太田述正コラム#5578(2012.7.4)
<米国の心理学の問題点(その4)>(2012.10.19公開)
 (5)画一的治療
 「・・・ケーガン氏は、「ほとんどの薬は頭への一撃に準えることができる」とし、同じ一つのサイズが全員にフィットする的アプローチは治療を毒しているとし、そんななまくら的な手段は、個々人に適合的な矯正策であるとはいえない、と見る。
 <そもそも、>あらゆる人に同様な影響を与える経験などありえないのだ。
 それは、<その経験が、>自然災害、虐待、キチガイじみた親を持ったこと、失業すること、あるいは不倫をすることであれ、何であれ、言えることなのだ。
 ところが、多くのセラピストは、我々にその反対が正しい、と信じて欲しがっている。・・・
 我々を個人的に或いは政治的に苦しめる諸問題の解決法を見つけるために、内側に向けて、遺伝子、脳回路、そして薬を探し出すことに夢中になっている公衆に対しては、これらへの解決法の大部分を見つけるためには、外側に向けて、文化、階級、そして文脈を探し出す必要がある、というメッセージはどれだけ繰り返しても繰り返し過ぎることはないのだ。・・・」(A)
 「・・・自分の患者が疾病によって苦しんでいると診断(classify)したところの、臨床医は、一人残らず、その患者に薬を投与する。
 最近においては、精神衛生問題を抱える米国人の約半分がピルを投与されていて、わずか2%しか心理療法を受けていない。
 そして、臨床医達は、個々人の生活事情を変えることの治療上の価値について、どんどん信頼感を失いつつあるように見える。・・・
 ・・・製薬産業、医者、そして療法士の間の<三位一体的な>腐敗した同盟によって、薬品類が今やひどく過剰処方されているのだ。・・・」(C)
 (5)総括
 「・・・ケーガンは、この非凡な本の中で一貫して正鵠を射ている(accurate)。
 彼は、一つの章を積極的な提言にあてているが、彼自身が明記しているように、<精神疾患の診断と治療における>これらの問題点(limitations)を指摘した人はこれまでにもいたけれど、おおむね無視されてきた。
 彼が基本的に呼び掛けていることは、若干の謙虚さ、そして複雑さ、差異、そして関係性(connections)を認めることなのだ。」(B)
 「・・・大事なことすべてが見極められるわけではないし、見極められたものすべてが大事なことでもない」し、「人格と病理の探索に倫理的判断(intrusions)が紛れ込んでしまっている」<、とケーガンは指摘する。>・・・
 「宇宙は、単に我々が思っている以上に不可思議なだけではなく、我々が思い得る以上に不可思議なのだ」と。・・・」(C)
 「・・・ケーガンは、精神病が診断され治療されるやり方にとりわけ批判的だ。
 彼は、この分野に横行しているところの、科学主義、薬品処方指向、そして疑問符の付く倫理、について心配をしている。
 ケーガンは、かかる懸念を表明したのは自分が初めてではないことを認めている。トマス・サース(Thomas Szasz)<(注3)>が同じ趣旨のことを、1961年に出版された彼の本、『精神病の神話:個人的行動理論の基礎(The Myth of Mental Illness: Foundations of a Theory of Personal Conduct)の中で指摘している。・・・
 (注3)1920年~。ユダヤ系ハンガリー人。シンシナチ大学学士・同大医学大学院卒。ニューヨーク州立大学健康科学センター(シラキュース)精神病学名誉教授。彼は、いわゆる精神病は病(やまい)ではない、と主張していると理解してよさそうだ。従って、この書評子のように、ケーガンをサースと同一視はできないのではないか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Szasz
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Myth_of_Mental_Illness
 <しかし、>ケーガンはサースを引用していない。
 そのザッツは、ジョージ・サンタヤーナ(George Santayana)<(注4)>の有名な警句であるところの、過去を覚えていない者は同じ失敗を繰り返す、を辛辣に裏付けている(reinforce)。
 (注4)1863~1952年。「スペイン出身のアメリカの哲学者・詩人・・・1907年からハーバード大学で哲学の教授に就任し、1912年からフランスやイタリアへ移っている。ヘーゲル的観念論の立場から哲学、美学の研究者として著作や論文を発表している。晩年はイタリアで過ごし<た>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%8A
 面白いことに、社会的文脈を極めて気にする人物だというのに、ケーガンにはいささか視野狭窄的であるところがある。
 例えば、精神病学が診断的ラベル貼りに憑りつかれている理由を、彼は米国の健康保険会社群の要求に求めているが、<英国のような>準社会主義的なNHS(国民医療サービス)や香港のような出来高払い制(fee-for-service)の下で働いている精神病医達も、保険会社群と関わる必要がないにもかかわらず、彼らの米国における同僚達と同じような診断傾向(diagnosis prioritisation)が見られる。・・・
 ケーガンはどうすればよいかも提示している。
 すなわち、複数のデータ源を使用することでどれだけ信頼性を増すことができるか、そしてまた、どうすれば自分の倫理的選択の透明性を増すことができるか、を彼は示している。 
 最も重要なこととしてこの本が読者に思い起こさせてくれるのは、次のような基本的かつ中心的な真理だ。
 それは、人間のふるまいは、その歴史的、社会的、そして生物学的文脈抜きに理解することはできない、という真理だ。・・・」(D)
3 終わりに
 ケーガンの主張は、しごく当たり前のことのように感じられます。
 このような主張がことさら言挙げされなければならないことは、実験心理学や精神医学の面でも米国がいかに異常な国であるかを示すものではないでしょうか。
 しかし、そんな米国が戦後超大国として世界を取り仕切ってきたために、実験心理学や精神医学においても、異常な米国の実験心理学や精神医学が全球的標準となって現在に至っているわけです。
 もとより、米国の実験心理学や精神医学の成果を頭から否定する必要はないのであって、我々としては、ケーガンの指摘を念頭に置きつつ、これら成果を米国の歴史的・社会的な文脈の中で理解した上で、参考にすればいいのです。
(完)