太田述正コラム#5382(2012.3.26)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その16)>(2012.7.11公開)
 (10)落穂拾い
一、日本の支那派遣軍の規律は?
 「1940年の支那派遣軍総司令部から出された「派遣軍将校に告ぐ」<は>、日本兵による略奪暴行が恨みをかって戦争遂行を困難にしていると戒めている。・・・<また、1941年の>戦陣訓・・・は、日中戦争で現場の日本兵の軍規が乱れて、強姦、略奪、殺戮などの非行が目にあまったため、・・・引き締めを図ったものなのである。・・・最初の案は、強姦、放火、略奪などを禁止するための直接の表現がとられていたが、戦場でこれが敵に入手された場合の不都合を考えて、抽象的な表現に変えられてしまった。」(269、197、266)
 この事実は、河村名古屋市長等の南京事件否定論者が頭に叩き込むべきことですね。
 なお、「戦陣訓は、1941年1月8日に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93
です。
 ちなみに、その中に出てくる、悪名高い「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」という箇所については、「郷党家門の面目を思い、捕虜となって恥を晒したり、捕虜として相手に協力してあとでその罪を問われるようなことが無いように覚悟している者は強い。だから強くあるためにはそのような覚悟をしておけ。」という意味」(ウィキペディア上掲)であって、捕虜になることを禁じた、ということではないでしょう。
二、カミカゼの意義はあったか?
 「爆弾を抱いた航空機の衝突は、投下爆弾にくらべ速力と貫通力がおとり、破壊効果も少ないことが当初から知られていた。米軍の戦闘機と防空弾幕の妨害を、特攻機が潜り抜けられる可能性も少なかった。/海軍軍令部の予測では、8機から10機が同時に最良の条件で命中しなければ空母や戦艦は撃沈できないこと、出撃する特攻機のうち1割ていどが敵の位置に到達できるだけであろうことなどが、沖縄戦の時点ですでに算定されていた。そのためもあって、特攻で沈められた大型艦船は存在しなかった」<(小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』32頁)>。実際には、出撃機総数3300機中、命中したもの11.6%、至近への突入に終わったもの5.7%、合計17.3%であった。」(198、266)
 このような事前算定があったことは興味深いものの、前にも記したことがあるけれど、当時選択できた他の手段にくらべて神風特攻攻撃が費用対効果上優れていたかどうかが問題なのであって、恐らく最も優れた攻撃方法であったことは間違いないでしょう。
 現に、3隻の正規空母を使用不能状態とすることに成功した↓というのですから、相当の戦果をあげたと言えます。
 また、パイロットの価値の方が水兵の価値より数段高いとはいえ、航空機による特攻で死んだ日本兵は3948人であったのに対し、1945年4月~6月の間だけで、特攻で死んだ米兵は4907人だったというのですから、少なくとも彼らの死が犬死でなかったことだけは確かです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
http://en.wikipedia.org/wiki/Kamikaze
三、インパール作戦は愚行であったか?
 松尾は、以下のように切り捨てています。
 「「インパール作戦」<は>、現場指揮官の私益のためになされたものである。この司令官牟田口中将は日中戦争を現場で引き起こした張本人なので、ここで功名をあげて失点を挽回する必要があったのである。・・・後方支援も補給も全く考えず、50日で攻略してみせると・・・インドにむけて侵攻を開始したのである。攻略どころか1月余りで戦力は4割に低下し<た>・・・にもかかわらず、・・・中将は反対する指揮官を次々更迭してさらに総攻撃を指令し続けたのである。結局3万人の戦死者を出して作戦は打ち切られたのだが、この責任が公式に問われることはなかった。」(202)
 以下、ざっと検証してみましょう。
 –牟田口の私益のためになされた?–
 盧溝橋事件拡大の責任を感じていたことを「私益」と形容することはそもそも不適切ですし、この事件の勃発及び拡大は中国共産党の陰謀の可能性が高い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
以上、「日中戦争を現場で引き起こした」という牟田口個人の勝手な思い込みをここに記したことは、不適切極まるのではないでしょうか。
 –失敗は牟田口個人の責任か?–
 以下のように、インパール作戦当時においても、牟田口は一中間管理職に過ぎません。
 従って、牟田口だけを批判することはおかしいと言わざるをえません。
 「南方軍の綾部総参謀副長は・・・大本営参謀本部に赴き「・・・<インパール作戦を>承認願いたい」と許可を求めた。真田穣一郎第一部長は反対したが、真田は杉山元参謀総長に別室に呼ばれ「寺内<南方軍総司令官>の始めての要望だ。やらせてよいではないか」と指示されて反対意見は封じられた。また、ビルマ方面軍の河辺正三司令官は「インパール作戦を全面的に是認し、強力にこれを実行することを企画したのはビルマ方面軍である。したがって、牟田口中将の発意によるがごとき論断は適当ではない」と作戦終了直前に述べている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F
 また、松尾は、下掲中の半藤の著書だけに拠っていますが、牟田口の作戦指導については、評価する人も少なくありません。
