太田述正コラム#5128(2011.11.21)
<世界殺戮史に思う(その9)>(2012.3.8公開)
 (17)ヨセフ・スターリン(Joseph Stalin)(20C 専 20 ?%)
 これについては、過去何度も取り上げてきているので説明は省きます。
 (18)第一次世界大戦(First World War)(1914~18年 戦 15 ?%)
 これについても、説明はいらないでしょう。
 (19)コンゴ自由国(Congo Free State) (1885~1908年 抑 10 ?%)
 ベルギーのレオポルド2世(Leopold II。1835~1909年。国王:1865~1909年。亡くなる5日前に売春婦と結婚式をあげている!)
http://en.wikipedia.org/wiki/Leopold_II_of_Belgium
の私有財産に等しかったコンゴ自由国(1885~1908年)における原住民収奪と虐殺は、欧米による植民地経営の中の最も醜悪な事例です。
 以前、(コラム#149で)触れたことがありますが、今回、若干敷衍したいと思います。
 「コンゴ自由国は、ベルギー国王のレオポルド2世によって個人的にコントロールされていた中央アフリカの広大な地域だった。
 その起源は、レオポルドによる、多国籍NGOのの国際アフリカ協会(Association internationale africaine)に対する魅力的な科学的かつ人道主義的後援にあった。
 最初はこのAIAを、次いで上部コンゴ委員会(Committee for Studies of the Upper Congo=Comite d’etudes du Haut-Congo)を、そして最終的には国際コンゴ協会(International Association of the Congo=Association internationale du Congo)を使って、レオポルドは、コンゴ河流域の大部分のコントロール権を確保した。
 多国籍機関のAIAとは違って、AICはレオポルドの個人的機関(vehicle)だった。
 そのたった一人の株主かつ会長として、彼は、次第にそれを、上部コンゴ河流域の象牙、ゴム、鉱物を集めて売るために用いるようになった。
 (AICは、その地の人々の向上(uplift)と開発を目的としているという理解の下に設立されたにもかかわらず・・。)
 彼は、1885年にAICにコンゴ自由国という名称を与えた。
 この国は、現在のコンゴ民主共和国の全ての領域を含んでおり、1885年から1908年まで存続した。
 このコンゴ自由国は、その地の人々への次第に募る暴虐的なひどい仕打ちと自然資源の掠奪によって、やがて汚名を被ることとなり、1908年にベルギー政府によって廃止され、ベルギーに併合されることになった。
 レオポルド2世の行政の下で、コンゴ自由国は20世紀初期における最大の国際的醜聞の一つとなったのだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Congo_Free_State
 「【ことの始まりは、1895年に、スウェーデンの宣教師であるスジョブロム(Sjoblom)と米バプティスト教団のJ.マーフィー(J. Murphy)師が、この虐待話を・・・<英国人たる>宣教師<であった>ヘンリー・グラッタン・ギネス(Henry Grattan Guinness)<(注17)>・・・に伝えたことを受けて、彼らが、情報と写真を集めるべくコンゴに・・・宣教団を派遣したことだ。
 (注17)1835~1910年。アイルランドのダブリン生まれで、ロンドンに宣教師養成校をつくる。コンゴ改革協会の創立者の一人であるギネス(後出)は、同姓同名の彼の息子。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Grattan_Guinness
 <ちなみに、>伝染病のため、この時の35人の宣教師のうち、1900年時点で生き残っていたのは、わずか6人になってしまった。】
 <次いで、>英国の外交官のロジャー・ケースメント(Roger Casement)<(注18)>【は、領事だったが、1903年に上司に命じられてケースメント報告をまとめあげ、<後に、英>聖マイケル・聖ジョージ勲章(CMG)<(注19)>を授与されることになる。】
 (注18)1864~1916年。アイルランドのダブリン生まれ。「彼の<件の>報告書はイギリス外相の前文を添えて各国政府に送付され、国際問題へと発展した。その後リオ・デ・ジャネイロ駐在総領事となりプトゥマーヨ河で発生した原住民虐殺事件の調査を命じられ、その地域で行なわれたゴム業者による原住民への搾取と虐待を報告した。1912年に辞職。第一次世界大戦中の1916年、アイルランド義勇軍がイースター蜂起に使う武器を調達をするため、ドイツ帝国のベルリンに渡ったが帰国時に逮捕された。反逆罪とスパイ活動の罪でロンドンで絞首刑となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
 (注19)その(3等を除く)1等と2等は授与されるとナイト爵を授与されたことになる。「重要な公職を努め、・・・<かつては>イギリスのイギリスの保護領や植民地・・・<現在では英>連邦及び外国との関係に於て非軍事面で功績のあった人物が対象とされている。イギリス連邦の国民に関しては、外交官や英連邦諸国の行政官等の公務員が主な対象であり、役職に応じてある程度自動的に授与される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E8%81%96%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%8B%B2%E7%AB%A0
 <また、英国の>元船積み事務員(shipping clerk)のE.D.モレル(Morel)<(注20)>【は、ジャーナリストをしていたが、毎週、<現地の状況を英国の>週刊誌『西アフリカ通信(West Africa Mail)』で報じたし、・・・ギネス自身>は、英国中を講演して回った後、1907年に、<コンゴの>実情を米大統領のセオドア・ローズベルトに話すこととなる。】
