太田述正コラム#5438(2012.4.23)
<再びピゴットについて(その1)>(2012.8.8公開)
1 始めに
 XXXXさん提供の史料のうちに、村島滋「ピゴットと日英関係–「知日」イギリス人の軌跡–」(『政治経済史学300号』日本政治経済史学研究所 1991年 収録)が入っていました。
 ピゴットについては、もう十分取り上げたと思うのですが、ここは、復習と息抜きを兼ね、若干ご紹介をしようと思います。
2 ピゴットについて
 「1936年1月、ピゴットが陸相副秘書官から再度駐日イギリス大使館付武官に任命され、しかも少将という異例の高位の駐在武官として来日することになった主な理由は、自らの記すところによれば、「日本国内で最大の比重をもつ陸軍のイギリスに対する信頼を回復し、できればそれ以外の方面にも働きかけて、同様の目的を果たす」という、その成功の可能性が恐らく彼のみに期待されるきわめて重要なものであった。・・・
 チェンバレン<首相>は蔵相時代より、外務省以上に極東での日本の動向に注目しており、これとの関係調整に意を用いていた。ヨーロッパ情勢が不安の度を増すなかで、極東での同時的危機の発生を回避することが、イギリスにとってすべてに優先した。そのためにチェンバレン首相が日中戦争勃発という新たな事態に直面して、それまでの外務省主導の極東への外交姿勢に立脚した人事を不十分であるとして更迭を断行し、極東の諸事情に精通する外交官を中国と日本のそれぞれ駐在大使に任命して、精確な情報と透徹した判断を求めたことは当然であった。中国へのカー(Kerr, Sir A. Clark)<(注1)>、日本へのクレーギー<(クレイギー)>各駐在大使派遣がそれである。<日支戦争における>上海への戦火の拡大、ヒューゲッセン事件<(コラム#4272、4274、4719)>発生という日英両国間の緊張増大のさなかの1937年9月、クレーギー駐日大使は、こうして彼の、外務省の中での傑出した日本への理解の深さを評価したチェンバレン首相の期待をになって東京に着任した。そのクレーギー大使を、単に軍事面にとどまらず、外交活動全般にわたって有効に補佐したのがピゴット駐在武官である。ピゴットはまた、前大使時代チェンバレン首相に直接日本の実情を報告するという経験ももっていた。
 (注1)Archibald Clark Kerr, 1st Baron Inverchapel。1882~1951年。バース学校(Bath College)在籍:1892~1900年。1906年英外務省入省。同省の対エジプト政策を批判したため、中南米勤務等を余儀なくされるが、次第に頭角をあらわし、イラク勤務の時に抜擢されて駐支大使:1938~42年。爾後、駐ソ大使:1942~46年、駐米大使:1946~48年。
http://87.237.69.112/international/japanese.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Clark_Kerr,_1st_Baron_Inverchapel
 これだけ活躍したのだから、カーは、よほど傑出して優秀な外交官であったのだろうが、一期後輩のクレイギー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%BC
が駐日大使でほぼ外務省でのキャリアを終えたことと比較して、赴任先の運不運がこれほど明暗を分けたケースも珍しいのではないか。
 クレーギーはピゴットに全幅の信頼をおいた。「彼(ピゴット)の、16年間を過ごした日本への比類のない知識、あらゆる階層の人々との顕著な接触、そしてその熱意と気転とは、どのような上司にも評価し切れない価値をもたらすものであった」とは、クレーギーの回想である。」(150~152)
→ピゴットの日本再派遣を主張したのは英陸軍でしょうが、改めて、当時の日英両陸軍の相互敬意と相互信頼の深さが推し量れます。(太田)
 「<日支戦争の戦火が上海地区にまで及んで以来、>とくにイギリス権益の集中する上海地区を中心に、その後も現地日英両軍当局間の関係が好転しないため、ピゴットはクレーギー、カー両大使の依頼で38年5月下旬調停役として現地に派遣された。・・・
 彼が現地で畑俊六中支派遣軍最高司令官以下日本軍首脳と会談し、スモレット司令官以下英軍将校と日本軍将校との友好増進に努めたことの成果は少なくなかった。・・・バトラー(Butler, Richard A.)<(コラム#4697、4698、4699)>外務政務次官は下院で「ピゴット少将の上海訪問ははなはだ有益であった」と述べた。ピゴットは、また、上海の日本軍各陣地視察の結果、その軍規が著しく弛緩している事実を指摘し、日英間の紛争の減少と日本の威信向上のために、近衛師団を派遣すべきである旨を、日本の参謀本部に「友情をもって誠実に伝える」旨を報告し、帰国後これを実行した。」(154~155)
→南京事件が起こった当時の支那派遣日本軍の「軍規が著しく弛緩してい」たことは客観的事実であることがここからも分かりますね。(太田)
 「1939年4月、天津での反日事件<(=天津租界封鎖問題。コラム#3780、3782、3794、3970、4274、4276、4350、4392、4546、4550、4582、4711、5006、5028)>に起因して悪化した事態打開のために、現地の「杉山(元、北支派遣軍総司令官)<(コラム#3035、3063、4182、4376、4475、4719、4838、5370、5382)>・本間(雅晴、第27師団長)<(コラム#1433、3359、3365、3780、4182、4390、4754)>両将軍らが、他のだれよりも自由に話し、その勧告をきくであろう」と期待されたピゴットがまたも派遣され、これら日本軍首脳と会見、調停につとめ、一応の成果を得た。しかし、その後まもなく天津情勢は重大化し、両国友好への復帰の可能性は失われる。またこの時点になると、ピゴットを重視し過ぎるとして、クレーギーへの本国外務省の批判は益々強まり、さらに、同大使の対日宥和が過度であるとする声も大きくなっていた。これに対して、チェンバレン首相は、「私に何らかの信頼を与えるものはクレーギーの態度である」となお表明し、また、外務省の「対日偏見」にくみしなかった。
 ポーランド情勢がいよいよ逼迫し、9月ついに第二次大戦勃発という事態の中で、クレーギーらの強い留任希望にも拘らず、ピゴットは帰国を命じられる。」(155~156)
→ピゴットの英国帰国は、日英関係改善の望みが最終的に絶たれ、その結果、日英軍事衝突が不可避となったことを意味している、と帝国陸軍が受け止めた可能性は大いにある、と私は思います。
 残念でならないのは、帝国陸軍が、対英のみ開戦に向けての日本政府部内の説得についに成功しなかったことです。(太田)
(続く)