太田述正コラム#0134(2003.7.30)
<またまた北京訪問記(その3)>

 今回は、落ち穂拾いといったところです。

1 SARS
 北京空港で、健康状態を申告するための関門が設けられていた点を除けば、SARS流行の痕跡は全く見いだせませんでした。例えば、マスクをしている人は一人もいませんでした。
ただし、SARS対策のため、今までバスを利用していた市民で、自家用車通勤に切り替える人が増えた結果、北京の自動車登録件数がこの間大幅に増加したという話を耳にしました。(7月29日付の人民網に、今年の中国の自動車需要の予想以上の伸びの原因の三つのうち一つに「重症急性呼吸器症候群(SARS)の感染拡大による生活方式の変化」が挙げられています(http://biztech.nikkeibp.co.jp/wcs/leaf/CID/onair/biztech/mech/259589)。)
 なお、観光名所に行っても、王府井を散策しても、タンを吐く人はいませんし、ゴミが全くといっていいほど落ちていません。SARS対策で、固く禁じられているということは承知していましたが、これまでの訪問時ではどうだったのかが思い出せず、SARS以前から北京では公衆道徳が高かったのかどうか、判然としません。

2 中国語のバリア
 中国語ができない私が、北京の観光地に行って困るのは、英語のパンフレットを買っても、登場する人名や地名の漢字が分からないことです。例えば、Emperor Yongle というのは明の永楽帝のことなのですが、通訳兼ガイドの勾さんに漢字を書いてもらってようやく分かりました。
 では、中国語のパンフレットなら人名や地名くらいは分かるかと言うと、時々簡体字からもとの繁体字(旧漢字。台湾で今でも使用)を類推できないことがあります。
 そこで、以前から「中国の歴史上の人名・地名の繁体字・簡体字・英語表記の字典」を探していたのですが、ある学者に「そんなものはない。なくても中国人は困らないからだ。ただし、台湾にはあると聞いている」と言われて、なるほどそうだ、愚問だったと思い至りました。(読者の皆さん。なぜ愚問だったかお分かりですか。)

3 北京の中の田舎
 7月24日(木)には、北京市房山区周口店にある北京人遺跡博物館(北京原人の発掘場所)を訪問しました。北京市とは言っても、北京市中心部から南西に50-60km離れており、途中まで高速道路を使用します。
 このあたりまで行くと、田舎の姿が見え隠れしています。ろばに引かせた荷車とか、オート三輪が走っています。青空市場の世界でもあります。しかし、その一方で近代的なビルやアパートが立ち並び、スーパーもありますし、スーパーが入っている建物の一角にはマクドナルドもありました。
そのスーパーの書籍・雑誌等のコーナーには、毛沢東の著作が何冊も置いてあり、根強い毛人気をうかがわせました。(別の日に会ったインテリ女性も、政治家で軍人、思想家でかつ詩人でもあった毛のような人物は他にはいないとうっとりとしたまなざしで語っていました。)
CD/VCDのコーナーでは(亡くなって久しい)テレサ・テンのものが随分目につきました。
全般的にお客の水準の高さが推し量れました。

4 軍事ブームの中国、平和ボケの日本
 2月のコラム#103で書いたように、中国は軍事ブームであり、軍事に対して無関心な日本から来るととまどいを覚えます。
 たとえば王府井の書店では、法律関係の棚が13であったのに対し、軍事関係の棚は8つもありました。未だ十全な法治国家とは言い難い中国における法律分野のウェートは、日本に比べるとはるかに低いとは言っても、軍事への関心の高さが見てとれます。
 もっとも、私のように軍事を根底に据えて国際情勢を見ている人間からすると、中国人との方が話が通じやすいところがあります。7月11日には東京で講演を行い、23日には北京で講演を行ったわけですが、北京の講演の方がはるかに聴衆の反応が敏感で質疑応答も活発でした。(ただし、テーマが前者は「日米同盟」、後者が「日本をめぐる安全保障問題」、聴衆は前者は必ずしも安全保障問題を専攻していない学生が中心であったのに対し後者は安全保障問題を専攻している学者ないし学生でしたし、前者では基本的な話が中心であったのに対し後者では現時点でのトピックスが中心、といった違いがあります。)

