太田述正コラム#5280(2012.2.4)
<イギリス史とロシア史が共鳴した瞬間(その9)>(2012.5.20公開)
 「英国でも、漸進的進歩の信条は弱まっていたが、ロシアでは存在を止めた。
 <ロシアでは、>文明全体が崩壊し、リベラルによって抱懐された漸進的改善など、要するに不可能となったのだ。
 もっとも、進歩の観念が放棄されたというわけではなかった。
 むしろ、それは、ロシアの新しい統治者達が、破局の継続的出来を通じて人類が前進するという確信を再確認したことから、急進化したのだった。
 社会だけでなく、人間の本性もまた破壊されなければならず、そうして初めて再構築することができる、と。
 人間はあの世で新しい人生を送るわけではない。あの世なんてないのだ。人間は死ぬと、他の動物同様、ちりに戻る。
 しかし、一旦、科学の力を全面的に利用できるようになれば、死は強引に克服できる、と神構築者達は信じた。
 やがては、全人類は、科学的に保証された不死性を期待して待つことができるようになるだろうが、このテクノロジーによる蘇りの過程は、最も貴重な人間であるレーニンを嚆矢とすることになるだろう、と。
 詩人のマヤコフスキー(Mayakovsky)<(注39)>は、レーニンの死が1924年1月21日に発表された時のボルシェヴィキ達の間での雰囲気をとらえた。
 (注39)ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・マヤコフスキー(Vladimir Vladimirovich Mayakovsky。1893~1930年)。グルジアでウクライナ・コサック系の父とウクライナ系の母の間に生まれた詩人、劇作家。「ロシア未来派(ロシア・アヴァンギャルド)を代表するソ連の詩人。・・・<やがてスターリン>体制に幻滅感を抱き始め、・・・ピストル自殺を遂げた。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Mayakovsky
 「第一次大戦間において次第に・・・シュプレマティスム<(下出)>ならびに・・・ロシア構成主義<(下出)>が台頭。ロシア特有の<アヴァンギャルド>芸術運動となる。・・・都市労働者を支持基盤とする当時のロシア共産党の実情ならびにネップ政策との関連で、モダニズムから派生したアヴァンギャルド芸術は当局からも支持された。しかし1929年の農業集団化にはじまる・・・スターリン・・・による政治的な抑圧・・・、難解さに起因する農民を中心とする一般大衆の社会的な支持の欠如、芸術運動そのものの内在的いきづまり等の諸要因の複合により、1930年代に終息した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%89
 「レーニンは、今でさえ、生きとし生けるものすべてよりも、もっと生きている」と彼は記した。
 クラーシン<(前出)>にとっては、これは詩的奇想(conceit)を超えたことだった。
 レーニンの葬儀のすぐ後で、彼は、共産党機関紙のイズベスチャに、「レーニンの建築による不死化」という記事を載せた。
 スターリン、及び、秘密警察の長でこの葬儀を取り仕切ったフェリックス・ジェルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)<(注40)(コラム#144)>の2人を含む審議の後、レーニンの遺体は、土葬ないし火葬にするのではなく、ミイラ化することが決定された。
 (注40)フェリックス・エドムンドヴィチ・ジェルジンスキー(Felix Edmundovich Dzerzhinsky。1877~1926年)。「ベラルーシ地方の大都市ミンスク近郊・・・<の>町を領地とするポーランド人貴族の家庭に生まれた。・・・1917年12月20日、ジェルジンスキーは「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)」を創設、・・・<内戦中、>チェーカー・・・は次々と反政府グループを捕らえ、弁明の場を用意せずに・・・殺していった。・・・各地の収容所で数万人の政治犯<を>労働に従事させ・・・た。さらに・・・聖職者と資本家・自由主義者に関しては仮に政府に従っていても見つけ次第、街頭で射殺した。・・・内戦終結後、チェーカーは「内務人民委員部附属国家政治局(GPU)」として治安維持のための常設機関となった。ジェルジンスキーはGPUの初代長官に就任し、構成員に町の至る所で目を光らせて監視と粛清を続け・・・<させ>た。・・・彼は、<そ>の傍ら政府の要職も兼任した。1921年には交通人民委員(交通大臣)、1924年に最高国民経済会議議長(財務大臣)などを歴任している。・・・<ちなみに、彼は、>レーニンの唱えた民族自決についての考え<を、ポーランド・リトアニア共和国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
時代(1569~1795年)に由来するポーランド的コスモポリタニズムに則り、>頑として拒否し<続け、スターリンの気に入られ>た。・・・<このため、>1922年12月末にレーニンによって書かれた「少数民族に関する覚え書き」の中で、ジェルジンスキーはスターリンと共に「大ロシア主義の侵略者」として批判されている。・・・<ただし、彼は、>私生活でも清廉かつ私心がなく、独裁的な権限を得た人物にありがちな汚職や権力乱用とは無縁であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
 クラーシンは、レーニンの大霊廟が、壮麗さと重要性において、エルサレムやメッカを超える場所となることを欲した。
 レーニンを埋葬するために設立された葬儀委員会は、三月末に不死化委員会へと名前が改められた。
 レーニンの墓は、A.V. シュチューセフ(Shchusev)<(注41)>によって設計された。
 (注41)Alexey Viktorovich Shchusev。1873~1949年。主な作品は以下の通り。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexey_Shchusev
 ホテル・モスクワ(既に建て替えられている)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hotel_Moskva_(Moscow)
 モスクワ地下鉄コムソモレスカヤ駅舎
http://en.wikipedia.org/wiki/Komsomolskaya-Koltsevaya
 この建築家は、<ロシア>構成主義(constructivist)運動<(注42)>に関わっており、シュプレマティスム(suprematism<=幾何学的抽象運動>)<(注43)>の創始者であるカシミール・マレヴィッチ<(前出)>の影響を受けていた。
 (注42)「キュビスムやシュプレマティスムの影響を受け、1910年代半ばにはじまった、ソ連における芸術運動。絵画、彫刻、建築、写真等、多岐にわたる。・・・その特徴は、抽象性(非対象性・幾何学的形態)、革新性、象徴性等である。平面作品にとどまらず、立体的な作品が多いことも、特徴の1つである。・・・1920年代後半には、スターリンの下でソ連政府が保守化し、社会主義リアリズムが重視されて、ロシア構成主義は衰退した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 (注43)「1915年に、カジミール・マレーヴィチが主張した・・・キュビスムと未来派の影響を受けたクボ・フトゥリズモ(立体未来主義、立体=未来派)の集大成という位置付け」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%A0
(続く)