太田述正コラム#5118(2011.11.16)
<世界殺戮史に思う(その5)>(2012.3.3公開)
 (8)イスラムのインド征服(Muslim Conquest of India) (11C~18C(※) 戦?(*) ?(*) ?%(*))
 表記は、Bには出てくるのですが、Aにはどういうわけか、登場しません。
 NYタイムスの編集ミスかもしれませんね。
 いずれにせよ、足掛け8世紀にも及ぶ話を一纏めにしているのにはびっくりです。
 表記は、地域的に特定されているわけですが、地域的特定の方もとっぱらえば、欧米のアジア・アメリカ征服だって一纏めにしてみたいところです。
 まあしかし、出来事をある程度ぶつ切りにしないと、歴史は書けませんからね。
 さて、この話の前史というべきものが、ダマスカスを首都とするウマイヤ朝が、711年に、アラブ人に対する海賊の横行に手を焼き、2つの遠征軍をバロチスタン(Balochistan。現在のイラン、アフガニスタンとパキスタンにまたがる地域)とシンド(Sindh[。現在のカラチを中心とする地方])に送った事件です。(遠征そのものは成果を挙げられませんでした。)
 そして、11世紀になった頃から、イスラム勢力によるインド亜大陸(以後、単にインドと言う)征服は本格化することになります。
 (ちなみに、現在のネパール、ブータン、シッキムを始めとするヒマラヤ山脈の麓の一帯やインド南部(含セイロン)はついに征服されることはありませんでした。)
 先陣を切ったのはガズニ朝のマハムード(Mahmud of Ghazni)(注2)であり、彼は、1001年にインドに初侵攻を行い、1010年に北インドの支配にほぼ成功し、1027年に北インド支配を確立し、ガズニ朝は北インド支配を1187年まで続けることになります。
 (注2)971~1030年。スルタン:998~1030年。ガズニ朝(Ghaznavid dynasty)は、イラン系イスラム王朝サーマーン朝に仕えたトルコ人奴隷アルプティギーンが962年に現在のアフガニスタンのガズニにに創建したもの。 999年にサーマーン朝がトルコ系カラハン朝に滅ぼされたため、ガズニ朝(マフムード)は名実共にサーマーン朝から独立した。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/ghazni.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Mahmud_of_Ghazni
 その後の、デリー・スルタン朝に対するチムールの侵攻や、チムールの子孫によるムガール帝国の成立については既に触れたところですが、この話の終わりは一体何だったのでしょうか。
 それは、デュラニ帝国(Durrani Empire)による、それより一昔前のイスラム勢力によるインド征服の産物たるムガール帝国への侵攻です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Muslim_conquest_in_the_Indian_subcontinent
http://en.wikipedia.org/wiki/Sindh ([]内)
 デュラニ帝国について説明しましょう。
 「デュラニ帝国(・・・アフガン帝国とも呼ばれる)は、パシュトン人(Pashtun)(注3)の王朝であり、アフガニスタンを中心としてイラン北部、カシミール地域、現在のパキスタン、そしてインド北西部を領域としていました。
 (注3)現在のパキスタンからアフガニスタンにまたがって居住している人々。発祥は不明だが、人種的には地中海系の白人(Caucasians)、言語は印欧語族である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pashtun_people
 <この帝国が>創建されたのは、ペルシャのナデル・シャー(Nader Shah)<(注4)>の下の<パシュトン系>アフガン人たる軍事司令官で・・・あったアハマド・シャー・デュラニ(Ahmad Shah Durrani[。1722?~1773年。支配者:1747~1772年])によって、1747年にカンダハル(Kandahar)においてでした。・・・
 (注4)1688/1698~1747年。イランのシャー:1736~47年。軍事的天才であったことから、彼をペルシャのナポレオンとか第二のアレクサンドルと形容する歴史家もいる。ペルシャ北部のトルコ系アフシャル(Afshar)部族出身。イランのサファヴィ(Safavid)朝が倒れた後、オスマントルコとムガール帝国に挟まれたイランの存在感を回復したとされる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nader_Shah
 1747年10月に、ナデル・シャー・・・が彼のペルシャ人兵士達に殺害され・・・ると、アフガン人の部族長たちはカンダハルに集まってロヤ・ジルガ(loya jirga=grand assembly=大会議)<(注5)>を開催し、・・・アブダリ(Abdali)部族連合<(注6)>の新たな支配者として、若き25歳のアハマド・シャー・アブダリ<(後にデュラニ)>を選んだ。・・・
 (注5)アフガニスタンとパキスタンのパシュトン人地域において、新しい王を選んだり憲法を採択したり重要事項を議論したりするための大集会。アフガニスタンでは、後にパシュトン人以外も加わるようになった。伝統的に、部族長達が集まる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Loya_jirga
 (注6)パシュトン人の筆頭部族連合。デュラニとも呼ばれる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Durrani
 アハマド・シャーが1773年頃亡くなると、太守職(Emirship)は子供達に、更には孫たちに受け継がれ、首都はカブールに移された。・・・
 アハマド・シャー・デュラニは、・・・アフガン人の支配をメシェド(Meshed)<注7)>(からカシミールとデリーへ、そしてアム・ダリヤ(Amu Darya)<(注8)>からアラビア海まで及ぼした。
 (注7)Mashhad。イラン第二の大都市でシーア派の最も聖なる都市の一つ。イランでアラビア語の名前がついた唯一の主要都市でもある。テヘランの850km東の、現在のアフガニスタンとトルクメニスタンとの国境近くに位置している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mashhad
 (注8)ヒマラヤから西北方に流れてアラル海に注ぐ、中央アジアの主要河川。オクサス(Oxus)やアム(Amu)とも呼ばれる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Amu_Darya
 18世紀後半において、デュラニ帝国は、オスマン帝国に次ぐ、大きなイスラム帝国だった。
 このデュラニ帝国は、今日のアフガニスタンという国の始まり(foundation)であると考えられており、アハマド・シャー・デュラニは、アフガニスタンという国の「父」とされている。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Durrani_Empire
http://en.wikipedia.org/wiki/Ahmad_Shah_Durrani ([]内)
 つまり、イスラムのインド征服の掉尾を飾ったデュラニ帝国の矜持こそ、アフガン人の矜持の源である、ということです。
 しかし、アフガン人の中核をなしているパシュトン人が現在のパキスタンとアフガニスタンにまたがって居住しているため、話がややこしくなっている、というわけです。
 そこで、殺戮についてなのですが、1000年から1500年にかけて、ヒンドゥー教徒の人口が8000万人減少したとする説があります。
 しかし、イスラム勢力に征服されなかった南インドやバングラデシュやセイロンやビルマ西部、更にはインドネシアやフィリピンにイスラム教徒がいること、逆にインドでイスラム勢力に征服された地域の中心部周辺にイスラム教徒がいないこと、から、イスラムのインド征服を宗教戦争的に見てはいけない、私の言葉で言えば、そもそも「イスラム」のインド征服と呼んではいけない、という説もあります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Muslim_conquest_in_the_Indian_subcontinent 前掲
 もちろん、11世紀から18世紀にかけて、インドの支配をめぐって多くの殺戮がなされたことは疑いようがないわけですが・・。
(続く)