太田述正コラム#5312(2012.2.20)
<大英帝国再論(その7)>(2012.6.6公開)
 「・・・現地における個々の行政官達に大権(extraordinary power)を与えつつ、大英帝国の全球にわたる50いくつの領域は、その大部分が交易を追求してばらばらに獲得された。
 ただし、クワルテングは、やはりばらばらに統治されたところの、カナダやオーストラリアといった「白人の自治領(dominion)」、及び、北米諸植民地を含む「最初の大英帝国」、に触れることがない。
 もちろん、過去における大帝国のほとんどは、ペルシャ帝国やローマ帝国以来、原始的な交通手段で行き来する距離<の大きさ>と近代的通信手段の欠如から、こんな風に統治されるしかなかったわけだが、クワルテングが検知する英国と支那の帝国統治の類似性のよってきたるゆえんは、これらやっかいな諸事情というより、行政官達の選択方法に存した。
 どちらの場合も、行政官達は、特定の、特権的で高度に教育を受けた、しかし貴族的でない階級に所属していた。
 支那<諸帝国>においては、彼らは、何次にもわたる儒教の古典に関する過酷な競争試験に合格した学者達だった。
 大英帝国においては、彼らの大部分は、(ラテン語、ギリシャ語、古代史、そして哲学という)古典教育と望むらくは何かのスポーツについての能力を身につける場であるところの、(有料の、通常寄宿制の学校を指す英国の言葉である)「パブリックスクール」及び指導的諸大学、もっぱらオックスフォード大かケンブリッジ大、の出身だった。
 クワルテング自身、イートンとケンブリッジ大で教育を受け、ケネディ奨学生としてハーヴァード大にも学び、ケンブリッジ大から経済史の博士号を授けらており、<世が世ならば、>さしずめ、大英帝国のどこかの遠隔地を管理運営する仕事の格好の候補者たりえたかもしれない。
 しかし、彼が生まれた時期が遅すぎた。
 だから、1975年に自分達の国が独立してからすぐイギリスに移民してきたガーナ人の両親の下に1975年に生まれた彼は、その代わり保守党に入り、2010年に下院議員に選出された。
 英国の帝国は、その大部分の歴史において海と彼らの海軍の優位だけによって縫い合わされた全球的帝国であったことから、英国人達は、出来る限り、英国人の顧問や監修者たる役人達付きで地域の支配者達を通して間接的に統治することが都合が良いことを見出した。
 これは、インドで広範に用いられたシステムであり、このシステムは、後に、エジプト、そしてスーダン、ナイジェリア、更にはイラクへと拡大された。
 このように著しく多岐にわたる文化を持った諸領域を獲得した初期の時代においては、とりわけ、このシステムは悪くないように見えた。
 クワルテングは、<大英帝国統治>の諸欠陥についての分析において、獲得から独立の間の期間の短さを必ずしも勘案していない。
 ナイジェリアは、単一の統合された国としては、大英帝国の一部であったのはわずかに46年間だし、スーダンは60年未満だ。
 ビルマは、1824年から1885年の間に三度にわたって<大英帝国に>呑み込まれ、1948年に再び吐き出された。
 イラクでは、第一次世界大戦後、オスマン帝国が分解され、英国がアラブ人の国王ファイサル1世を擁立したが、同盟諸国によって英国に与えられた「委任<統治>」は12年間しか続かず、英国の間接的影響さえ王制を打倒した1958年の革命によって終焉を迎えてしまった。
 クワルテングは、英国による統治の諸欠陥は、その行政官達の「無政府主義的個人主義」と彼が呼ぶものに主として由来する、とする。
 これら行政官達は、遠く<の本国>からの諸命令を歪めたり逆行させたりすらした。
 <住民と支配者の宗教の違いを無視した結果がカシミールとイラクの悲劇をもたらしたことは前述したとおりだ。>
 他方、ビルマでは、君臨していた国王が廃位させられて彼の王国全体が武力によって併合されたが、この決定は、・・・元気のあり過ぎた(exuberant)インド担当相のランドルフ・チャーチル卿によってロンドンで行われた。
 その究極的帰結が、第二次世界大戦中の日本による占領の後、「指導者達も、真の市民社会も、諸制度も存在しない」ビルマで、民族主義的指導者たるアウン・サン(Aung San)<(注37)>の暗殺によって生じた権力の空白だ。
 (注37)=オンサン([Bogyoke (General)] Aung San。1915~47年)。「ビルマ(のちのミャンマー)の独立運動家。「ビルマ建国の父」として死後も敬愛を集めている。・・・1938年にはラングーン大学学生会と全ビルマ学生連合の委員長に選ばれビルマ学生界のリーダーとなった。・・・独立運動組織「われらビルマ人連盟[Our Burma Union]」に入り、・・・総書記として活動し、・・・一連のストライキ活動を組織した。・・・ビルマ共産党が結成された際には、・・・初代書記長に就任している。1940年にバー・モウの「貧民党」と合流し、3月にはインド国民会議にも出席したが、イギリス官憲の逮捕状が出たため[蒋介石政権の助力を得ようと支那に赴いたが、]アモイ[で日本占領軍にとどめられ、]]ビルマ独立の支援により援蒋ルートの遮断を意図する日本軍の鈴木敬司参謀本部大佐[の説得に応じ、]日本へ逃れ箱根の大涌谷に滞在・・・た。
 翌1941年2月、日本の資金援助と軍事援助を約束された彼は一旦ビルマに戻ると、青年たちを募り「三十人の志士」と後に呼ばれる仲間を率いて中国の海南島へ出国した。彼らは鈴木大佐の「南機関」のもとで独立戦争のための苛酷な軍事訓練を受けた。
