太田述正コラム#5746(2012.9.26)
<イギリスにおける7つの革命未満(その3)>(2013.1.11公開)
 (4)恩寵の巡礼(Pilgrimage of Grace)(注7)
 (注7)ヘンリー8世による1534年のカトリック教会との断絶や1536年から始まった修道院の廃止後に生じた反乱中の最大のもの。1536年に、ヨーク州で、没収された修道院財産の返還、法王への帰依の復活、カトリック教徒である王女メアリーの正統性の確認、等を求めた反乱が郷紳達を中心として起こった。経済的不満や(国王がキャサリンに代えてアン・ブーリンを妃にし、更に彼女を処刑したことやトマス・クロムウェル(コラム#4814)を重用したことへの)政治的不満もその背景にあった。国王が差し向けた討伐軍が反徒と(反徒の恩赦やヨーク又はノッティンガムでの議会開催を含む)和議を結んだ。しかし、翌1537年にヨーク州で起こった新たな反乱に藉口して、国王は反徒216人を処刑するとともに、その他の関係者たる、12人の修道院長、38人の修道僧に16人の司祭を処刑した。
http://www.kingdom-rose.net/Grece2.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Pilgrimage_of_Grace
http://en.wikipedia.org/wiki/Dissolution_of_the_Monasteries
 「・・・1536~37年の恩寵の巡礼では、反徒達は「当局の首に縄をかけるところまで行ったが、最後の詰めを怠った」。
 それは、本質的には、英国教樹立(Reformation)とトマス・クロムウェルによる修道院の廃止に反対する宗教的運動だったが、にもかかわらず、王室を裨益したところの、税制と財産諸法の改正に対する郷紳達の不満も<原因に>含まれていた。
 ここでも、反徒達は、腰の定まらない指導部という呪いに付きまとわれた。
 サー・ロバート・アスク(Robert Aske)<(注8)>「ほとんどナイーブな白痴」であり、反徒の不満を検討するための議会の招集を約束したけれど、あらゆる約束に背き、首領達を処刑し追従者達を殺戮した、「至上なるマキャヴェリスト」たるヘンリー8世の敵ではなかた。
 (注8)1500~37年。弁護士。たまたまロンドンからヨーク州に帰省中に反乱が始まり、それに参加して首領となる。和議の後、ロンドンでヘンリー8世に面会。帰途、再びヨーク州で反乱が勃発すると、変心した国王によって逮捕されてロンドン塔にぶちこまれ、反逆罪を宣告され、ヨークで絞首刑に処せられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Aske_(political_leader)
 (マクリンは、ヘンリー8世を、イギリスの最悪の国王であって、社会病質人格障害の怪物であると見なしている。)・・・」(D)
 (5)イギリス内戦(English Civil War)(コラム#1787、1789)
 「イギリス内戦は、多くの反徒が、最初の時点では、国王の処刑はもとより、退位など考えていなかったし、間違いなく、財産諸権を侵害するという観念に対してはぞっとして顔を背けたことだったろう。
 <この内戦の>第二フェーズで、ディッガーズ(Diggers)<(注9)(コラム#529)>と水平派(Levellers)<(注10)(コラム#529、1007、3465、3469、3471)>がクロムウェルとフェアファックス(Fairfax)<(コラム#3469)>から陸軍の統制権を奪取しようとしたわけだが、これこそ、イギリスが最も革命に近づいた瞬間だった、とマクリンは主張する。・・・」(D)
 (注9)「イギリスの市民革命が最高潮に達した1649年の4月初め,ウィンスタンリーに率いられた貧農の一団がサリー州の聖ジョージの丘で共用地の耕作を始めた。これをディガーズ運動という。彼らは土地の共有と賃労働関係の廃止とを呼びかけ,ノーサンプトンやケントなどでも類似の運動が開始されたが,いずれも1年足らずで妨害されて消滅した。近代社会主義の先駆的運動と評価されるが,中世の共同体を理想としていた。」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%BA
 (注10)「議会派の軍隊・・・は1645年にネイズビーの戦いで王党派軍に勝利しました。その後、ゆきづまったチャールズ1世はスコットランドに逃げ込みますが、スコットランド軍につかまってイギリス議会に引き渡された。
