太田述正コラム#5372(2012.3.21)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その11)>(2012.7.6公開)
 (8)第七章
 「北一輝<(注26)(コラム#234、965、3445)>思想や農本主義のようなファシズム思想の登場。右翼テロ横行。クーデター事件。これら昭和初期に沸き起こったことすべて、根底に共通する志向がある。・・・
 (注26)北一輝(本名:北輝次郎。1883~1937年)。眼疾を患った(右目を失明)こともあり、旧制中学中退の独学。法華経に傾倒。
 「1906年・・・処女作・・・『國體論及び純正社會主義』・・・刊行<し、>・・・社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛<されるが、>天皇機関説の考え方を基礎として天皇の神聖視を支配の根拠とする藩閥官僚政治への厳しい批判を行なっていたため、刊行後ただちに発禁処分・・・。・・・
 宮崎滔天<(コラム#4434、4515)>ら<の知遇を得た関係で>[内田良平や頭山満らの支援を得て孫文、胡漢民、汪兆銘、章炳麟、蔡元培、黄興、宋教仁らが1905年に東京で設立した]中国革命同盟会<[後に日本政府の干渉により中国同盟会と改称。辛亥革命勃発後、本部は上海に移された。]>に入党<していた北は、>・・・1911年・・・宋教仁<(コラム#234、2098、2100、4948、4977、5102)>からの電報により・・・上海に行き宋教仁のもとに身を寄せる。1913年・・・宋教仁が・・・暗殺され、その犯人が孫文であると新聞などにも発表したため、・・・上海日本総領事館の総領事<に>退清命令を受け帰国した。この経験は『支那革命外史』としてまとめられ出版される。・・・
 <19>19年<には>『国家改造案原理大綱』(・・・『日本改造法案大綱』と<後>に改題)を書き上げ<る。>・・・1923年・・・「日本改造法案大綱」<を>・・・出版法違反なるも一部伏字で発刊・・・。<その中で>クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張・・・北は<これ>を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ、」と述べている。・・・
 久野収は北を「ファウル性の大ホームラン」と評している。また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても北の方がずっと人民主義であると評した。
 また、北は安岡正篤や岸信介にも強い影響を与えたとされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B8%80%E8%BC%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F%E4%BC%9A ([]内)
 世の中の中心「大義名分」に掲げている身内共同体原理を大々的に押し出してきて、私利私欲に逸脱しきった「手段」を引っ張り返そうという志向である。・・・
 <換言すれば、>国家共同体のためという目的を押し出して、史的な利益追求を抑えよう。世界で暴れ回る西洋由来の資本主義市場経済や西洋物質文明の怒涛の侵入から、古来の国家共同体を守れ。–このような志向である。
 北一輝のファシズム思想は「国家社会主義」と呼ばれる。1919年に書いた『日本改造法案』では、在郷軍人会を労兵ソビエトに模したクーデター権力によって、天皇大権のもと既存国家機関を破壊し、枢密院・貴族院・華族制は廃止、私有財産の上限を百万円として超過分を国家が没収、資本金1千万以上の企業は国有化するというプログラムを掲げている。日本は「有機的不可分なる一大家族」とされている。・・・
 二・二六事件の決起将校は北思想の影響を強く受けていたため、北自身は反乱の首謀者扱いされて銃殺刑に処された。だがその後、・・・総力戦体制下で軍部指導部は、北思想を体制の思想的起源の一つとして公然と認めることになる。
 農本主義の方は、身内集団原理を推し立てた反資本主義や反西洋文明の志向がさらに濃厚である。
 橘孝三郎<(注27)等の>・・・農本主義<(注28)>者は、「西洋唯物文明」を敵視し、それを母体とする「近代都市資本主義」は危機に瀕していると見た。しかし他方で社会主義も中央集権や物質主義という点では資本主義と同じ穴のむじなで、単に物質的享楽を少数の人に限らず多数の労働者に分け与えようとするにすぎず、機械的大工業の生産力を拡大しようとする危険極まる錯誤だとしている。そして、それに代えて、農民による農村自治社会を展望した。太古から農村自治に基づく耕作文化を誇ってきた日本こそこの変革の先頭に立てるのであり、現実の農村の荒廃は明治以降西洋営利主義が入り込んでしまったためだとしている。
 (注27)1893~1974年。一高中退。「五・一五事件では・・・[彼が1931年に設立した自営的農村勤労学校]愛郷塾<の>・・・塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃。爆発物取締罰則違反と殺人および殺人未遂により無期懲役の判決を受けた。1940年(昭和15年)、恩赦により出獄。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%AD%9D%E4%B8%89%E9%83%8E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E9%83%B7%E5%A1%BE ([]内)