 松尾は、自分がどうして半藤の判断(のみ)が正しいと思ったのか、記さなければなりませんでした。
 「半藤一利<は>、兵站や部隊機械化を軽視する日本軍の風潮の極北の存在としてインパール作戦の失敗は牟田口の一連の作戦指導に責任があるという立場から、愚将と見做している。・・・
 <他方、>インパール作戦当時は参謀本部第三部長、牟田口の予備役編入後の1945年・・・2月に陸軍省人事局長となり、陸軍消滅まで同職にあった額田坦中将は、・・・コヒマという要衝を占拠しながら、まさか佐藤幸徳師団長が独断退却に決するとは夢想だにしなかった。牟田口軍司令官の無念のほどは察するに余りある<、と記している。>
 イギリスでは、英第14軍司令官ウィリアム・スリム中将が回想録・・・でインパール作戦を痛烈に批判しており、「日本陸軍の強みは上層部になく、その個々の兵士にある」と下士官兵を賛辞する一方で、「河辺将軍とその部下」ら高級指揮官については「最初の計画にこだわり応用の才がなく、過失を率直に認める精神的勇気が欠如」「日本の高級司令部は我々をわざと勝たせた」と皮肉っている。軍事史研究者のジョン・フェリスは「無能」の一言で切り捨てている。
 他方、ウィンゲート旅団参謀長のデリク・タラク少将は著書で、牟田口の作戦指導について・・・、インパール作戦以外の<マレー・シンガポール戦等の>主要戦闘では勝利を収めており、最後のインパール作戦でもワーテルローの戦い以上に劣勢な戦力で非常に際どいところまで戦ったと高く評価する私見を述べている。
 <また、>イギリス軍のアーサー・パーカー<元>中佐は、昭和37年・・・に牟田口へと渡された書簡で、意表をついた作戦と評価し、また、師団長の交替がなければ、最重要援蒋ルートであるレド公路への要衝でもあり、インパールへの補給・増援の起点でもある要衝ディマプールは落ちていたかもしれないと牟田口を高く評価した。もっとも、たとえディマプールを占領できたとしても、維持できたかどうかは別問題である<が・・。>・・・<こ>の書簡には、「もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。」と<も>記されていたという」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F 上掲
 –インパール作戦失敗の責任は問われず?–
 下掲のように、牟田口は責任を問われています。
 むしろ、河辺や寺内や杉山の責任が問われなかったことが問題でしょう。
 「牟田口第15軍司令官は軍司令官を解任され、予備役に編入された後に再召集、陸軍予科士官学校長に任じられる懲罰人事を受けた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
 なお、上掲のウィキペディアを見ると、牟田口は部下達との人間関係が全般的にうまく行っていなかったことは確かであり、管理職として適性を欠いていた部分はあったと言わざるをえません。
 いずれにせよ、インパール作戦に係る日本語ウィキペディア群に共通して言えることですが、インパール作戦のインド独立に及ぼした積極的意義にほとんど言及していない・・そもそも、チャンドラ・ボース(コラム#14、264、922、1249、1455、2021、3486、3496、3503、3698、3818、4553、4554、4576、4952。とりわけ4554参照)への言及が皆無・・ことは遺憾です。 
 それでは本項についての締め括りです。
 牟田口については、盧溝橋事件の際には中国共産党ひいては赤露の陰謀に敢然と立ち向かい、太平洋戦争劈頭にはマレー・シンガポール戦及びビルマ戦の勝利で中心的役割を果たし、また、その後、インパール作戦を推進したことによって、大英帝国の瓦解に決定的役割を果たした、という積極的評価だってできないわけではない、と私は思います。
 松尾にこんなことを言っても、およそ聞く耳を持たないでしょうが・・。
 それにしても、松尾は、人物や歴史を評価するにあたって、もう少し慎重かつ謙虚であってしかるべきでしょう。
四、敗戦後の軍物資の略奪
 「敗戦になったとたん、・・・本土決戦用などで貯蔵されていた様々な工業原料や薬品、貴金属、・・・宝石など、総計3億トン内外が闇に消えた。戦後のしあがった実業家の中には、このときの横領を元手にして事業を始めた者も少なくなかったと言う。帝国陸海軍の全資産の7割が略奪で消え、残りの主に建設資材と機械類、当時の価値で1千億円は、「公共の福祉と経済復興のため」使用せよとの占領軍の指示を受けて、政府が財閥系企業代表5人からなる委員会に処分を委任したところ、これもほとんど跡形もなく消え失せた。」(202~203)
 この前半は、いわゆる隠退蔵物資事件であり、「その調査の為に、不当財産取引調査特別委員会が開かれ、隠匿退蔵物資事件捜査部が設置された。この隠匿退蔵物資事件捜査部は、東京地方検察庁特別捜査部の前身にあたる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E9%80%80%E8%94%B5%E7%89%A9%E8%B3%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ことを覚えておいてよいでしょう。
 後半については、内務省と大蔵省が担当させられて処理をしている
http://www.mof.go.jp/about_mof/zaimu/50years/0101020101.htm
ので、記されているような杜撰なことが行われたとはにわかに信じ難いのですが、インターネット上ではそれ以上のことは調べられませんでした。
(完)