太田述正コラム#5687(2012.8.28)
<皆さんとディスカッション(続x1647)>
<太田>(ツイッターより)
 シリアの体制側と反体制派のそれぞれの「支配」地域が一目で分かる地図だ。
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-19285076 
 どちらも「支配」してない地域が一番広いが、要するに砂漠ってこと。
 確かに体制側は風前の灯って感じだねえ。
 それにしても英国の中東における情報収<集>能力は相変わらずスゴイなあ。
<Tqil1FM8O>(「たった一人の反乱」より)
 小泉純一郎:北朝鮮→金正日→拉致問題→土井たか子失脚→社会党崩壊
 野田佳彦:韓国→李明博→慰安婦問題→河野洋平失脚→自民党崩壊
 この対称性。
 ようやく戦後の二大偽善が仲間のチョンボで片付くわけですね。
 半島と列島の政治ダイナミズムは古来より不変ですな。
<べじたん>
 –台湾の学者の件–
≫台湾の学者が、(彼のWSJ掲載論考には典拠そのものは掲げられていないが、)指摘しているところの、日清戦争時点まで清の領土であった台湾に尖閣が属していた、(コラム#5459)ということが事実だとすれば、サンフランシスコ条約の解釈で日本側が不利であることは否めないね。≪(コラム#5633。太田)
 42~69ページに「V.2. 中国の主張を裏付ける歴史的証拠」を書いています。
 ”The Diaoyutai/Senkaku Islands Dispute: Its History and an Analysis of the Ownership Claims of the PRC, ROC, and Japan (1999)”
http://digitalcommons.law.umaryland.edu/mscas/vol1999/iss3/1/
(彼のhttp://en.wikipedia.org/wiki/Han-yi_Shawに載ってた)
 5章2節の冒頭で「尖閣諸島を初めて発見し、命名し、使ったのは中国人だったという主張を裏付ける、中国、琉球、日本の歴史的記録を、多くの中国人と日本人の学者が調べてきた。尖閣諸島に関する中国の歴史的主張を立証するのに使われた歴史的証拠の多くは、実のところ、著名な日本人歴史家の井上清によってもたらされたということは注目に値する。(42ページ)」と書いています。
 43ページの「In 1372」以降に、「中国の主張を裏付ける全ての歴史的に関連する証拠」として、『使琉球録(1534年)』『重編使琉球録(1561年)』『中山伝信録(1719年)』『使琉球雑録(1683年)』『琉球国志略(1756年)』『日本一鑑(1556年)』『三国通覧図説(1786年年)』『中外一統輿図(1862年)』という日本でもよく知られた史料を挙げています。史料は読んでも分からないので読んでいませんが、中共の公式見解を書いているだけではないかと。
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0565.pdf
http://www.fis.takushoku-u.ac.jp/research/sekai/sekai12/shimojo.html
 逆に、尖閣が台湾に属していなかったことを示す清代公式文献があるそうです。
 「下條教授は、「尖閣諸島が『台湾の一部でない』ことを示す中国の文献は、これまでにも見つかっているが、清代の公式の地理書である『大清一統志』にこうした記述が残されていた意味は大きい。中国の主張が、まったく根拠のないものであることは明白だ」と話している。MSN産経ニュース 2010.11.4 06:31」
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/news4plus/1288821627/1
 ↑の詳しい話。
http://www.fis.takushoku-u.ac.jp/research/sekai/sekai10/shimojo.html
≫<1885年10月の時点で、なお、日本の外相は、尖閣が清領であるとしつつ、実効支配に乗り出すのは時期尚早だと書いている。↓>≪(コラム#5459)
 「5月4日付けのアメリカ「ウォールストリートジャーナル」の・・投書の中で、邵漢儀氏は、1885年から1895年までの日本明治政府の公文書を調べた結果、明治政府が中国政府の魚釣島領有を認める公文書が40点以上もあることが分かった、1885年の日本外務省の公文書には、「近頃中国の新聞は、わが政府が台湾の近辺にある中国領有の島嶼を占拠したとの噂を報道し、わが国に対し疑問を抱くと同時に、中国政府に注意を喚起した。わが政府がもしこのとき俄かにしかも公然と国の標識を立てれば、かえって中国の猜疑を招く恐れがある」とあり、そうするには後日を待つのが良かろう、しかも官報や新聞に掲載する必要がないとの記載が見られると指摘している。
 日清戦争で中国が敗戦した後、明治政府は1895年1月14日の「内閣決議」に基づき、魚釣島を版図に入れた。このことは一度も公開されなかったため、中国は知る由もなかった。」
http://www.kmt.org.tw/japan/page.aspx?type=article&mnum=119&anum=7692
↑に対する反論↓ですが、どうなんでしょうねえ、尖閣が清領であると書いたのは、日本の外相ではなく、清国の新聞ではないですか?