 (注28)「1920年代末の世界恐慌に端を発する農村恐慌のもと、日本では中小の自作・小作農が存続の危機に立たされることになった。この結果、反近代主義・体制批判的な性格を持つ新たなタイプの農本主義が台頭し、それらは超国家主義と結びついて発展していった。兵農一致による体制変革を主張し五・一五事件に参加した橘孝三郎、農村自治の確立をめざす権藤成卿らの思想は、多くの場合中小農出身者を多く含む軍部内の青年将校に大きな影響を与え、二・二六事件の重要な思想的背景となった。また満州事変以降、中国大陸への侵略が拡大すると、これと結びついて農民を国策の先兵として動員していく運動が現れ、特に加藤完治に指導された満蒙開拓移民の運動はよく知られている。・・・<最近では、>農本主義のなかに、エコロジー的な生命観やコミューン建設に向かう要素など、より多様な側面を探求する動きも進んでいる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 満州事変直前にはファシズム運動の統合を目指す団体ができるが、その中の「全日本愛国者共同闘争協議会」は「資本主義の打倒を期す」と綱領に謳い、「大日本生産党」も、「亡国的資本主義経済組織の根本的改廃」とか「金融機関の国家管理」という項目を綱領に掲げていた。
 さて、このような思想運動を背景に、五・一五のクーデター未遂事件が起きた。・・・同情的世論が沸き上がったのである。その結果、一国の首相を殺害するというテロを実行しておきながら、みな比較的軽微な刑で済み、しかもみな数年後には皇紀2600年の恩赦で釈放されている。そして・・・一部の運動家だけの思想であったものが、全社会をおおっていくことになる。・・・
 こ<れと>同じ年<の1933>年に、修身の教科書が全面改定され・・・一年生は「ススメ ススメ ヘイタイススメ」から始ま<り、>日本人は尊い天皇の臣民に生まれたことをありがたく思え。天皇に忠孝をつくし、命を捨てるのが最高の道徳である。–このような内容が繰り返し叩きこまれることになった。まさに『葉隠』そのもののような極端な身内集団原理道徳である。・・・
 <1935>年には天皇機関説批判が沸き起こ<り、>・・・天皇機関説を説くことは事実上禁止されてしまう。<更に、>・・・「国体明徴」・・・運動が起こり、・・・万世一系の天皇が統治し、その恵みが天地とともにきわまりないのがこの国のかたちだと<されることとなった。>・・・
 そして<1936>年には二・二六事件が起こる。このとき、叛乱部隊が選挙した山王ホテル付近では、北思想流の私有財産制限に共鳴した民衆が相呼応して決起したと言われる。
 <1937>年には『国体の本義』という冊子を文部省が刊行した。この全編が、「日本文化は西欧文化に優る」と、日本の皇国精神の世界に冠たる優位性と忠孝の教義を説いている。・・・
 それゆえ「ファシズムは金融独占資本の手先」とするコミンテルン由来の戦後の神話はそろそろみな脱却しなければならない。戦前ファシズム思想の本質は近代資本主義への反発だったのであり、その運動の担い手は資本主義の犠牲者だった。・・・軍部や革新官僚もまた、明確に反営利・反市場的意図を持って新体制を設計したのである。・・・昭和9年に出された『国防の本義とその強化の提唱』という陸軍のパンフレットでは、日本資本主義は誤っているとしてその修正を唱え、統制経済への意向を主張している。・・・実際に・・・その後このパンフレットの言う通りの体制になっていった。・・・
 そして満州で統制経済を担った官僚達が、後にその経験を本土に持ち帰ることになる。やがて彼らは・・・財界<の>激しい反対<を押し切って>・・・1940年代にその体制を完成させるのである・・・。
 結局、資本主義市場経済という「逸脱」を許さず、「大義名分」たる国家身内共同体の原理を貫き通そうという志向、これが軍国主義をもたらした力学だったのである。・・・
 戦時体制下の1942年、太平洋戦争勃発の興奮冷めやらぬ中で、文芸誌『文学界』が「近代の超克」という特別座談会を開いた。そこでは、京都学派の哲学者など、日本を代表する最高の知性が、日本の戦争を正当化する、今から見ればとんだ妄言を、次々と吐いている。しかしこれが当時の元左翼達にも広範に見られた見解の典型だっただろう。
 すなわち、西洋資本主義文明による「世界の欧州化」が、今や、アジアの反発で壁にぶつかり行き詰っており、それに代わる真に普遍的な世界史がまさに現実化しようとしていると言うのだ。・・・緒戦の日本軍勝利がそのように解釈されていたのである。
 彼らは資本主義も行き詰ったがマルクス主義も駄目だったと言う。多くの論客は若干の非転向の闘士よりも誠実に、当時のソ連のスターリン体制の暴虐の実態や、日本共産党のソ連猛獣・セクト主義的ひきまわしの問題を真正面から受けとめていたのである。その中で、西洋資本主義物質文明でもなくマルクス主義でもない解決の道を、東洋思想の中に見いだし、西洋を向こうにまわした東亜の団結と解放を希求したのである。そして、英米の自由主義・個人主義でもなく、ナチスの全体主義・ファシズムでもない両者の止揚と戦時新体制を位置付け、五族協和を掲げる満州国に理想の国を夢見たのである。」(186~195)
 容易にぶつ切りにできないため、長々と引用しましたが、松尾が、こういった、日本の近現代史に係る一連の皮相的で歪んだ物の見方に憑りつかれるに至った原因が何であったのか、知りたくなるのは私だけではないのではないでしょうか。
 五・一五事件と二・二六事件それぞれについての私の見方・・当然のことながら、松尾の見方とは180度異なる・・はここでは繰り返しません。(コラム#4515を参照されたい。)
 北一輝と橘孝三郎については、これまできちんと取り上げたことがなかったので、この際、私の見解を簡単に申し述べておきたいと思います。
(続く)