太田述正コラム#5648(2012.8.8)
<欧米帝国主義論再考(その2)>(2012.11.23公開)
 (3)英帝国主義と日本
 「・・・ジョージ・オーウェルは、大英帝国は、「その最終的目的が窃盗であるところの、専制国家である」と記した。・・・
 オーウェルは、<大英帝国の本国と非白人系>植民地との関係は、「奴隷と奴隷主」との関係である、と確信していた。
 奴隷主は善か悪か?
 「奴隷主によるコントロールは、単純に言えば専制的なものであって、分かり易く言えば利己的なものだ」とオーウェルは記した。
 また、「仮にビルマがイギリスから若干の偶然的便益を引き出したとしても、ビルマはそれに高い代価を支払わされることは間違いない」とも。・・・
 近代的自由主義の守護聖者であるジョン・スチュアート・ミルでさえ、「もしその目的が彼らの改善であれば、専制主義は野蛮人達と関わる際の正当なる統治様式だ」と主張したものだ。・・・
 「欧州の帝国主義は、黄禍のばかげた叫びをあげることを恥じないが、アジアもまた白人による災厄(White Disaster)の狂った感覚に目覚めるかもしれないことに気付いていない」と1906年に岡倉覚三(Kakuzo Okakura)<(注1)>は書いた。・・・
 (注1)岡倉天心。1862~1913年。「日露戦争が始まった年である1904年に出版された『東洋の理想(The Ideals of the East)』<(天心の日本語ウィキペディア(下掲)では1903年出版となっている)>は、その冒頭の一節である「アジアは一つだ」で有名。彼は、近代化達成において遅れ、そのために欧米列強によって植民地にされた屈辱において、アジアは「一つ」である、と主張した。これは、汎アジア主義の初期における表明だった。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Okakura_Kakuz%C5%8D
( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%80%89%E5%A4%A9%E5%BF%83 英語版より簡略!)
 インドの初代首相のジャワハルラル・ネールは、1940年に、20世紀欧州政治についてのハンナ・アーレント等の分析者達に先立って、「ナチズム」は、「欧米帝国主義の双子の弟であり、後者は植民地や保護領(dependencies)なる外国において機能する一方、ファシズムとナチズムは、同じやり方で欧州内で機能している」と鋭い診断を下した。・・・
 1905年に日本がロシアを敗北させた当時、モハンダス・ガンディーは南アフリカの知られざる弁護士だったし、ムスタファ・ケマル(後にアタチュルク)はオスマントルコの若き兵士だった。
 中世以来、初めて、非欧州国家が欧州の大国を大きな戦争で打ち破った。
 この日本の勝利は、自分達の土地に欧州人がのさばっていることに不機嫌のまま耐えていた人々の心の中に、民族的自由、人種的尊厳、或いは単純なる復讐心等、百にのぼる幻想を引き起こした。
 ガンディーは、「日本の勝利の根はかくも遠くまで大きく広がったので、我々はそれがつけるであろう果実の全てを視覚化することが今はできない」と的確に予想した。
 その36年後、日本はアジアにおける欧州勢力に決定的な打撃を与えた。
 日本は、東アジアと東南アジアにおける、英国、米国、及びオランダの領有地を席巻し、目が回るような迅速さでもってフィリピン、シンガポール、マラヤ、香港、蘭領東インド、シャムの多くと仏領インドシナ、そしてビルマを奪取し、1942年初めにはインドとの境界に佇立するに至ったのだ。
 1942年初めにシンガポールが日本によって陥落する少し前に、オランダの亡命政権の首相のピエテル・ゲルブランディ(Pieter Gerbrandy)<(コラム#3966)>は、「日本による<植民地の>白人の人々に対する加害と侮辱は…<日本が>短期間のうちに厳しく罰せられらない限り、白人の威信に取り返しのつかない損害を与えるだろう」とその不安感をチャーチルに打ち明けている。 
 長きにわたった困難な闘争の後、日本は、空襲と原爆投下を受け、降伏し、ついに「罰せられた」。
 日本人自身、彼らが占領したアジア諸国の多くでひどく暴虐的に振る舞った。
 それでもなおかつ、多くのアジア人の目には、日本人が原住民達を恒久的な恐怖と政治的アパシー状態にとどめてきたところの、欧州勢力のオーラを完全に破壊したように見えた。
 シンガポールの建国の父であるリー・クワンユーは、彼の世代のアジア人達が学んだ教訓を回想する。
 「日本人だろうが英国人だろうが、それが誰であれ、我々をこづきまわす権利は持っていない」と。
 <白人に>へりくだる原住民<の姿>に慣れっこになっていた欧州勢力は、日本人が巧まずして、かつまた意図的に解き放ったところの、戦後のナショナリズムを、おおむね過小評価していた。
 彼らはまた、間断なく敵対的となった人々の間で<なお自分達が>とどまり続ける力がある、と誤判断をした。
 これが、とりわけインドシナにおける、多くのひどく無益な対叛乱作戦や全面戦争へと導き、<その結果が>アジアの大きな部分において傷痕となって残っている。
 にもかかわらず、非植民地化の速度は異常とも言えるほどだった。・・・」(A)
(続く)