太田述正コラム#5230(2012.1.11)
<ビスマルク(その4)>(2012.4.28公開)
6 ビスマルクによる権力の掌握と維持
 「オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相になったのは1862年9月だった。
 彼の任命は、徴兵期間の延長と文民徴用の役割の減少とを盛り込んだ法案をプロイセン議会が拒絶したことに伴う憲法的危機に直面した国王ウィルヘルム1世の起死回生の策だった。
 退位を考慮した後、退位する代わりに、この国王は、この47歳のユンカー(Junker)<(注18)>を召したのだ。
 (注18)「プロイセンを中心とした東部ドイツの地主貴族(厳密には準貴族)、およびその称号。・・・近代以降は資本主義経済の波の中で、封建的な農場経営が崩壊し、その多くは経済的に没落した。ただし政治的には、官僚や軍人になった場合に平民出身者より優遇されたため、大多数のユンカー出身者たちが官界や軍隊に入り、国家による終身雇用で生計を立てた。近代ドイツ軍では一大勢力となり、ナチス時代には平民出身の親衛隊と対立関係にあった。・・・ユンカーは大地主として所有する土地の収穫によって生計を立てていたが、・・・これは多数の小農家による耕作が行われていた南部のカトリック諸国(バイエルン地方など)や、多数の作物を栽培していたドイツ西部地方とは対照的な農場経営法だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC
 彼は、リベラル達からは、その激しく反動的な諸声明に対する悪口を言われる一方、正統派の保守主義者達からは、原則のない政治的策士(schemer)であるとして、その深い不信を買っていた。
 このジョナサン・ステインバーグの読みやすい新伝記は、プロイセンの外交官であるシュトゥットゥガルト(Stuttgart)のフォン・ズショック(von Zschock)顧問官(Councillor)の、ビスマルクという名前だけで、「プロイセンの真の友人達の全員の心の底からの深甚なる憎しみ」を掻き立てた、という記述を引用する。
 彼が長くその職にとどまることができるとはほとんどの人が思わなかった。
 何人かは、彼は、軍事独裁制への道を拓くであろうところの反応を掻き立てるためだけに任命された、と信じた。・・・
 ところが、彼は、その後20年間権力の座にとどまり続けたのだ。
 その間、彼はどんどん瞬間湯沸かし器的にして独裁的になって行き、政治的敵対者達を非難しては、話が大きくなり過ぎるとすねて自分の館に引き籠ることを繰り返した。
 こういった問題は、部分的にはビスマルク自身が作り出したものだ。
 1871年に作り出された混成的政治システムで、彼はプロイセンの首相と新しいドイツ帝国の宰相の両方を務めたが、それには困難な均衡を取る行為が求められた。
 ビスマルクが、彼の同時代人たるルイ・ナポレオンやベンジャミン・ディズレーリと同じく、人民保守主義(popular conservatism)に賭けて、男性普通選挙をドイツ国家の諸選挙に導入したため、それは一層困難なものとなった。
 結局これは、諸野党に塩を送ることとなった。
 1870年代におけるカトリック教会に対する迫害と1880年代における社会民主党に対する迫害は、期待した結果とは反対のものをもたらした(backfired)。
 これらの期間、ビスマルクは策略(tricks)の限りを尽くした。
 抑圧、分割統治政策、寄せ集めの(patchwork)提携、国家安全保障の喚起、といった具合に・・。
 ところが、ウィルヘルム1世と彼の後継者のフリードリヒ3世<(注19)>が二人とも1888年に亡くなり、ウィルヘルム2世が玉座に就いた。
 (注19)Friedrich III=Friedrich Wilhelm Nikolaus Karl。1831~88年。1888年3月9日~6月15日:第8代プロイセン王・第2代ドイツ皇帝。「国民は自由主義的で有能な皇太子に期待を寄せ、親しみを込めて「我らがフリッツ」と呼んだ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%B8%9D)
 政治的紛争の山とこの皇帝との意思の戦いの結果、ビスマルクは1890年に退任に追い込まれてしまう。・・・」(A)
