太田述正コラム#5196(2011.12.25)
<リベラルなイスラムは可能か(その2)>(2012.4.11公開)
 「合理主義者達(rationalists)は、8世紀から13世紀までの間において、偏狭な「伝統主義者達(traditionists)」との観念(ideas)の戦争・・ahl al-rayとahl al-hadith、すなわち、理性の人々と伝統の人々の間の闘争・・に敗れた。
 イスラム教は、人間と神の間に確立された教会がないところの、個人的な神中心的(theocentric)な宗教から神政的(theocratic)な宗教へと移行した。
 神がムハンマドに啓示したコーランは、この預言者に帰せられるところの言動であるハディスによって影が薄くなった。
 ハディスは、ムハンマドの死後何世紀も後に書き下された伝説と伝聞に拠っている。
 それは、アキョールの言葉である、(例えばムハンマドが死んでから生まれたある集団に彼が発したと信じられている呪い(anathema)といった、捏造だらけの「預言者学(Prophetology)」に属するところの、一種の伝承(lore)(またはスンナ(sunna)<=イスラム教徒にとっての標準として定められた生活様式
http://ejje.weblio.jp/content/sunna
>)なのだ。
 ハディスは、砂漠社会の権力政治と社会的習俗(mores)を反映しており、シャリアの中におけるコーランの影を薄くし、古典的イスラム法学の前進の推力となり、フランスの歴史家のマキシム・ロダンソン(Maxime Rodinson)<(注4)>が「ポスト・コーラン・イデオロギー」と呼んだもの・・それは合理的探究の範囲を制限するために特に設計された・・を創造した。
 (注4)1915~2004年。フランスのマルクス主義歴史家、社会学者、東洋学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Maxime_Rodinson
 このアブ・ハニーファ(Abu Hanifa)<(注5)>の合理主義(ないしはムウタジラ(Mutazilite)<(コラム#4220)>)派は、中世世界における最も偉大な考え方の種を蒔いたが、今日のサウディアラビアで行われているところのワハブ主義(Wahhabism)の先駆けのアハマド・ハンバル(Ahmad Hanbal)<(注6)>によって横にどけられてしまった。
 (注5)699~767年。現在のイラクのクーファ(Kufa)に生まれる。時のアッバース朝のカリフが彼を主任裁判官に任命しようとした時に彼が就任を拒んだために投獄され、獄死した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ab%C5%AB_%E1%B8%A4an%C4%ABfa
 (注6)Ahmad ibn Hanbal。780~855年。現在のイラクのバクダードに生まれる。時のアッバース朝のカリフがムウタジラ派を正統とした時に、決して屈しなかったことで有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ahmad_ibn_Hanbal
 ハンバルは、「ムハンマドの伝統の中に先例を見つけることができなかったが故に一個のスイカすら決して食べなかったことで有名」であり、彼は、「「ムハンマドは投票しなかった」と唱えて民主主義のような「革新(innovations)」を拒否する、幾ばくかの原理主義的イスラム教徒達」と共鳴する。・・・
 知的停滞と「革新」禁止命令(proscription)によって、交易と経済のダイナミズムは減退した。
 累次の十字軍は、イスラム世界の中心を地中海から引き離し、ジェノサイド的なモンゴルによる荒廃は13世紀にアッバース朝文明を滅亡させた。
 爾後、イスラム教徒は、オスマン<(注7)>、モンゴル<(注8)>、サファヴィー朝<(注9)>という帝国たる超国家を創造することができた。
 (注7)「テュルク系(後のトルコ人)の帝室オスマン家を皇帝とする多民族帝国・・・1299~1922年」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD
 (注8)イル汗国。1256~1335年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ilkhanate
 (注9)「現在のイランを中心に支配したイスラム王朝(1501年~1736年)。・・・歴史的イラン地域を支配した王朝としては初めてシーア派の一派十二イマーム派を国教とし<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E6%9C%9D
 これは、ハニーファ派(Hanifi)の影響が、最初の二つとペルシャのシーア主義への転換に、残された影響力を及ぼしたことと関係している。・・・
→ここは、率直に言って意味不明です。(太田)
 ハニーファ派・・とムハンマド自身・・は商人であり、ハンバル派(Hanbali)は、究極的には、彼らが書記や兵士として仕えるところの諸王朝によって保有された土地に係る不毛の農業システムにおける「小地主(petty landlords)」だった。
 末期のオスマントルコ人と19世紀の最末期と20世紀初頭のアラブ・イスラム教徒は、イスラム・リベラリズムの再生によって欧米の成功の秘密を解き明かそうと試みたが、欧州諸国による帝国主義的侵入によってこの進化は腰を折られてしまった。
 ムスタファ・ケマル・アタチュルク(Mustafa Kemal Ataturk)<(コラム#10、24、163、164、165、167、228、658、673、1561、2646、2856、3425、3983、4001、4442)>は、次いで、非リベラルにして専制的な世俗主義をトルコに押しつけた。
 これは、ジャコバン的な「世俗主義事務局(seculatariat)による独裁」だった。
 これは<また>、トルコにとって本来無縁のイスラム主義・・ケマリズム(Kemalism)の非正統な子孫・・を生んだ。
→アキョールによるところの、脱(国家宗教たる)ケマリズム、脱トルコ文明(≒脱軍隊)(コラム#163~165)宣言ですね。
 この点に関する限り、アキョールに拍手を送りたいと思います。
 なお、遅ればせながら、「<ムスタファ・ケマル・アタチュルクは、>宗教と国家とを分離した。トルコはこれを断行した唯一のイスラム国家だ。」(コラム#2856)というリューヴェン・ブレナーの主張は誤りである、と申し上げておきましょう。(太田)
 その最良の解毒剤は、正義開発党(AKP)によるイスラム・リベラリズムの回復(retrieval)であるところの、自由と自由市場であることが証明された。」(A)
→この点については、????です。
 最後にまとめてアキョール・・ツッコミどころ満載です・・批判を行います。(太田)
(続く)