太田述正コラム#5790(2012.10.18)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その8)>(2013.2.2公開)
 「<1940>年の夏、大本営と政府で「南方に対する時局処理要綱」を決定した時、参謀本部は秘密裡に二つの手をうった。一つは、ビルマ・ルートの調査のかたわら、ビルマへの足がかりをつかむために・・・鈴木敬司<(注20)(コラム#5312)>大佐をラングーンへ潜入させたことと、もう一つは第八課の部員であった藤原岩市<(注21)(コラム#4552、4555)>大尉に「対南方作戦宣伝資料の研究機関」づくりを命じたことである。・・・
 <1940>年の暮近く<になって、>・・・東京神田淡路町・・・<に>わが南方の宣伝謀略機関の「淡路町事務所」は・・・店開きした・・・。・・・
 藤原大尉は、・・・仏印、タイ・・・、スマトラ、ジャワ、比島・・・を廻ることと<し、>・・・<1941>年4月早々、二ヵ月半の予定で南方へと旅立ったのである。・・・
 (注20)1897~1967年。陸士・陸大。少将。「1940年・・・6月から10月まで、<変>名でビルマに出張した。1941年・・・2月、南機関長となりバンコクに駐在し、同年11月、南方軍総司令部付としてビルマ工作に従事。1942年・・・<7>月、・・・ラングーンを離れた。・・・敗戦後、英軍からBC級戦犯に指定され、ビルマに連行されたが、アウンサン将軍・・・により釈放された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%95%AC%E5%8F%B8
 (注21)1908~86年。陸士・陸大。「藤原はもともとは情報畑の人間ではなかった。1939年、服部卓四郎によって中国から呼ばれて参謀本部入りし、作戦参謀となる予定だったが、当時藤原がチフスを患っていたことで、そのころは皇族も在籍していた作戦課ではまずいということになった。それで謀略・宣伝を担当する別の課(第8課)に配属されることになったという。
 陸軍中野学校の教官も兼務しながら・・・勉強していたが、南方作戦の実施が参謀本部の中で本決まりになってくると、8課では現地における宣伝戦について調査企画することを藤原に命じ、<・・以下、引用しなかったが本文にも出てくるところ・・>藤原は嘱託の民間人十数名を集めて調査研究を開始した。日本における現地情報の不足に直面した藤原は、自ら偽装身分で現地に入って情報と資料を集めた。また、民間の作家、記者、芸術家などを進軍先に連れて行って思想戦に資することを提案し、認められた。(いわゆる報道班員である。)
 1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けて当地に入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関の長として、・・・若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで・・・心理戦を行った。・・・
 藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B2%A9%E5%B8%82
 <藤原>大尉はこの期間に、まことに貴重な収穫を得た。
 それは、英、仏、蘭諸国の植民政策の中に、現地人に対して一片の愛情すらないことである。同じ人間でありながら、白人と現地人の間には天地雲泥の経済的な差があり、人種偏見の越えがたい壁があった。どこの国でも、白人は征服者であり、現地人は奴隷である。白人は、現地人と、飲食をともにすることすら絶対にしなかった。・・・
 大名ならば、その家臣へ世襲の生活を保証し、慈愛をもって家臣とその家族を庇護した。しかし、白人と現地人の場合は、保証も保護もないのである。あるものは、搾取と圧迫のみで、彼らに対して一片の愛情も憐みすらない。したがって、現地人の白人に対する感情には、尊敬も信頼もなかった。彼らの武力をおそれて、尊敬し信頼しているごとくよそおっているだけで、心の中にははげしい怒りのもえているのを、藤原大尉は読みとった。・・・
 そして、(誠心(まごころ)と愛をもって彼らに接し、埋火(うずみび)のように心の底へ消え残っている民族意識に点火したならば、かならず彼らも起つであろう)という、心理作戦の鍵をつかんだのだ。同時にまた(同じアジア民族として、西欧人の絆から彼らを解きはなすことこそ、我々日本人のつとめであり、また聖戦と呼べるものではないか)と、大尉は真剣に考えたのである。・・・」(273、276、279~281)
→この本の原本が出版されたのはもちろん藤原の存命中であり、このくだりは何に拠ったのか定かではありませんが、藤原(、ひいては帝国陸軍の少なからぬ将校達)の当時の心情をほぼ的確に表現していると考えてよいでしょう。
 ただし、1941年半ばの時点では、藤原は、英領のマレーやビルマは訪問していないので、彼が英国を含めた「英、仏、蘭諸国の植民政策」を総括できたはずがありません。
 いずれにせよ、このような評価は、英国に関してはやや厳しすぎると私は思います。
 ちなみに、終戦後、藤原は、「<英>軍情報部から、F<(=藤原のイニシャル(太田))>機関とインド国民軍結成について取調べを受けた。尋問官は藤原の功績をglorious successと評価し、自身経験もなく、人員も不十分なのにもかかわらずそれを成しえた理由を聞きたがった。藤原自身その理由はよくわからなかったが、とにかく自分は誠意を持って彼らに接したんだということと、イギリスの統治に無慈悲なところがあったからではないか、と考えながら説明し」(ウィキペディア上掲)ています。(太田)
 「<バンコックに着任した藤原は、>田村浩<(注22)>大佐・・・タイ駐在武官・・・広島からハワイに移民した日本人の二世で、したがって英語は得意中の得意。陸大卒業後フィリッピンを振り出しに、南方諸国を歩き廻った陸軍きっての南方通・・・<から、>「君は、明石元二郎大将を知っているかね。・・・君のこれからやろうとしていることを経験したのは、日本人多しといえども、この明石元二郎ただ一人だ。誠意の限りをつくす。それで充分ではないかな。たしか君には、奥さんも子供さんもいたね。どうだ?愛しているかね」
「愛しています」
「よろしい。それで君の、この工作を担当する資格は充分だ。その奥さんや子供さんに対する愛。その愛を少々拡げてくれればいいだけなんだよ」
 田村武官は、まるで我子をいつくしむようなまなざしで、こともなげに言った。
「ひろげる?」
「さよう、インド人に、マレー人の上に」」(288、314)
 (注22)1894~1962年。陸士・陸大。中将。俘虜情報局長官。タイ国駐在武官:1936年~42年。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/ta/hiroshimur.html
http://cb1100f.b10.coreserver.jp/collection_1z_11.html
 (駐在武官歴は本文に拠る。) 
→ここも、いつもながら典拠は明らかではありませんが、藤原の心情は、「ひいては帝国陸軍の少なからぬ将校達」の心情でもあった、とすぐ上で私が指摘したことの一つの裏付けとなる箇所です。(太田)
(続く)