太田述正コラム#0141(2003.8.15)
<対朝鮮半島戦略を練る中国(その1)>

 (コラム#140にも、単純ミスがいくつかあり、訂正しておきました。私のホームページ(http://www.ohtan/net)の時事コラム欄でお確かめください。)

 2月の訪中の際、「中国古代史概要一覧図」(南京大学出版社 1997年。中国歴代王朝と歴代の王、皇帝名を記した一枚紙の表。なお、副題でわざわざ「附晩清」と断ってあるところをみると、中国共産党は、清の中期までは古代史という理解か)を入手して帰国したところ、これをきっかけに小学校三年生の息子が中国史に興味を示し、その頃から集英社のマンガ版「中国の歴史」シリーズを読み始め、「日本の歴史」、「世界の歴史」にも手を広げて現在に至っています。
 先般の7月の訪中の際、今度は歴史地図を探したところ、王府井の本屋で一冊だけ発見し、息子へのおみやげに買って帰国しました。「簡明中国歴史地図集」(中国地図出版社 1991年)です。
                                        
さて、8月14日付の産経新聞に、朝鮮半島通として著名な黒田勝弘記者による興味深い記事、「・・・中朝国境地帯から中国大陸にかけて存在した高句麗・・(紀元前37??紀元後668年)の歴史をめぐって、中国が「中国の歴史」に編入しようとする大規模な研究活動を国家的事業として進めていることが最近、明らかになった。「高句麗は韓民族の国家」とする韓国の学界は・・・中国の動きは北朝鮮情勢や朝鮮半島の統一まで念頭においたもので、「統一朝鮮との領土紛争は必至」との考えから「まず歴史を固めておく」との意図があるとして・・・「文化的侵略」「新中華主義」と強く反発している。・・・韓国側は警戒を強めている。・・・歴史再検討を進めているのは、中国の国家機関である中国社会科学院・中国辺境史地研究センター。・・・研究課題には・・・高句麗以前の「古朝鮮」や高句麗以後の「渤海・・・」など韓国側が「韓民族の国家」と主張する地域史の研究や、領土問題に直結する「国際法上の問題に関連する研究」「白頭山をめぐる国境問題に関する研究」なども含まれている。・」が掲載されました(http://www.sankei.co.jp/news/morning/14int001.htm)。
 そこで、前記の歴史地図集を息子から借りて、ページを繰ってみることにしました。
 分かったことは次のとおりです。

 この歴史地図集では、蓁の時代の歴史地図で初めて領域(「国」境線)が表示されるのですが、この時表示されるのは蓁の領域だけです。また、この歴史地図で初めて高句麗とその母国である扶余(http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q026L100.HTM。8月15日アクセス)、及び朝鮮(この頃はいわゆる古朝鮮のうちの衛氏朝鮮)が登場しますが、それは蓁の領域の外に、しかも高句麗、扶余、及び朝鮮の領域は表示されない形での登場です。
ところが前漢(中国では西漢と呼ぶ)の時代になると、前漢の領域内に高句麗が(やはりその境界の表示を伴わないまま)「取り込まれ」ます。同時に、ツングース系、モンゴル系、(漢民族周辺の)トルコ系、さらにはチベット系等の民族の居住地ないし国が領域を伴った形で表示されるようになります。扶余はツングース系の中の国として表示されています。
他方、中華世界の外の民族の居住地ないし国は、地名ないし国名のみが表示され、それぞれの領域は表示されません。
これ以降の歴史地図は、漢民族の歴史地図から中華世界の歴史地図に転換するわけです。
(この作図方針が再び転換するのは清の時代の歴史地図からです。清、中華民国、中華人民共和国の歴史地図では、この三つの国それぞれの領域(国境線)しか表示されなくなります。すなわち、蓁の時代の表示の仕方に戻ったことになります。)
朝鮮半島南部の三韓(辰韓、弁韓、馬韓)は、中華世界の外に位置づけられています。そしてその後継たる新羅、任那、百済も、その三国(地域)を統一した新羅も、そしてその後継国たる高麗も李氏朝鮮(ただ単に「朝鮮」と表示)も、そして日本の植民地時代の朝鮮半島も、現在の朝鮮半島(ただ単に「朝鮮」と表示。首都は平壌のみを表示。この歴史地図集の出版は米韓国交樹立前)も同じく中華世界の外に位置づけられ続けます。
後漢(中国では東漢と呼ぶ)の時代になると、高句麗は、中華世界の中にとどめられてはいますが、ツングース系等の領域内(すなわち扶余と同じ扱いであり、後漢の領域外)に「移」されます。
三国時代、西晋時代、東晋時代、五胡十六国時代(中国では東晋十六国時期ないし十六国時期と呼ぶ)を通して同じ状態が続きます。
 ところが南北朝時代(四つの時代に分けて、歴史地図が出てくる)から隋に至る時代になると、一転、高句麗は中華世界の外、すなわち朝鮮半島の世界の中、に放り出されます。ちょうど朝鮮半島が、高句麗、百済、新羅の三国時代を迎えた頃です。なお、隋の時代の歴史地図には、高句麗に代わって、同国が国名改称した高麗なる表示がなされています。
 唐の時代になると、唐と新羅によって高句麗と百済が滅ぼされますので、高句麗(高麗)は永久に姿を消します。
 しかし、唐時代の三枚目の歴史地図には、中華世界の中に高句麗の後継国家であるツングース系の渤海(http://www.dokidoki.ne.jp/home2/akira16/index5-2.html。8月15日アクセス)が、領域を伴った形で表示されます。
(ちなみに、台湾とカラフトは、前漢から清の一枚目の歴史地図に至るまで、一貫して中華世界の中に表示されています。)