「(2) 国標設置に関する井上馨外務卿の見解
 1885(明治 18)年、沖縄県令は、尖閣諸島の実地調査にあたり、国標建立について指揮を仰ぎたいとの上申書を山県有朋内務卿に提出した。内務卿は、これらの諸島が清国に属している証拠が見当たらず、沖縄県が所轄する宮古島や八重山島に接近した無人島嶼であるので、国標の建立は差し支えないとして、「無人島久米赤島他外二島ニ国標建立ノ件」を太政官会議に提出するための上申案をまとめた。続いて同年 10 月 9 日には、井上馨外務卿と協議し、その意見を求めた。10 月 21 日の外務卿の回答は次のような内容である。
 これらの島嶼は、清国国境にも近い小島嶼である。また、清国はその島名もつけていて、清国の新聞に、我が政府が台湾付近の清国領の島嶼を占拠したなどの風説を掲載して、我が政府に猜疑を抱き、しきりに清国政府の注意を促す者もいる。ついては、「公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ、清国ノ疑惑ヲ招キ候間、…(中略)…国標ヲ建テ開拓ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方可然存候。」
 この回答を受けた内務卿は、国標建設の件を太政官会議に上申するのを見送った。
 上記の井上外務卿の見解は、尖閣諸島が清国に属することを認める趣旨であろうか。これについては、当時小国であった日本の、大国清に対する外交上の配慮(32)であり、朝鮮問題及び琉球処分という重大問題が介在する中、このような小さな問題で、今清国と事を構えるのは得策ではないという、外務省としては当然の発想であると指摘されている(33)。」
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0565.pdf
(原文は、
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/teikokuhanto/1885-10-09dai38.html
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/teikokuhanto/1885-10-21dai38.html
<太田>
 おかげさまで、どうやら、1985年の時点では尖閣諸島が(いかなる国にも所属していない)無主の地であったらしいこと、しかし、その時点で既に同諸島を清国領であるとする主張が清国内に存在していたこと、が分かりました。
 ことのついでに、
一、「<清朝は、>1885年に台湾を福建省から分離して台湾省(1885年-1895年)を新設し<、その>・・・後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようにな<った」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
わけですが、台湾省時代の清朝の尖閣の取り扱いはどうであったのか、
二、(日本は1895年に尖閣諸島を正式に日本領としているところ、)日本はそれ以前に同諸島の先占の要件を満たしていたのか、(いたとして、それは1894年に日清戦争が始まる前だったのか後だったのか、)
の2点を調べていただくとありがたいですね。
 なお、本筋とは関係ありませんが、「乾隆九年(1744年)刊行の『大清一統志』では、台湾は「天啓中(1621年~1628年)日本に属す」と<記>され・・・ていた」
http://www.fis.takushoku-u.ac.jp/research/sekai/sekai10/shimojo.html
というのは面白いですね。
 台湾は16世紀には倭寇の有力根拠地の一つだったし、「1608年には有馬晴信が、1616年には長崎代官 村山等安が、いずれも成功はしなかったものの台湾へ軍勢を派遣した」ことはあります
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
が、なんで日本領だったことになっちゃったんですかね。
 (ちなみに、台湾はオランダ植民地時代(1624~62年)、鄭氏政権時代(1662~83年)と推移します。(ウィキペディア上掲))
 
<zTRVTy4I0>(「たった一人の反乱」より)
 32年の追跡調査でわかった「幸福な人生の秘訣」
http://wired.jp/2012/08/24/32%E5%B9%B4%E3%81%AE%E8%BF%BD%E8%B7%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%81%A7%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%81%AA%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%A7%98%E8%A8%A3%E3%80%8D/
 「学校嫌い」の自分には、残念だがこの結論は認めざるを得ない。
<uz+BnhZr0>(同上)
 内容もそうだが、こういう長期間にわたる個人の調査というのが凄い。
 イギリスの番組でも10代~30代で中にはホームレスになった青年の撮影も含まれていたが、日本じゃ無理なんだろうね。
 個人のプライベートに関るとか何とか
<太田>
 「・・・成人してからの幸福度に最も結びついていた要素は、若年期における「社会とのつながり」だった(その方面に詳しい人向けに言っておくと、相関係数は0.62)。これに比べて、「学業成績」は幸福度の予測因子としてはるかに劣っており、相関係数は0.12だった。・・・
 十代のころに両親との関係が良好であるほど、幸福度の高い成人になる可能性は上昇する。また、十代の若者にとって、自分の親を好きであることと同じくらい重要で、なおかつ同じくらい想像しがたいことは、彼らが学校を好きであることだ。・・・
 重要なのは、「何か悩み事があったり、怒りを覚えたときに相談できる相手」を持つことだ・・・
 そしてもうひとつ重要なのは、32歳になったときの幸福度を予測する因子は、10代の若者が客観的事実としてどのような生活を送っているかではなく、その若者自身が自分の生活をどのように評価しているかだという点だ。その若者は、自分の将来について楽観的で、自立していて、おおむね忙しい毎日を送っているだろうか? もし答えがイエスなら、その若者は、西洋社会における若者のステレオタイプを覆す存在であり、かつまた将来、非常に幸福な大人になる可能性が高いということだ。」(上掲サイト)
 といわけですか。
 問題は32歳で結論など出せないちゅうことだ。
 もっとも、今後も同じ集団を対象に研究を続けるんだろうから、将来、最終的な結論が出るのを楽しみにしよっと。