 このころには議会派は三つのグループに分かれていた。長老派、独立派、水平派です。長老派は穏健なグループで、国王に対して妥協的。革命に対してあまり熱心ではない。王と妥協せず、きっちり革命をやりきろうというのが独立派。ジェントリが多く、ピューリタン革命の中心勢力で、クロムウェルもこの派です。水平派は[ジョン=リルバーンが指導し、小農民や手工業者、小商人が多かった<ところの、>]最も過激なグループで人民主権を主張した。人民が一番偉い、王なんかなくしてしまえ、と主張した。貧しい農民出身の兵士に影響力があった。・・・
 王を捕らえたあと、クロムウェルは王に妥協的な長老派を追放して、<1649年1月、>王を処刑してしまった。」 
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-63.html
 「水平派ははじめはクロムウェルに協力したが、クロムウェルの独裁が強まり、その政策が保守的になるに従い、対立を深め、1649年に弾圧され、消滅した。」
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-050.html
 「・・・マクリンは、この内戦において、少量の理神論(deism)をまぶしたプロテスタントたる水平派、とりわけ一人の男<(=リルバーン?)>の味方をする(put one onside with)ほど急進的な心情を持っている。
 彼は、「1646~49年…は、基本的に重大なる変化が可能であった時であった」と認識している。
 清教徒達は、ワット・タイラー、ジャック・ケード、そして恩寵の巡礼を苦しめたところの、「信憑性障壁(credibility barrier)」を突破できていた。
 それでも彼らが失敗したのは、ユートピア主義と派閥主義という、左翼の永遠の欠点(failings)によってである、と説得力ある主張をする。
 しかし、仮に、リルバーン(Lilburne)<(注11)>とウォルウィン(Walwyn)<(注12)、そしてオヴァートン(Overton)<(注13)>がもっとうまくやっておれば、彼らのイギリスは、「帝国を獲得することなく、スイスやスカンディナヴィアのような発展をたどっていたことだろう」と。
 (注11)John Lilburne(1615~57年)。「ダラムのジェントリーの次男に生まれ,1630年ころロンドンの織物商の徒弟となった。ピューリタン文書を密輸入したかどで逮捕されむち打ちの刑をうけたが,この体験をキリストの戦士という自覚に転化した。ピューリタン革命の勃発により釈放され,内戦が始まると議会軍に参加したが45年に軍隊を離れ,革命的民主主義のパンフレット作家として活躍した。ロンドン市政民主化運動の先頭にも立ち,内戦で議会派が勝ち,革命陣営が分裂するようになると,<水平派>の指導者となり,自然権,人民主権,成年男子普通選挙権などを基本とした革命憲法〈人民協約〉の執筆に参加した。」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3
 (注12)1600?~81年。医師。水平派の指導者の一人。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Walwyn
 (注13)生年も没年も不明。水平派の指導者の一人。
http://www.british-civil-wars.co.uk/biog/overton-richard.htm
 更に、彼らは、誠実な原則と人間への敬意を通じてアイルランドを理解していたように見えるのであって、「イギリスの諸敵と提携することなど決してないと誓約する<ところの、アイルランド内の>慈悲深き中立者とのパートナーシップ」をアイルランドに提供したことだろう」<(注14)>とも。・・・」(B)
 (注14)武装蜂起したアイルランドへのクロムウェルの遠征により、「当時の人口の1/3であった60万人が殺されるか奴隷として売られるか、あるいは餓死したとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%95%99%E5%BE%92%E9%9D%A9%E5%91%BD#.E3.82.A2.E3.82.A4.E3.83.AB.E3.83.A9.E3.83.B3.E3.83.89.E3.81.AE.E6.B8.85.E6.95.99.E5.BE.92.E9.9D.A9.E5.91.BD.E3.81.A8.E5.86.85.E6.88.A6
(続く)