太田述正コラム#5366(2012.3.18)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その8)>(2012.7.3公開)
 再び、『商人道のススメ』に戻りましょう。
 「江戸時代も終わり頃になってくると、・・・<開明的な>商人道思想の<影響で、>・・・神仏は加持祈祷などとは関係ない道義的存在で、心を正しくすれば「祈らずとても神や守らん」と考える風潮が広まっていた。これに対して、はげしく反発したのが、誰あろう本居宣長だったのである。・・・宣長は商家の出身であるが、とても商売に向かないことを自覚して町医者を目指した。・・・彼は、「いのらずとても」という風潮を、「神をなほざりに思ひ奉る世のならひ」と言って慨嘆した。宣長が理屈っぽい儒教を目の敵にして攻撃したとき、本当に念頭においていたのは、心学の世俗儒教だったのではないかという気もする。こうして純粋化していった国学が武士道に影響を与え、水戸学や吉田松陰の尊王攘夷思想につながっていくのである。」(150~152)
 松尾は、「開放個人主義原理」の「商人道」を持ち上げたいばかりに、私の郷里の伊勢国(≒現在の三重県)出身の本居宣長(1730~1801年)まで、憶測を交えて一刀両断にしてくれています。
 ここもツッコミどころだらけです。
 まず、宣長が医者になったのは、商売が嫌いだったからというより、(下掲からも推察できるように、)学問研究生活を送るための資金を商売に比べてより容易かつ浮き沈みなく確保できる、と考えたからでしょう。
 「家業を手伝うも、読書に熱中し商人には向かないと母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動しており、かつ、・・・1792年・・・紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていた。宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7
 しかも、(下掲からも分かるように、)宣長は学問のための学問を追求したわけではなく、学問によって裏付けられた政策提言を行うことを目指した、と考えるべきでしょう。
 「宣長・・・は寛政の改革に強く期待して著書の『玉くしげ』を<松平>定信に献上するなど、自己の考え方が政治に生かされる事を願った・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
 「<宣長は、>紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で・・・死刑の緩和をすすめている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7 前掲
 すなわち、宣長は、石田梅岩とは違って、一職分ではなく、全職分のこと、国全体のことに関心があった、ということです。
 ですから、松尾のように、宣長と梅岩を同一次元で月旦する意味はないし、そんなことをしてはならないのです。
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<補注:本居宣長論>
 「<宣長は、>当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した。・・・
 <また、>平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。これは、<弥生モードの(太田)>万葉の「ますらをぶり」を尊び、<縄文モードの(太田)>平安文芸を「たをやめぶり」と貶めた賀茂真淵の態度とは対照的である。・・・
 <そして、>日本固有の<縄文モードの(太田)>情緒「もののあはれ」が文学の本質であると提唱した。
 <このように、縄文時代の(太田)>大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し<た>・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7 前掲
 私は、以前(コラム#50で)、宣長は、本当のことを率直に述べただけだが、それが江戸時代だったことから尊敬に値する、といった趣旨のことを記し、更に(コラム#1648で)、「荻生<徂徠>、安藤<昌益>、本居<宣長>は、いずれも、織田信長が仏教に対し、そして豊臣秀吉等がカトリシズムに対し、武力で行った<ところの、より一般的に表現すれば、>イデオロギー壊滅作戦を、江戸時代において、筆の力で継承し、完遂した人々であった」と記した。
 このような宣長の、科学的、かつ世俗的な、要するに「近代的」な物の考え方は高く評価すべきだろう。
 その上で、宣長がやったことを、私の言葉で言えば、縄文モードの江戸時代の社会を基本的に規定しているところの、縄文モードとは何か、とりわけそのエートスとは何か、の解明だったわけだ。
 そして、その結論こそ、「もののあはれ」・・私の解釈では人間主義・・だったのだ。
 武士道、ないし武士道のエートス・・この場合は倫理道徳と同値と言ってよい・・は、既に江戸時代が始まるまでに武士の間で常識化され共有されていたけれど、為政道(武士道の拡張部分)、ないし為政道のエートスが何であるかは、拡大縄文時代はもとより、第一次縄文時代さえ遠い昔のことであったため、不分明だったからだ。
 他方、徳川幕府は、最初から、第一次縄文モード時代(平安時代)の粋と言うべき源氏物語を崇敬してきており、同物語に係る年中行事を行ったほどだった。
http://book.douban.com/subject/5972469/ (等に記されていると承知)
 御三家の一つの尾張徳川家が保有していた源氏物語絵巻・・現在国宝に指定・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E7%B5%B5%E5%B7%BB
のことを想起しよう。
 この縄文モードのエートス・・為政の対象たる庶民の心情・・を明らかにすることで、源氏物語崇敬に新しい意義を見出したのが宣長だったと言えるのではなかろうか。
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 先に進みましょう。
 「1854年11月、開国交渉をしていたロシアのディアナ号は、下田港に停泊中のところ、安政大地震と大津波で大破。伊豆の戸田湊の修理地を目指して航行中大しけにあい難破した。このとき、事件に気づいた付近の宮島村の村民千人がやってきて、脱出した500人の乗組員を冬の早朝に救助し、納屋を作り、毛布や綿入れ、履物、酒、食料を差し入れた。村民達自身も、地震でほとんどが家屋を失っていた被災民のはずである。しかも外国人との接触は禁じられていたのに。
 もともと、難破などで日本に現れた外国人に対して、日本の民衆はいつも親切な対応をしてきたのである。」(152)
 ところが、「高々江戸時代以後の一部の支配階級<(武士)>に生まれた倫理観<(武士道)>にすぎないものが、明治維新後全国民に強制され、先の大戦で多くの人命を犠牲にし、そして今も市場社会という現実とのギャップで様々な問題を引き起こしているのである」(150)と松尾はしているところ、(このくだりについては後に改めて批判しますが、)三菱重工爆破事件を報じた外国特派員の記事が正しいとすれば、これは、「<日本人は、今や、>身内なら助けるけど、身内の外の他人は視野外」(71)という存在に成り果ててしまったことを示すところの、松尾の主張を裏付ける一事例である、と言えそうです。
 しかし、既に以前に言及したように、JR福知山線脱線事故の際の近隣住民の献身的な救助活動の例一つとっても、日本人が、江戸時代も現在も、一貫して変わっていないことは明らかです。
 しかも、この「日本人」には江戸時代の武士も含まれるのです。
 というのも、例えば、ディアナ号乗組員に対する地元庶民の献身的救助活動について言えば、(下掲からも、)それが、武士・・この場合は現地代官所・・の了解の下に行われたと考えざるをえないからです。
 「<献身的救助を受けたという>信頼感もあってかプチャーチンは幕府の許可を得て戸田港で帰国のための代船を建造することにした。
 これに大いに協力したのが開明派の代官江川太郎左衛門。本格的な洋式帆船の建造技術を習得する絶好のチャンスと近郷はもとより江戸からも優秀な船匠や鍛冶を呼び寄せた。
 設計と監督はロシア側が行ったが、艤装用金具から塗料まですべて現地で作ったため技術習得の成果は実に大きかった。」
http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_249.html
(続く)