太田述正コラム#5682(2012.8.25)
<戦前の衆議院(その13)>(2012.12.10公開)
 「・・・何故に純真なる青年将校が自ら駆って、政治的な関心を持たざるを得ざるに至ったかと云うことの原因を昨日の齋藤氏は・・・演説<で>・・・指摘して居ない・・・。・・・兎に角此の十数年間議会を舞台として政党と官僚と、財閥との間に多くの疑獄事件が行われた。議会は政民両党の政権争奪の府と化した。そうして国民大衆は誰言うとなく議会を日比谷の猿芝居とまで言うようにして来た。斯うした一つの議会に対する所の国民的不信が、軈<(やが)>ては斯う云う軍の若い将校達をして、国事を憂えしめざるを得ざる結果に導いたのである。議会を本当に振粛せんとするならば、自ら過去の過ちを精算することなくして、どうして議会政治を振粛することが出来るか。・・・
 曾て政友会、民政党の政権の下に於いて行われた選挙はどうであったろうか。買収である、干渉である、権力の選挙である、そうして県知事も警察官も両大政党の駆使の儘にならなければ、首を馘られる所の選挙である。・・・
→日本の戦前の憲政の王道時代の二大政党の、醜悪な政争振りをこれほど的確に描写し批判した言説を私は見たことがありません。
 もっとも、これまで読んでこられて、この二大政党系の議員達といえども、議場での演説(質疑)に関しては、そのレベルは、それぞれ、麻生に優るとも劣らぬものがある、とお感じになられた方も少なくないのではないでしょうか。
 これは、当時の日本が、文字通りの独立国で、しかも帝国統治を行っていたことから、その統治の基本を担っていた衆議院の議員として、後世に議事録として残る演説を行うに当たって、彼らは、否応なしに全身全霊を込めて、格調高く自らの経綸を吐露せざるを得なかったからでしょう。
 もとより、議員の平均的質だって現在よりはるかに高かったに違いありません。(太田)
 日本の朝野と支那の国民革命の志士を本当に衷心から助けて、支那革命を完成せしめた当時は、日本と支那との関係は実に国民と国民との衷心からの結ばれであった。然るに其の時代が過ぎ去って、何時の間にか日本の資本主義が発達して来るに従って、日本の対支政策も亦自ら資本主義的の立前を持たざるを得なくなって来たのである。英米と肩を並べて同じ態度で支那に対するならば、最も利害密接にして近き日本が、支那との関係に於いて一番悪化すべきは是れ理の当然である。
→ここは、幣原外交・・経済主義外交・・、ひいては外務省批判、と我々は受け止めるべきでしょう。
 外務省は、日英間のみならず、日本と支那民衆間もまた離間させた、ということです。
 ただし、後者に関しては、自由民主主義を目指したところの支那革命を捻じ曲げてしまったところの、中国国民党や中国共産党の責任の方がはるかに大きいと思いますがね。(太田)
 隋って世界大戦の後、民族革命の潮流が世界を支配して後には、何時の間にか帝国主義打倒の叫び声に押されて、日本の支那に対する外交は退嬰的とならざるを得なくなって来た。斯うした経過を経て今日は満州国の建設となり、北支問題となって来たのであるが、併しながら私は惟うに、今日日本は支那に対して本当の確立して居る所の外交的指導方針ありやと云うことになれば、無しと断定せざるを得ない。
 露西亜は今日外交政策に対して二つの立前を持って居る。其の一つは力である。其の一つは他の国の国民大衆に対して、其の生活と結び付く所の一箇の政策を持って居ることである。私は将来日本が東洋に於いて真に指導者たる所の立場を以て支那との融和を図らんとするならば、日本も亦真に国民大衆の生活と密着する所の一つの政策を以て臨むにあらざれば不可能なりと思うのである。軍部に於いてもそう云うことを感ぜられたか、満州国の建設に当たっては搾取なき王国を造ると云う一つの立前を持たれた。そうして日本の内地に対しては、やはり国家革新の立前を執られた。英米の追随外交から離れて、日本が積極的の東洋に対する外交方針を持つと云うことは、資本主義的な立前を以て、力を以て之をやると云うことではなくして、日本独特の政策を以て東洋の国民大衆を日本の真の指導下に置くと云う立前でなくちゃならぬのである。」(176~178)
→外務省批判を行いつつ、赤露の向こうを張って、日本は、軍事力を整備するとともに、マルクスレーニン主義ならぬ、日本型修正資本主義(日本型政治経済体制)の理念を掲げて対外情報宣伝活動を行いつつ、外交を展開して行かなければならない、という正論を麻生は吐いているわけです。
 ところが、当時、日本における修正資本主義の実現に向けて指導性を発揮していたのは(麻生自身が認めているように)帝国陸軍であったところ、対外情報宣伝活動も外交も外務省の所管であり、その外務省が、内政についても国際情勢についても疎く、また、やる気もなかったことから、いいように赤露やファシストたる国民党の情報宣伝活動や外交に日本がしてやられることになってしまった、ということです。
 とまれ、麻生が、というより帝国陸軍が希求したところの、「日本独特の政策を以て東洋の国民大衆を日本の真の指導下に置く」ことは、旧日本帝国外地と支那における日本型修正資本主義の普及と日本型修正資本主義を支える文化たる人間主義文化のマンガやアニメ等を通じた浸透、を通じて、前世紀末までにはおおむね実現した、と言ってよいでしょう。(太田)
(続く)