 「・・・高齢になりつつあった国王の信頼という単一の権力基盤から、その他の制度的後ろ盾や有力な個人的随従者なしに、彼はドイツと欧州の外交に君臨した。・・・」(B)
 「・・・ウィルヘルムがビスマルクへの忠誠を維持することは容易なことではなかった。
 ビスマルクは、彼の諸政策を支持していた者達からでさえ敬して遠ざけられていた(loathed)が、とりわけ、ウィルヘルムの妻のアウグスタ(Augusta)<(注20)>、及び彼らの皇太子<(注19)>、並びに<その妻である>イギリス人たる義理の娘<(注21)>には憎まれていた。
 (注20)Augusta von Sachsen-Weimar-Eisenach。1811~90年。「夫ヴィルヘルムは相思相愛の許嫁だった<女性>との結婚を政治的思惑から許されず、やむなくアウグスタを妃に選んだ事情があり、結婚生活は不幸だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%8A%E3%83%8F
 (注21)Victoria Adelaide Mary Louise。1840~1901年。「イギリス女王ヴィクトリアの長女・・・でドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世の妃。ヴィルヘルム2世の母。愛称ヴィッキー(Vicky)。・・・幼少より聡明で父親<アルバート>の影響を受け、自由主義者だったため、ビスマルク及び舅ヴィルヘルム1世と対立する。・・・ビスマルクは<、彼女を通じ、>イギリスからプロイセンにドイツ・・・の統一に・・・口を挟んでくるのではないかとヴィッキーを憎悪した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%90%8E)
 アウグスタ、フリッツ(Fritz)<(注19)>とヴィッキーにしてみれば、このドイツの容赦なき(implacable)宰相は、悪鬼(fiend)・・人の姿をした悪魔・・のように見えたのだ。・・・」(C)
 「ビスマルクが登場するまでは、ナショナリズムとリベラリズムは正反対の極を代表しているものと一般に見なされていた。
 ところが、彼は、この命題を否定したのだ。・・・
 ディズレーリのように、彼は広範な国民に基盤を置いた選挙はナショナリズムをもたらすだろうが、それによって保守的な諸大義のために動員を行うことは可能である、と信じたのだ。・・・」(B)
 「・・・ビスマルクの力の秘密は、彼が1871年にドイツ皇帝に就けたところの、プロイセン国王ウィルヘルム1世をコントロールする彼の能力に存した。
 ウィルヘルムが、長期化したリベラルな議会多数派との紛争により退位を考えるに至っていた1862年に、ビスマルクをプロイセンの首相に任命すると、ビスマルクは短期間で自分自身を不可欠な存在に仕立て上げた。
 国王とのこの関係を、彼はその特徴的な容赦なさで活用した。
 「ビスマルクの下で皇帝であることは容易なことではない」とウィルヘルムは呻いたようだし、事実、ウィルヘルムは、時々棘に向けて微かにビスマルクに蹴られもしたけれど、ビスマルクは、常にすぐに馬具を付けて戻ってきて、自分の向こう見ずさ(temerity)を大げさに謝罪したものだ。
 ビスマルクが、いつものように、1869年にささいなことで辞任を申し出た時、ウィルヘルムは、「君の申し出を飲むと私が考えるなんてことをよくもまあ思えたもんだ! 私は、君とともに生き、君に完全に同意することが、(以下二重下線)私にとっての最大の幸せなのだ」と記し、この手紙に、「(以下二重下線)君の最も忠実なる友人、W」と署名した。
 この君主の支持という床岩から、ビスマルクはまずプロイセンを、次いでドイツを、そして更に欧州に君臨したのだ。・・・
 彼が恵まれていたのは、ビスマルクが二人の組織づくりの天才に助けられていたことだ。
 それは、プロイセンの陸軍大臣のアルブレヒト・フォン・ローン(Albrecht von Roon)<(注22)>と参謀総長のヘルムート・フォン・モルトケ(Helmuth von Moltke)<(注23)>だ。
 (注22)Albrecht Theodor Emil Graf von Roon。1803~79年。陸相:1859~73年。海相(兼務):1861~71年。「1871年伯爵、1873年元帥となり、さらに一時プロイセン首相となった。保守的な国家主義者」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3