 歴史地図の現物をお示しして説明していないために分かりにくかったかもしれませんが、明らかに、高句麗の取り扱いに関しては、この歴史地図集の考え方には一貫性がありません。もともと高句麗は中華世界の中に位置づけており、かつ、高句麗の遺民が建国し、旧高句麗領をもおおむねその領域とする、高句麗の後継国家たる渤海(前掲サイト)を中華世界の中に位置づけているというのに、朝鮮半島の三国時代以降の高句麗だけを、中華世界の外に置いたのですから。
 任那という、北朝鮮と韓国双方の歴史学界によって存在を否定され、日本の教科書においてももはや使用されていない地域名(http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/0415b.html。8月15日アクセス)を(中国の歴史書に出てくるからか)使うという「無神経さ」があるくせに、中国政府は、北朝鮮に配慮して政治的にこの時期の高句麗を中華世界からはずしたのでしょう。
 高句麗をずっと中華世界にとどめるとどうなるでしょうか。
 高麗の建国者王建は、「自分は高句麗の子孫であるとの意識を持ち、渤海が契丹に滅ぼされると(926)、渤海の遺民を積極的に受け入れ」た(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/73-china33.html。8月15日アクセス)ことが示すように、高麗は、新羅の後継国家であると同時に、高句麗(最終国名は高麗)と(その後継国家たる)渤海の後継国家でもあると言え、そうなると高麗を中華世界に入れてもおかしくなくなります。
 それだけではすみません。
高麗から「禅譲」の形をとって新しい国をおこした李成桂の李氏朝鮮も、彼が朝鮮半島の北端の高麗領域外・・ツングース系の住民の居住地・・の出身(http://www.netlaputa.ne.jp/~sendaya/chosun/ow1.html。8月15日アクセス)であり、建国に当たって国名を二つあげて明に決めてもらった(http://www.d2.dion.ne.jp/~yoo1tae5/koreahistory/koreahistory1.html。8月15日アクセス)ということからすれば、李氏朝鮮は、(室町幕府のような)単なる華夷秩序の中での朝貢関係のレベルではない、文字通りの明(及び後の清)の属国であり、中華世界の中に位置づけられてしかるべきだ、ということになるでしょう。
 そこへもってきて、黒田記者の記事に出てくるように、李氏朝鮮の国名の典拠となった古朝鮮までもが中華世界の中に位置づけられるようになれば、以上の論理は完結するわけです。
(続く)