 太平洋戦争開戦後の1941年12月16日に、アウンサンと同志たちは南機関の支援を得てバンコクにビルマ独立義勇軍[Burma Independence Army]を創設。日本軍と共に戦い、1942年3月にラングーンを陥落、1942年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ防衛軍[Burma Defense Army]に改組した。南機関はバー・モウ<(Ba Maw)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%A6
>を中央行政府長官に据えビルマに軍政を敷き、鈴木大佐は離任した。 1943年3月にはアウンサンは日本に招かれ・・・旭日章[Order of the Rising Sun]を受章し、同年8月1日にバー・モウを首相とするビルマ国が誕生すると国防相になった。ビルマ防衛軍はビルマ国民軍[Burma National Army]に改組された。この時期には、「面田紋次」という日本名を名乗っていた。
 しかしこの頃彼はビルマ国軍への扱いやビルマの独立国としての地位に懐疑的になり、その後インパール作戦の失敗など日本の敗色濃厚とみるやイギリスにつく事を決意する。すでに1943年11月にはイギリス軍に「寝返りを考えている」と信書を送り、1944年8月1日、独立一周年の演説でビルマの独立はまやかしだと発言。8月後半にはビルマ共産党、人民革命党と提携して「反ファシスト組織[Anti-Fascist Organisation]」の軍事的リーダーとなりひそかに組織を広げていった。
 1945年3月、北部でビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬に至り、反乱軍に対抗するためとの名目で、アウンサンはビルマ国軍をラングーンに集めた。そして3月27日、日本軍に対して銃口を開いた[=レジスタンス日→軍日(Tatmadaw=Armed Forces Day)]。「反ファシスト組織」に属する他の勢力も一斉に蜂起し、連合国に呼応した抗日運動が開始され、5月にはラングーンを恢復。6月15日には対日勝利を宣言した。・・・連合国軍は戦後のビルマ独立を認めるつもりは無かったが日本軍を崩壊させるために利用価値があると判断し、各種の援助を行った。
 1945年5月、アウン・サンは連合国軍の・・・マウントバッテン司令官<(前出)>と会談し、ビルマ国軍がビルマ愛国軍(Patriot Burmese Forces、 PBF)と改称した上で、連合国軍の指揮下に入ることで合意した。・・・
 <ところが、>・・・ビルマは再びイギリスの植民地となり、アウンサンの率いる愛国ビルマ軍は英国指揮下のビルマ軍[Burma Army]・・・に合併された。10月には英領ビルマが再建される中、翌1946年1月、アウンサンは軍を去って反ファシスト人民自由連盟([Anti-Fascist People’s Freedom League=] AFPFL)総裁に就任し、イギリス政府との交渉をはじめとする独立問題に専念することになった。以後、彼は英領ビルマとイギリスに対し自治を要求し続けた。元南機関長鈴木敬司予備役少将が、戦後ビルマに連行され、BC級戦犯として裁判にかけられそうになった時、アウンサンは、「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か!」と猛反対し、鈴木は釈放された。バー・モウはビルマを脱出して日本の新潟県に潜伏していた。バー・モウは1946年1月にGHQへ出頭したが結局イギリス政府は罪を問わず、バー・モウは8月にビルマへ帰国した。
 1946年9月、彼は英領ビルマ政府の行政参事会議長に任命され、国防と外務を担当する重責を負ったが、しかし、なお彼は反英独立主義者であり、完全独立を目指して活動を続けた。・・・
 1947年1月27日、[前英国首相のチャーチルは彼を裏切り者と見なしていたが、]彼は英国首相<の>・・・アトリーと、1年以内の完全独立を約束する「アウンサン・アトリー協定」に調印した。・・・2月には国内各派のリーダーたちと、ビルマの独立に向け連帯と協力を確認する「パンロン合意[Panglong Agreement]」を発表したが国内は混乱を続けていた。4月には制憲議会選挙でAFPFLは202議席中196議席を獲得し圧勝した・・・。
 <ところが、>1947年7月19日、・・・政敵であり前首相のウー・ソー・・・(ウ・ソオ[=U Saw])の一味だとされている手で・・・6人の閣僚とともに暗殺され・・・翌1948年1月4日のビルマの独立を見ることなくわずか32歳と5ヶ月で没した。アウンサン暗殺については、親日家のウ・ソオ(イギリスの統治時代、三代目の首相になったことがある)が自分の野心のために暗殺したとされている。
 イギリスは日本と組んだアウンサンをどうしても許せず、死刑囚としてナイロビの刑務所にいたウ・ソオが命と引き換えに暗殺の片棒を担がされた、とビルマ人は信じている。[実際、この暗殺事件に英下級将校達が関与していた。]
 [国防相時代の]1942年に・・・アウンサンはキン・チー(Khin Kyi)と結婚した。・・・アウンサンはキン・チーとの間に三人の子をもうけた。末娘アウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)はビルマの民主化指導者と<なり、ノーベル平和賞を受賞した>・・・。二男<は夭折>・・・した。長男アウンサンウー(Aung San Oo)はアメリカで技術者となっており、妹の政治活動には反対している。キン・チーは駐インド大使などを務めた後、1988年12月27日に没した。」
 (以上、特に断っていない限り下掲による。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Aung_San (ただし、[]内))
 独立から今日に至るまで、この力の空白を埋めたのは暴虐的な軍だった。・・・」(G)
(続く)