太田述正コラム#5748(2012.9.27)
<イギリスにおける7つの革命未満(その4)>(2013.1.12公開)
 (6)ジェームズ党の反乱(Jacobite Rising)(コラム#181、3471、3559、4174、4841、5246)
 「・・・1715年と1745年のジェームズ党の反乱は、多次元の様相からなり、よく組織化されていたのであって、若干の王制廃止論者達(republicans)の隠れ蓑にすら使われた。
 恐らく、<この本で>最も興味をそそるのは、進化的ジェームズ党主義(Evolutionary Jacobitism)の章だろう。
 その中で、マクリンは、ジェームズ党主義が、追剥、密猟や密輸と関係していて、ホイッグ党<(注15)>のお歴々が、スチュアート朝が<王座に>復帰すれば、国の債務の支払いを拒否することによって、急速に成長している資本主義的経済における債券所有者達を貧窮化させるだろうとみていた、と主張する。・・・」(D)
 (注15)「ホイッグ党の起こりはイングランド王チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位に反対の立場をとった人達をさして”Whiggamore”と言ったのが始まりである。Whigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%B0%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)
 「・・・1745年に<ジェームズ2世の孫である>(通称ボニー・プリンス・チャーリー(Bonnie Prince Charlie)こと)チャールズ・エドワード・スチュアート(Charles Edward Stuart)は、復帰するスチュアート朝のためにハノーヴァー朝国家を転覆しようとした時のそのジェームス党宣言(マニフェスト)においては、君主主義と、金融資本主義を転覆するとの脅し及びプロト福祉国家の線に沿った何ものかを打ち立てるとの誓約・・我々は、貧しい両親の子供達を国家の保護の下に置く・・とがないまぜになっていた。
 ただし、これが、チャールズ・エドワードによる機会主義的ポピュリズム以外の何物でもなかったのかどうかは、永久に分からないだろう。・・・」(A)
 「・・・1745年のジェームズ党の蜂起・・ダービー(Derby)から退却した<(コラム#181、1136、1696、1797、4885)>のは反徒達にとって最善の選択肢ではなかった・・は、考えられているよりも深刻な出来事(substantial affair)だった、とマクリンは主張する。
 彼は、数多の経済的不満に関係があることと、ジェームズ党と大規模密輸との間に関係が恐らく間違いなく存在することとを推認させるところの、ニューカッスル(Newcastle)からエクセター(Exeter)に至る10のイギリスの町における、チャールズ・エドワード・スチュアートに対する労働者階級の支持があった、ということに言及する。
 <この関連で、>彼は、18世紀のトーリー党員達(Tories)<(注16)>の人道主義に係る経済的立場を正当に強調する。
 (注16)「現在の「保守党」の前身にあたる。ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位を認める立場をとった人達をさして「Tory」と言ったのが始まりである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)
 <例えば、>サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)<(コラム#225、2901、3754、3941、4197、5216)>には、彼のトーリー党的同情心(compassion)において、ジェームズ党のかすかなる優しさ(tendresse)に勝るとも劣らないものがあった。
 とはいえ、マクリンは、チャールス・エドワードの<弱者への>同情的(sympathetic)社会的諸宣言に対して度が過ぎた高い評価を下している、と言うべきだろう。
 この王子は、寄生的王朝であるところの、スチュアート一族の他の全員と同じく、外国の資金援助に依存していた<ということを忘れてはなるまい>。
 ルイ15世の宮廷がその怠惰なやり方で、彼を貶めたという事実は、彼に<この宮廷の>お客さんであることを止めさせはしなかった。
 しかも、マクリンは、<経済>成長と人間疎外(human displacement)が手を取り合って踊ることで富が創造される、ということを容易に認めようとはしない<で、ただただ、人道主義的な言動をもてはやす>。
 経済成長<とそれに伴う人間疎外>は、いかなる王朝といえども掣肘できるような代物ではない(bigger thing than any dynasty)というのに・・。・・・」(B)
 (7)チャーチスト運動(Chartist Movement)(コラム#373、601、1374、3465、3467、3471、5053)
 「・・・1840年代のチャーチスト運動の指導者達は、「自分達自身でものの見事にひっくり返ってしまった」のだが、この運動は政府のスパイ達によって浸透されていた。・・・」(D)
 
(続く)