太田述正コラム#5360(2012.3.15)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その6)>(2012.6.30公開)
 (5)第四章
「・・・石田梅岩の商人道が、主に儒教を素材にしてできているのに対して、近江商人の商人道の源流は、仏教上の浄土真宗であ<るというのが通説だが、>異なる宗教教義から、同様の道徳体系が導かれている・・・。・・・
 石田梅岩由来の心学思想が関西一円に広がることによって、近江商人もその影響を受けて、彼らの商人道が体系的に意識されていくことになる。
 その中でまず取り上げたいのは、近江商人道の象徴的スローガン「三方よし」である。これは、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という意味である。・・・
 「近江泥棒、伊勢乞食」という当時の悪口は有名であるが、これは、伊勢商人が一所にとどまって商売をするのに対して、近江商人があちこち他郷で行商して歩くことを指しているという。・・・
 さて、三方よし」・・・の考えは、・・・もともと、「自利利他円満」の菩薩道の教義を実践せよとの宗教意識のもとに、近江商人<が>商業活動を行ってきた<ことを示している。>・・・
 商家はもともと養子が多いものだが、近江商人には特にそれが多い。嫡男が跡継ぎとして不適格なら、相続権を剥奪して店に入れない措置がとられている。かえって娘の誕生が喜ばれる傾向があった。優秀な人物を婿養子にして跡継ぎにできるからである。・・・
 有名なのが、複式簿記を使っていたことである。いつだれがどのように発明したものなのか不明らしいが、すでに1746年には使用されていたことがわかっている。また、共同出資方式による会社事業も盛んに行われ、「乗合商い」と呼ばれていた。」(110、118~119、127、109)
 松尾は、無理やり梅岩と近江商人の商人道とを結び付けていますが、要は、江戸時代に、武士を始めとする各職分に人間主義的倫理道徳が普及しており、近江商人の間でも然りであった、と単純に解するべきでしょう。
 なお、「「三方よし」は戦後の研究者が標語的に用いた言葉であり、江戸時代や明治時代に使われていたものではない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA
ようです。(注12)
 (注12)このウィキペディアに、「近江商人の流れを汲むとされる主な企業」の中に、父が勤務していたトーメン・・今はもうない・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
が出てくる。
 (近江商人とは関係のないところの、)三井物産の綿花部が分離独立してできた会社(ウィキペディア上掲)なので、創業者たる元三井物産綿花部長が近江商人の家系だったのだろうか。
 (6)第五章
 「身内集団原理の塊のように思われる武士にしても、上位者への絶対忠誠を掲げる「武士道」にまで純化したのは、実は、本物の戦争などなくなった江戸時代に入ってからである。鎌倉時代の御家人達を見ていると、契約観念も財産権の権利感覚も、まるで近代人を見ているようである。忠誠はあくまで土地保証の恩賞と引き換えであって、その契約があわなかったら主人は取り替えられる。しかもみんなして年中民事訴訟ばかりしている。・・・<それが、>全国統一されて恩賞に与える土地がなくなったとき、・・・何も与えなくても臣下に絶対の忠誠をつくしてもらう必要があった。そこではじめて、「武士道」が作られたのである。」(149~150)
 松尾は、このくだりを、上村雅洋「近江商人の経営システム」(安藤精一、藤田貞一郎『市場と経営の歴史』清文堂 1996)に拠っています(274、275)が、松尾は武士道を日本における身内集団原理とほぼ等値させている以上、自ら、武士道について、考察すべきであったところ、その形跡はほとんどありません。
 今までほとんど武士道について書いたことがない(コラム#182参照)ので、この際、私の武士道観を述べておきます。
 私は、武士道とは、弥生モードにおける支配階層の倫理道徳である、と考えています。
 すなわち、私は、辺境における縄文人との戦いや朝鮮半島で戦いが断続的に続いていたところの、私の言う拡大弥生時代(コラム#4442、4603)はもちろんのこと、(第一縄文モードの平安時代を間に挟んで、)基本的に戦乱の時代であった第一弥生モードの鎌倉・室町期においても、支配階層の倫理道徳であったと考えているわけです。
 この武士道が、平和な第二縄文モードの江戸時代において、支配階層が武士であったことから、弥生モードにおける倫理道徳が維持される一方で、縄文モードの社会を統治するため、縄文モードにふさわしい倫理道徳が付け加えられる、という形で重畳的に拡張されるに至った、と私は解しています。
 松尾、すなわち上村のように、武士の倫理道徳が江戸時代になって変容することで、初めて武士道が成立した、とは考えないわけです。
 私の見解は、武士道に関する日英両ウィキペディアに関し、古事記に登場するところの、ヤマトタケルから話を始める英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Bushido
の見解に近く、松尾らの見解は、江戸時代以降についてしか語らない日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93
の見解に近い、と言えるかもしれません。(注13)
 (注13)武士道に関するウィキペディアで、日本語版より英語版の方が記述内容が高度であるのみならず、分量も多いことには愕然とさせられる。
 英語ウィキペディアに拠りつつ、続けましょう。
 英語ウィキペディアが最も重視するのは、13世紀から16世紀にかけて・・私の言う第一弥生モードの時代・・であり、カール・スティーンストラップ(Carl Steenstrup)(注14)の著作を踏まえ、平家物語を貫いているところの、危険を顧みない勇気、凄まじい家の誇り、無私、時折の非常識なまでの主人と郎党の間の情愛(reckless bravery, fierce family pride, and selfless, at times senseless devotion of master and man)への賛美が武士道であるというのです。
 (注14)1934年~。デンマーク人の日本文学翻訳家。コペンハーゲン大学学士・修士。ハーヴァード大学博士(日本史)。1985年までデンマークの官僚。1985年からミュンヘン大学日本史教授。
http://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Steenstrup
(続く)