太田述正コラム#5462(2012.5.5)
<ナチスドイツの最期(その6)>(2012.8.20公開)
  ケ 情報の欠如・分断
 「・・・孤立や情報の欠如の結果であるという側面もある。
 後から振り返れば、最後の数カ月の間、ナチ体制が絶望的な状況にあったことについてはかなりくっきりと見えるわけだが、通信が途絶えつつあった国においては、当時の個々人からは必ずしもそうは見えていなかった。
 <人々が>孤立していたことが、最終の数カ月においてナチへの恐怖を増進させた。
 というのも、見せ掛け的な司法活動に対する中央集権的コントロールさえ目に見えて解体しつつあり、お墨付きが与えられていたところの無法と犯罪が猖獗しつつあったからだ。・・・
 カーショウは、深淵へと自分の国を率いて行く決意を固めていた指導者たるカリスマ的総統の下でのナチの統治の分断された構造は決定的であったことを、注意深く描写する。・・・」(F)
  コ ドイツの国民性
 「・・・ドイツの人々には、いわゆる、生来的な従順さと長いものに巻かれる性向<とがある、ということもあげてよかろう。>・・・」(C)
 「・・・権威と国家への常習的従順さはドイツ人の国民性の中に深く組み込まれている。
 <ドイツ人達は、>勝利の時も、そして今や災厄の時にあっても、無条件でヒットラーとともに戦い続けたのだ。・・・
 ドイツ人達は、爾来、彼の歴史における、この醜悪な一つの章とともに生きてきたところ、最近になって、<ようやく、>その章を直視するようになった。
 そう。<かつての>ドイツ人達はそういう人々だったのだ。
 彼らがもはやそうではなくなったということを信じたいところだが・・。・・・」(D)
→ここは、私に言わせれば、(カーショウ
http://en.wikipedia.org/wiki/Ian_Kershaw
を含めた)イギリス人の、お定まりの韜晦的ドイツ人蔑視意識の表明、といったところです。
 そのココロは、世界中誰も否定できないナチスドイツの蛮行に言及しつつ行う限りにおいては世界中誰も咎めることができないところの、ドイツ人蔑視的言辞を弄することで、彼らは、実のところ、フランス人を含めた欧州人一般に対する蔑視意識の表明を暗黙裡に行っているのです。
 もちろん、このことはイギリス人読者にはしっかりと伝わっているはずです。(太田)
3 終わりに
 「・・・我々は、カーショウが提起した二つの問いに対する確定的な解答に到達することは恐らくありえないだろう。・・・」(H)
 と、このようにある書評子が言っているように、結局、第一の問いに対してさえ、決め手的な解答をカーショウは示すことができなかったわけです。
 それどころか、第二の問いに至っては、(書評を読んだ限りでは、)カーショウは一切解答らしきものを示していません。
 私は、カーショウの取り組み方に問題があった、と考えます。
 カーショウは、社会病理学的ないし新興宗教学的な取り組み方をすべきだったのです。
 欧州では、伝統宗教たるカトリシズムに対抗してたくさんのミニ・カトリシズム的な宗派ができた、いわゆる「宗教改革」以来、全般的に脱宗教化が進展して行ったところ、カトリシズム/ミニ・カトリシズムに代わるものとしてフランスでナポレオンを教祖とするナショナリズムが生まれ、次いで(欧州の外延たる)ロシアでスターリンを教祖とするスターリン主義が生まれ、更にドイツでヒットラーを教祖とするナチズムが生まれた、と私は見ています。
 このナショナリズム、スターリニズム、ナチズムは、いずれもカトリシズムに淵源を持つところの、(新興宗教の属性と言ってもよいところの、)教祖の役割が極めて大きい新興宗教であった、というのが私の考えです。
 ナポレオンがフランスの辺境のコルシカ島出身、スターリンがロシアの辺境のグルジア出身、ヒットラーがドイツの辺境オーストリア出身、といずれも辺境出身であったことは、私には偶然の一致とは思えません。
 フランス、ロシア、及びドイツの国民から見れば、それぞれ、ナポレオン、スターリン、ヒットラーはどこか計り知れない神秘性を帯びていたこそ「教祖」たりえたのではないでしょうか。
 このうち、一番国民から支持を得ていたのは、1802年の国民投票で圧倒的多数の信任を得て終身統領に就任(後、1804年に皇帝に就任)したナポレオンであり、爾後、もはや彼を失脚させる動きが国内で起こることはありませんでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/First_French_Empire
 スターリンの場合は、あれだけ自国民を虐殺し、国内で敵をつくりながらも、彼の存命中に彼によるロシア支配が揺らぐことは全くありませんでした。(典拠省略)
 ヒットラー自身は、ナポレオンに比べれば国民からの支持の度合いには遜色があった状況下で総統に就任したけれど、第二次世界大戦勃発前後における外交的軍事的勝利の連続によって彼への支持は強化され(典拠省略)、(前述したところからも明らかなように、)戦争の状況が思わしくなくなっていた1944年の時点で、暗殺されかけ、かつこの暗殺を奇跡的に逃れたことによって、皮肉にも彼への支持は盤石化した、と言えるでしょう。
 ナショナリズムが生煮えにとどまっていた・・ドイツ内ではプロイセン王国が飛びぬけて強力ではあったものの、たくさんの小王国が併存していたし、ドイツ統合の象徴たる皇帝ウィルヘルム2世は、そのカリスマ性が無きに等しかった(注16)・・ところの、第一次世界大戦時の帝政ドイツと、ヒットラー個人崇拝的ナチズムが国内を席巻していたところの、第二次世界大戦時のナチスドイツとでは、同じくベルリンを首都とする同じくドイツ人の国であったとは言っても、全く事情が異なるのです。
 (注16)例えば、1908年の英デイリー・テレグラフ紙掲載インタビューにおいて、彼が英、仏、露、日各国を怒らせた時、ドイツ国内で譲位を求める声があがっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_II,_German_Emperor#Personality
 そんなナチスドイツの軍と国民が、「教祖」ヒットラーが死ぬまで戦い、或いは戦いへの協力を続けたことは、不思議でも何でもないのです。
 (比ぶべきもない存在だが、オウム真理教が、教祖麻原彰晃の下、一人の密告者も出すことなく、一致団結してテロ活動に邁進したことを思い出して欲しい。)
 また、「教祖」ヒットラー亡き占領下の西及び東のドイツにおいて、占領当局に対する抵抗運動が全く行われなかったのは、何の掣肘もなく、ドイツの人々に脱マインドコントロール的措置をそれぞれの占領当局が施すことができたからであり、これもまた、何の不思議もないことなのです。
 いずれにせよ、国民の大多数が「教祖」の下、新興宗教的なものに魅入られてしまう、というようなことが仏独でそれぞれ生じたところに、私のかねがねより力説しているところの、欧州文明のおぞましさがあるのです。
(完)