太田述正コラム#5184(2011.12.19)
<田中上奏文(その9)>(2012.4.5公開)
 「<東京裁判の>起訴状は1928<(昭和3)>年1月1日を起点としており、降伏文書に調印した1945年9月2日までを対象に含めた。東京裁判の審理は、太平洋戦争に限られていないのである。・・・
 満州事変から日中戦争に至る前史として国際検事局は、<1928年5月3日の>済南事件<(コラム#214、215、4378、4534、4675、4679、4984、4986、4987、5046、5048、5052、5178)>ではなく<1928年6月4日の>張作霖爆殺<(コラム#214、1820、1881、3123、4504、4510、4671、4984)>事件を重視したのである。「制覇企図の第一歩」として張作霖爆殺事件は、計画的侵略の文脈に位置付けられた。・・・
→どうして済南事件ではなく張作霖爆殺だというのか、服部はきちんと説明すべきでした。(太田)
 <これに対し、>満州事変は収拾がついており、張鼓峰事件やノモンハン事件は外交的に解決されているのだから、東京裁判に含まれるべきではない。<日本の>外務省はそう考えた。
 このため外務省調書は、・・・太平洋戦争を終結させる為発出された文書であ<る>・・・ポツダム宣言との関係からも、東京裁判の審理を太平洋戦争に限るべきだと解した。・・・
 起訴状の対象が昭和3年以降となったことについて、外務省調書は・・・こう論じる。
 昭和3年とは一応協調外交として特色付けられた幣原外交に代り<第一次>南京事件等に於ける消極主義に対して示された当時の国民的不満に応へて登場した田中内閣の所謂「対支積極外交」台頭時期に当るものであつて、後に世界に喧伝せられた所謂「田中覚書」にも関聯し、日本の計画的侵略政策の初動時期と見做されたのかも知れない。・・・
 もっとも、<この>外務省調書<は>・・・内部資料にとどめられた・・・
 東条英機の主任弁護人で日本人弁護団副団長の清瀬一郎<(注15)(コラム#4703)>は、こう振り返っている。
 (注15)1884~1967年。京大法卒。法学博士。「弁護士、政治家。・・・文部大臣、衆議院議長を歴任。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E7%80%AC%E4%B8%80%E9%83%8E
 <この>共同謀議の始期<は>・・・てっきり田中上奏文を見てのことであろう。もしこの上奏文が本ものであったならば、かく考えるのも無理もない。・・・
 キーナン<(注16)(コラム#2367)>其の他検事諸君は、かの田中上奏文なるものを入手した。(中略)検事諸君はこれが、日本の膨張政策の脚本だ、ヒトラーのマイン・カムプに相当するものだと考え、これを基本として訴因を組み立て、共同謀議の発生初期を昭和3年1月1日(田中内閣の時)とし、(中略)世界侵略の絵巻を展開せんとした。しかるに田中上奏文なるものが、何人かが作った偽作であることが判明した。検事にしても、また検事より予告を受けていた裁判官にしても、これに替わる基礎的計画書がなければ共同謀議の根本がくずれる。ここに上奏文に替えて飛びついたのが広田内閣成立初期(昭11.8.11(ママ))に決定した「国策の基準」である。
 (注16)Joseph Berry Keenan。1888~1954年。ハーバード・ロースクール卒。米司法長官補/司法省刑事部局長[(assistant to the U.S. attorney general and director of the Criminal Division of the Justice Department)]。「<日本>に来た理由として・・・1947年春に、・・・「天皇を裁判の証人として出廷させないこと、及び日本の再軍備をやることだ」と語っている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_B._Keenan []内
 清瀬によると、<このことが、>・・・広田被告に不利に作用した。広田の外相期に発生した南京事件だけでは、広田は極刑には処せられなかっただろうと清瀬はいう。
 このように清瀬は、「田中上奏文」の日付は1927年7月だが、検察が区切りのよいところで1928年元日以降を侵略の時期に定めたと判断した。清瀬の指摘は、広田判決に対する「国策の基準」の影響を過大視しているものの、「田中上奏文」をめぐる検察の動向については示唆的と思われる。
 「田中上奏文」が戦犯起訴状の始期を左右したという観察は、清瀬に限られなかった。荒木貞夫弁護人の菅原裕(ゆたか)もこう回想している。
 検察側<は、>・・・当初は・・・いわゆる田中上奏文をもって、始期としたのではないかと思われる。<その後、>・・「国策大綱(ママ<・・「国策の基準」の誤り(太田)>)をもってこれに代えようとしたが、これまたなんら侵略的意味を有しないことが判明したので、結局、判決が訴因第一・・・「東アジア・太平洋等支配を目的とする侵略戦争の全般的共同謀議」・・・を世界的より東洋的に縮小して肯認したのは這般の関係を物語るものではあるまいか、なお1928年が不戦条約成立の年であることは注目に値する。
 ・・・外務省や弁護団が論じたように、国際検察局は「田中上奏文」の存在を信じていたのだろうか。
 田中義一が1929年に他界していたにもかかわらず、国際検察局は「田中義一」と題されたファイルを作成した。「田中義一」ファイルの文書には、「日本の世界征服計画は、田中義一首相のときに具体化されたと信じられている。田中は天皇にいわゆる田中メモリアルを提出したと考えられており、その田中メモリアルは全世界を日本の支配下に統一しようとしていた」と書かれている。
 「田中義一」ファイルの調書が作成されたのは、主に1946年1月であった。少なくともその時点まで、国際検察局<は>「田中上奏文」を本物と見なしていたことになる。」(200~201、202~208)
→ソ連人検事達は当然「田中上奏文」の存在を信じていたでしょうが、米国人検事達は、戦時中の米プロパガンダ映画によってその存在を信じ込むに至っていた、ということなのでしょうね。(太田)
(続く)