 それでは、その他の記事の紹介です。
 ボクは、この時点で李大統領が鬱転して弱気になったのにあわてて、外交通商省が同大統領の躁の時に発した指示のラインをリコンファームした、と見るね。↓
 「・・・李明博大統領は今年6月11日、メディアの取材に「法的なものでなくとも人道的な措置を」と言及。日本側に歩み寄る意図との見方が出ていたが翌日、外交通商省が「法的措置を取らなければならない」とする従来の立場は変わらないとして大統領発言を否定。強硬に日本の法的責任を追及する挺対協を支持する見解を示した。・・・」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120827/kor12082719510006-n1.htm
 創造力をノーベル賞(平和賞を除く)受賞者数で計る限り、アラビア語やハングルは表音文字だが「想像力を抑圧」するようだし、結構創造力がありそうな日本語は表音文字と表意文字の併用・・表意文字だけより更に複雑・・だけどどうしてくれる?
 大体からして、漢字は結構合理的にできていて、「覚えるためには暗記しかない」わけじゃないぜ。
 ま、中共の場合、簡体字にしちゃったから、文字通り暗記しかないのかもしんないけどね。↓
 「・・・作家William C Hannasは・・・英語などの表音文字では書かれた言葉と発音が対応している。ところが表意文字である漢字は違う。覚えるためには暗記しかない。こうして幼いころから暗記ばかりを叩き込まれた中国人は抽象的な思考や分析能力を失<い>・・・創造力を抑圧・・・<し>てしま・・・うと主張している。・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/6893290/ 
 ニール・ファーガソンのオバマ批判の余震がまだ続いている。↓
http://www.thedailybeast.com/newsweek/2012/08/26/responses-to-niall-ferguson-s-newsweek-cover-story-on-obama.print.html
 オバマ政権のアジア重視の軍事態勢話を止めとけとくさすコラムだ。
 おおむねボクも同感だけどね。↓
 It is time to bury the Obama administration’s pivot to Asia. This reallocation of military and diplomatic resources was supposed to guarantee stability in a region seeking to balance China’s rise. In reality, this strategic shift is less than it appears. It won’t solve Asia’s problems and may even add to the region’s uncertainty by over-promising and under-delivering.・・・
http://online.wsj.com/article/SB10000872396390444506004577614941100974630.html
 ローマは共和政時代に既に帝国だったのであり、帝政時代はその帝国を維持しただけだって。言われてみればその通りだが・・。↓
 ・・・We are misled because, starting with Augustus and continuing for more than two centuries, we call the chief executive of Rome “emperor” (as the Romans did) without seeing that the label confuses the form of government with the entity being governed. What is called the Roman Republic had been an empire for two centuries before Augustus. The main difference was that, from Augustus forward, the empire essentially ceased to expand, changing from what Mr. Woolf calls a “conquest state” to a “tributary empire.”・・・
 <大英帝国同様、ローマ帝国も行き当たりばったりに領土を拡張して形成されたとさ。だけど、大英帝国は経済目的で形成されたんだから、その限りで一貫性があり、ちょっと違うで。↓>
  Mr. Woolf sometimes makes it seem as if the Roman Empire, like the British, was acquired “in a fit of absence of mind.” The reasons for acquiring a new province were often haphazard and short-term.・・・
 <ローマの場合、領土拡張の意思はあったが、被治者のことなんてまるでわかってなかったってさ。また、適当につくられた諸制度が、帝国形成後も維持されることになったってさ。↓>
 This contrast between possessing the will to conquer and lacking the understanding to govern well bedeviled the late republic and is, for Mr. Woolf, one of the chief paradoxes of Roman history, another being how long-lasting Rome’s initially ramshackle structure became as the empire consolidated its conquests.・・・
http://online.wsj.com/article/SB10000872396390444405804577558142266831700.html?mod=WSJ_Opinion_MIDDLESecond
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太田述正コラム#5688(2012.8.28)
<権威・権力・富の担い手と歴史(その1)>
→非公開