 (注20)1873~1924年。「17歳でリバプールの海運会社の事務員となり1893年からは生活のためアフリカ関係を扱うジャーナリストの仕事もするようになった。海運会社の主任連絡員としてリバプールからベルギーを往復する間にコンゴ自由国から輸入されるゴムの圧倒的多さに対して、ベルギーからコンゴへ輸出される商品が武器弾薬に限られていることに気付いて調査に乗り出し、1900年からコンゴ自由国の内情とベルギー国王レオポルド2世の圧制を暴露して糾弾した。1906年には代表作『赤いゴム』を発表して国際世論を味方につけ・・・1908年にコンゴ自由国を消滅させた。第一次世界大戦が勃発すると反対運動に加わり逮捕され刑務所で半年間服役した。大戦後は労働党から国会議員に選出され1924年に亡くなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%83%AB_(%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88)
 <さて、コンゴ自由国における、この>看過しがたい搾取と広範な人権侵害の話が<欧米に>伝わると、国際的に怒りの声があがり、言葉による戦争が広く戦わされることになる。
 ・・・ケースメント・・・と・・・モレル・・・によって率いられたところの、レオポルドの体制を吟味するキャンペーンは、【<この2人と(上出の人物の息子である同姓同名の)ギネスの3人が設立した>】コンゴ改革協会(Congo Reform Association)・・【その支部は欧州と米国に<も>設けられた】・・の後援の下、史上初の大衆的人権運動となった。
 <このキャンペーンの>支援者達の一人に、ちょっとした飢餓よりもキリスト教を同国に導入することの方が大事だと<レオポルド>国王が主張したとする『レオポルド王の独白(King Leopold’s Soliloquy)』<(注21)>という鋭い政治的風刺を書いた米国の作家のマーク・トウェイン(Mark Twain)がいる。
 (注21)1905年の政治小冊子。それからの10年間でほとんど世界中で出版されたにもかかわらず、ドイツ語圏(ドイツ、オーストリア、スイス)においては、東独で(1961年、1967年、1979年に)出版されただけにとどまっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/King_Leopold’s_Soliloquy
 なお、日本では1968年に翻訳本が出版されている
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-49dd.html
が、戦前には出版されていないようだ。
 [<また、コンゴ自由国における>人命の喪失と残虐行為は、ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)<(注22)>の『Heart of Darkness』<(注23)>といった文学を生み出し、植民への使命感を持っていたウィンストン・チャーチルまでもが怒りの声をあげるようになった。]
 (注22)1857~1924年。海洋文学で知られる英国の小説家。「ベルディチュフ(当時ポーランド、現ウクライナの一部、ウクライナ語ベルディチフ)に生まれる。父親は没落した・・・ポーランド貴族・・・の小地主で、ロシア占領下のポーランドにおいて独立運動を指導していたが摘発。捕らえられシベリアでの強制労働に処され、このときコンラッドは5歳だった。一家は北ロシアに移動し、その直後に流刑の地にて、コンラッドの母親は結核で死亡した。やがてポーランドへの帰国が許されたにも関わらず、4年後には父親も死亡し、コンラッドは叔父に引き取られた。父親は文学研究者でもあり、幼少期のコンラッドは父親所有の本を耽読していた。海洋文学に出会い感化されたのも父親の影響だった。
 16歳の年、コンラッドは・・・ポーランドを脱出。フランス商船の船員となった・・・この船員時代、コンラッドの乗る船は武器密輸や国家間の政治的陰謀にも関わっていた。・・・1878年以降、コンラッドは英国船に移り勤務した。以降、英語を学びつつ、世界各地を航海した。・・・1884年、コンラッドはイギリスに帰化した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89
 (注23)1899年の作。コンラッドは、コンゴ河の蒸気船の船長を務めたことがある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Heart_of_Darkness
 <しかし、>20世紀になっても、<コンゴ自由国の>ゴム収集者達は、<引き続き、>拷問され、不具者にされ、殺戮され続け、それは、欧米世界がベルギー政府に止めさせるよう強いるまで続くことになる。
 アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)は、コンゴ改革協会の業務を支援するために書いた、1908年の作品である『コンゴの犯罪(The Crime of the Congo)』の中で、「ゴム体制(rubber regime)」を非難した。
 ドイルは、レオポルドの統治を英国によるナイジェリアの統治と対比させ、未開の人々を統治する者は、どれだけ彼らから搾取(extract)できるより、彼らを向上させることをまず心配すべきであると、寛大さ(decency)が必要であると主張した。
 なお、忘れてはならないのは、・・・レオポルドの政策の多くは、東インドにおけるオランダのやり口を採用したものであったということと、それぞれの植民地で天然ゴム栽培が行われた所では、ドイツ、フランス、及びポルトガルも、一定程度、同様のやり口が用いられていたということだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Leopold_II_of_Belgium 前掲
http://en.wikipedia.org/wiki/Congo_Free_State 前回([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Congo_Reform_Association (【】内)
 (参照したのが英語ウィキペディアであることを考慮しなければならないとしても、)レオポルド2世批判の声を挙げた人々のほとんどは英国人で、一部が米国人(、そして1人がスウェーデン人)であったことから、(広義のとはいえ、)アングロサクソンは立派なものだ、と言いたいところですが、その米国のフィリピン統治だって、その統治に至るプロセスにおいて暴虐的なものでしたし、英国の植民地統治ですら、インドにおける天文学的餓死者の発生を見ただけでも、決して誉められたものではなかったことを我々は既に知っています。
 またまた申し上げざるをえませんが、日本の植民地統治は、客観的に見て、最も文明的なものであったことに間違いありません。
 
 結論を急ぎすぎました。
 コンゴ自由国における殺戮について、ご説明しましょう。
(続く)