 (注23)大モルトケ(Helmuth von Moltke the Elder)=Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke。1800~91年。1858~88年:参謀総長。1870年伯爵、71年元帥。「電信により迅速に命令伝達し、大部隊を鉄道で主戦場に輸送して、敵主力を包囲殲滅する戦術を確立した・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B1
http://en.wikipedia.org/wiki/Helmuth_von_Moltke_the_Elder
 この二人が、1864年にデンマークを、1866年にオーストリアを、そしてフランスを1870~71年に敗北させるための軍事的手段を提供した。・・・
 新しいドイツに押し付けられた、複雑で扱いにくい(unwieldy)憲法は、隠すまでもなく、ビスマルクに都合よく起草されたものだった。
 換言すれば、それは、強力な宰相が弱い国王をいじめるためのシステムを維持するためのものだったのだ。
 というわけで、<このような国家体制>を運営するのは、そもそも困難であったところ、それは1880年代末には完全に崩壊することとなった(fell apart)。
 ウィルヘルム1世が1888年に90歳で死亡すると、彼の息子のフリードリッヒがわずか99日間在位した後、喉頭癌に斃れ、彼の息子のウィルヘルム2世にその位を譲った<からだ>。・・・」(E)
 「ビスマルクは、彼のリベラルな反対者達を掘り崩すため、男性普通選挙を通じて大衆に呼びかけることによって、外国においてと同じく、国内において、均衡を達成しようとした。
 彼は、ナポレオン3世のように、既存秩序の側に国民を招集することによって民主主義を飼いならせることを示した。
 また、彼は、ディズレーリのように、大衆の有権者としての力が、地主貴族<(ユンカー等)>がそうであった以上に既存秩序の強力な支えとなるであろうことを信じた。
 ビスマルクは、カトリック信徒と社会主義者の双方に対して戦った。
 彼は、彼らを帝国の敵(Reichsfeinde)として攻撃したのだ。
 その一方、彼は、彼らの社会諸政策を剽窃し、世界最初の老齢年金と健康保険制度を導入した。
 ここでも、彼は、自分の様々な敵の武器を逆に彼らに対して用いたわけだ。・・・」(F)
 「・・・こういうわけで、ビスマルクは、普通選挙を制度化した貴族、時の指導的社会主義者と親しく交わった君主主義者、社会保障、損害補償、そして(1880年代であることを思え!)国民皆健康保険を制度化したところの社会主義の敵、ユダヤ人の解放を達成し何名ものユダヤ人と親しい友情を維持したところの(少なくとも、その生い立ちと本能からすれば)ユダヤ人嫌い(anti-semite)だった。
 彼は、その強力な知力とどんな状況に直面しようとそれを利用することができる能力でもって、これらの明白なる諸矛盾をむしろ活用することに見事に成功しえたのだ。
 これによって彼は、自分が最も専念し集中した分野であるところの、外交場裏において、名人たる存在となった。・・・
 ビスマルクは、自分の仕事に関する政治プロセスの多くをでっちあげる(make up)必要があった。
 というのも、諸議会という、彼が罠にかけられかねないところの、選挙で選ばれる議員によって構成される機関こそ存在していたものの、あくまでも実際の権力は、(一度も自身は選挙の洗礼を受けなかった)ビスマルクを任命するとともに、残りの大臣達をも任命する、国王にあったため、ビスマルクは、信頼できる同僚達から成る内閣を選ぶ権限を与えられていなかったからだ。
 それどころか、ビスマルクは、自分自身を頻発する宮廷陰謀の犠牲者である、と思い込んでいた。
 宮廷陰謀は、その大部分が王妃と皇太子によるものだったが、ビスマルクが独立した権力基盤を持っていなかったことから、彼は、しばしばすこぶる日常業務的な性格の国内諸業務を処理しなければならないという巨大なる重荷を担っていたところ、実際の、或いは想像上の疾病に藉口して頻繁に辞任の脅しを<国王に対して>かけざるをえなかった次第だ。・・・」(H)
(続く)