5 細かいことを気にしない中国
 中国のおおらかさに感じ入ったことは数限りなくありますが、そのうち四つだけご紹介しておきましょう。
 宿舎の四つ星ホテルで、朝の9時半頃、D’ont Disturb の札をドアの外ノブにかけてパソコンに向かっていたところ、ノックがあり、ドアを開けたとたん、清掃員が入ってきて掃除等を始めました。どうしてもその時間帯に掃除等がしたいのだなと思いつつ、別の日に午後1時半頃、ホテルに一旦戻ったところ、何と掃除等の真っ最中で、自分の部屋に入るのに、(普段着で外出していたためでしょうか、)うさんくさい人間を見るような態度で(カギに代わる)カードの提示を求められました。
 明の十三陵の定陵でのこと、入り口の掲示板が中・英・日の三カ国語で書いてあったのですが、’CHERISH THE CULTURAL RELIC PLEASE D’ONT SCRIBBLE’ の下に、「芸木(に犬のような点がついている。術のつもりか?)品を保○(手偏に戸。護のつもりか?)してください刻むべからず」と書いてありました。(英語も何だかヘンですね。)ほかの掲示板の日本語もすべておかしかったです。
 王府井の目抜き通りの土産物店を冷やかしていたところ、女性の店員が子供用の磁石を使ったおもちゃを展示販売しており、70元と言っていたのですが、帰ろうとしていた私を追っかけてきて50元と言うので買うことにしました。その時に箱から出して確認しようと思いつつ、時間がなかったのでそれをしないまま、日本に帰ってから出してみたところ、部品の一つが不良品であるため、おもちゃとして使い物にならないことが判明しました。
 行きも帰りも中国国際航空だったのですが、行きの便は映画の放映はありませんでした。ところが、より飛行時間が少ない帰りの便で、食事が出てから、しかも随分時間がたった頃に映画が始まりました。予期した通り、成田への着陸態勢に入った時点でその映画は途中でうち切られてしまいました。

6 食事
 朝食は6回。うち泊まったホテルで4回(欧米式+中国式)、飲食店で中国式1回、北京空港のカフェテリアで1回ですが、飲食店で食べた中国式のおかゆに付け合わせの朝食(私はおかゆのかわりにお汁粉にした)は大変おいしいものでした。中国の都会では大部分が共稼ぎということもあり、外で朝食を食べることが多いというのですが、さすがにSARSが猖獗をきわめていた頃は自宅で朝食をとる人が増え、朝の飲食店は閑古鳥が鳴いていたそうです。
 最後の日に空港のカフェテリアで、北京滞在中それまで一度も口にしなかった麺類(牛肉麺)にありつけました。
 昼食は、屋台料理が1回、北京田舎料理が1回、北京家庭料理が1回、マクドナルドが2回でした。
 夕食は、広東料理、貴州料理、上海料理、淅江料理、蒙古料理、北京料理が1回ずつでした。いずれも、日本でのいわゆるお食事に相当する麺類がやチャーハンが全く出てきませんし、ダイエットと称して御飯も余り食べないのですね。デザートは果物のみでもっぱらスイカでした。
 この中では何と言っても狗(いぬ)のしゃぶしゃぶがメインの貴州料理が印象に残っています。想像していた味とは大違いで、これはうまい、としか言いようがありません。グルメの北朝鮮の金正日が北京を訪問するたびに狗のしゃぶしゃぶに舌鼓を打っているというのも頷けます。

7 室外での市民の娯楽
北京の市街地にある有料の天壇公園の中で、平日の午前中、社交ダンス、太極拳、刺繍、書道(石畳の上に水でぬらした書を書く)、中国将棋等に興ずる多数の高齢者(といっても、女性には比較的若い人も少なくなかった)を目にしました。彼らは定期パスで公園の中に入っているようです。これはほほえましい光景ではありますが、北京には老人達が集まれる屋内施設がないということなのだろうとも思いました。
他方、北京市内路上で、そして北京郊外の飲食店で、片や平日の朝10時頃、片や平日の午後1時頃、麻雀に興じている男性達を見ました。彼らは恐らく失業者なのでしょう。大昔の中国の光景を見ているような複雑な気持ちになりました。
(続く)