それは、更に長期にわたるプロセスであったと考えるべきでしょう。
 (注1)一般に西ローマ帝国は476年に滅亡したとされるが、この時点以降も、西ローマ帝国は、イタリア以外に、ダルマティア、現在のオーストリア、ガリア北部、北アフリカの西端を領域として持ち、元老院も存続していた
http://en.wikipedia.org/wiki/Romulus_Augustulus 前掲
のであるから、必ずしも正しくない。
 いずれにせよ、英語ウィキペディアをざっと眺めてみた限りでは、肝心の、このプロセスにおける殺戮について、全く言及がありませんでした。
(続く)