太田述正コラム#5686(2012.8.27)
<戦前の衆議院(続)(その1)>(2012.12.12公開)
1 始めに
  時代を少し遡って、XXXXさん提供の『第六十六回帝國議會議事摘要』から、引き続き、興味深い箇所ををご紹介して行きたいと思います。
 なお、第六十六議会は、1934年(昭和9年)の11月に開かれています。
 ちなみに、1934年は、以下のような年でした。
 3月1日 – 満州国にて帝政実施。執政溥儀が皇帝となる。
 5月以後 – 東北地方を中心に冷害と不漁が相次ぎ、その年の同地方は深刻な凶作となって飢饉が発生した。
 7月3日 – 齋藤内閣が帝人事件により総辞職。
 7月8日 – 岡田啓介内閣発足
 8月19日 – 独大統領選挙にてヒトラーが当選、総統と首相を兼任( – 1945年)
 10月1日 – 陸軍省がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を配布
 10月15日- 中国工農紅軍が瑞金を脱出し長征を開始
11月7日 – 東北地方の冷害凶作被害に対して、昭和天皇と香淳皇后から50万円の救恤金が下賜される。
 11月27日- 第66臨時議会召集 藤井真信蔵相が病気辞任(後任高橋是清)
 12月29日- 日本が米国にワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告。
 12月  – ヨシフ・スターリンの「大粛清」が始まる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1934%E5%B9%B4
2 戦前の衆議院
<山本悌二郎(注1)議員>(1934.11.30)
 (注1)1870~1937年。「元農林大臣。元外務大臣の有田八郎は弟。・・・獨逸学協会学校(現・獨協中学・高等学校)<で>ドイツ語を学ぶ。・・・1886年・・・に同校を卒業後、宮内省給費生としてドイツに留学し、経済学・農芸化学を学ぶ。・・・1894年・・・帰国後は宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、・・・1900年・・・台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し常務取締役支配人となる。・・・1921年・・・社長に就任。・・・1904年・・・衆議院議員総選挙に立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選する。以後当選11回。政友会内で重鎮として重きをなし、10名程度の派閥を率いていた。・・・1927年・・・に田中義一内閣で、また・・・1931年・・・に犬養内閣で、それぞれ農林大臣として入閣する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%82%8C%E4%BA%8C%E9%83%8E
 「・・・最近藤井蔵相の後と致して、高橋<是清(コラム#965、2253、3445、3522、3677、4231、4237、4245、4247、4337、4515、4616、4618、4738、4744、5598、5079、5602)(注2)>蔵相を迎えました時の、其の事情はどうでありましたか。言うまでもなく政友会が現内閣に閣僚は勿論、政務官すらも送ることを厳禁して居ると云うことは、岡田<啓介(コラム#4548、4833、5598)(注3)>首相は先刻ご存知の筈である。然るにも拘らず高橋氏を迎える場合に、政党に向かって何等の交渉もなく、何等の挨拶もなく、直接に其の党員たる高橋氏に交渉を開始致したと云うことは、是は如何なることでござる。是でも尚お政党を尊重し、政党の協力を俟つと、岡田さん言われますか。憲法政治の下に政党を軽視し、政党の力を藉らずとも、尚且つ円満なる政治の進行を妨げずと信ずる所の政治家があったならば、此の政治家は確かに錯覚に陥って居るのでありまして、憲法政治の上に政局に当たる資格はないと信ずるのであります。・・・」(16)
 (注2)1854~1936年。「1931年・・・政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)。五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年・・・に、共立学校での教え子にあたる岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく・・・軍事予算の縮小を図ったところ・・・二・二六事件において、・・・自宅・・・で青年将校らに暗殺された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85 
 高橋の一生は実に興味深い。このウィキペディアの通読を勧める。
 (注3)1868~1952年。「旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業<、>・・・上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しいと感じ、学費が掛からないところとして<紆余曲折を経て>・・・海軍兵学校に入校した。・・・<日清、日露戦争を経験し、>1923年・・・に海軍次官、1924年・・・に連合艦隊司令長官、1927年・・・に海軍大臣となり、1932年・・・に再び海軍大臣に就任。その間軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、・・・海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。1934年・・・元老・西園寺公望の推奏により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。・・・斎藤実の後継として中間<(=挙国一致)>内閣を組織するが、立憲政友会は入閣した高橋是清・床次竹二郎などを除名し、対決姿勢に回ったため、立憲民政党が与党格となる。在任中に天皇機関説をめぐる問題が起こり、岡田内閣は機関説支持とみられたため、・・・攻撃されることになった。・・・岡田は前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。・・・1936年・・・1月・・・に野党の立憲政友会による内閣不信任案の提出が行われ、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月・・・に行われた・・・総選挙において与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首鈴木喜三郎が落選するなどの大打撃を受けた。その6日後、岡田は二・二六事件で襲撃を受ける。・・・1936年・・・3月9日、<奇跡的に生き残った>岡田内閣は総辞職した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B
→相も変わらず、挙国一致内閣の意義を理解せず、政友会が政局的暗躍を続けていたことが窺えます。
 山本は、この政友会を代表して政局的演説を行った、ということです。
 これでは、焦燥感を懐いた若手陸軍将校が中心となって二・二六事件を引き起こしたのも、もとより非難されるべきではあるけれど、むべなるかな、というものです。(太田)
 「・・・此の次の通常議会に提出すべき所の予算案、之に付きましては軍部当局と財務当局との間に、可なり長い間の折衝が行われたが、遂に軍部の要求の大部分が容れられて、予算案は決定したと云う風に聞いて居ります。併しながら是と同時に各省の、即ち軍部省以外の、陸海軍以外の各省の新規要求は大削減を蒙りまして、殊に農村対策の予算計画等は、大半は成立しなかったかのように聞いて居るのであります。果たして之を事実と致しますれば、総理大臣は一体どう考えて居られるのであろうか。・・・
 華府<(ワシントン)>条約は、言うまでもなく、只今我が方で主張して居りまする所の軍備平等権と云うものとは、絶対に両立しない性質のものである、故に軍備平等権を主張する以上は、先ず以て此の華府条約と云うものの廃棄を断行しなければならぬと云うことは当然であります。・・・」(19、21)
→高橋が、以前彼が蔵相であった時に、ケインズ的政策を先取りしたかのような、(軍事費を含む)公共支出の大幅増額によって日本において、世界に先駆けて大恐慌に伴う不況を克服した後、再び蔵相となり、今度は、インフレを懸念して財政圧縮に努め始めたことは理に適っていたわけであって、それなのに、軍事費も非軍事費も減らすな、要するに財政圧縮をするな、と事実上要求する山本、また、ワシントン軍縮条約の廃棄は、対米経済力において圧倒的に劣る当時の日本にとって、論理的には不利なのであって、それなのに、同条約の廃棄を闇雲に叫ぶ山本、は、(政治家ならぬ)政治屋の典型である、と非難されても致し方ありますまい。
 まさに、この愚兄ありて(有田八郎なる)愚弟あり、という感を深くします。(太田)
(続く)