太田述正コラム#5814(2012.10.30)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その11)/私の現在の事情(続x29)>(2013.2.14公開)
 「目標人物のうちでも”心配なし”と思えるものは、順々にはずしていった。・・・西尾末広<や>・・・香川豊彦<がそうだ。>・・・
 <1943>年の秋になると、最初にマークした人物<うち残ったのは>三分の一になった。なかでも重視されたのが、幣原喜重郎、鳩山一郎、吉田茂、岩淵辰雄、近衛文麿の五人である。・・・
 <その岩淵は後に次のように言っている。>
 「・・・これも後でわかったことだが、吉田邸の女中が居つかなかったの<は>、実は憲兵がおどして、ひまをとらせていたのだ。・・・<岩淵が、>若松町機関の白幡中尉<・・当時は身分も名前も偽っていた・・に>吉田の家の手不足を思い出して・・・告げると、<白幡>は大乗気<になった>。・・・
 後で考えると、・・・世話好きの私のことだから、きっと話は吉田に行くだろうと、彼らは計算していたらしい。こちらは、まんまとその手にのったわけだが、さっそく吉田に電話すると、むろん吉田も大喜びで『ぜひ、至急に廻してくれ』という話<にな>った」・・・
 陸軍は、外交官中でも、特に吉田を曲者とにらんでいた。・・・
 <1936年に>二・二六事件が起こって、広田内閣ができた。広田は・・・吉田を外務大臣にすえようとしたが、軍の反対でだめになった。理由は「吉田は自由主義者だ」というのだが、当時君側の奸とみられていた牧野伸顕の婿という点でも、軍はきらったらしい。・・・
 日独伊三国の防共協定成立は<1937>年で、・・・<その>当時から、日本の枢軸傾斜に反対していた人物が、外務省の大使クラスに三人いた。駐ソの重光葵、駐独の東郷茂徳(しげのり)、駐英の吉田茂である。しかし、東郷や重光<と違ってそれを大声で説き続けたため、>・・・<1939>年3月、吉田は軍の圧力で「依願免官」–つまり、クビになったのだ。・・・
 <さて、>「ヤマ」では・・・石井・・・マキを吉田邸に住み込ませ<ることに成功した。>・・・
 そのころの吉田邸は、女中頭の大谷ひさきが、たった一人だけ残っていた女中の早苗と、書生の志賀幹男を指揮して、家事いっさいを取り仕切っていた。・・・
 石井マキの実家は、・・・<神奈川県の>かなり裕福な農家だったから、・・・<ヤミなので本当はいけないのだが、吉田家のカネで>実家<から>マキ<は>米・・・味噌・・・醤油<を仕入れ、>戦時下の吉田家にとって、欠くべかざる存在となったのである。しかし、いかに農家でも、無尽蔵に食料があるわけではない。そこで「ヤマ」では・・・生活必需品を、ひそかに手をまわしてヤミ値で買いあさり、マキの実家へはこんだ。マキはそれを、買い値よりもぐんと安い、ほとんど公定価すれすれの値段で<吉田家に>持ち込んだから、彼女は吉田家の人々にますます重宝がられ、信用もされたのである。・・・
 そのころ、・・・機関ではさらに・・・書生をも吉田邸に送り込もうとしたのだ。そのために・・・前からいる書生の志賀幹男を追い出<した。>・・・<大がかりな策略を用いたりし、最終的には>召集令状<を出すことによってそれに成功したのだ。>・・・
 <1944>年の1月、・・・<皮肉なことに、「ヤマ」は>電話盗聴<で>・・・女中の早苗が<実は>憲兵・・・隊のスパイである<ことを知ることとなった。>・・」(521~524、526~537、
→ヤマも憲兵隊も、どちらも陸軍省兵務局の所管だったのですから、兵務局長ら同局幹部は、両機関には知らせないまま、まことに念の入ったことに、屋上屋を架す形で吉田茂の偵諜に遺漏なきを期していたことになります。
 畠山が「対象者」中、吉田のことをもっぱら取り上げたのか、保坂が畠山の原著を編集する過程で吉田の部分だけを収録したのかは定かではありませんが、いずれにせよ、戦後吉田が巨大な存在となったことが吉田を詳しく取り上げた背景としてあったことは間違いないでしょう。
 畠山のこのくだりについては、東に、吉田の邪気のない人間性(直後出)とか、(引用しませんでしたが、)吉田も愛国者であったといったことを言わせていますが、東自身が戦後吉田の世話になったこと(後出)や、畠山自身が恐らくは戦後史観的な吉田茂崇拝意識を免れなかったであろうこと等を勘案して、我々は、それらを割り引いて受け止めるべきでしょう。(太田)
 「おそらく・・・東京空襲も間近し・・・<と>見てとったのであろう。・・・5月、<吉田の内妻の>小りん一家は、大磯の吉田別邸に疎開することになったのである。・・・
 <そして、>吉田も月の半分は大磯で暮らすようになったのである。・・・
 そのころマキは、吉田が大磯へ往復するたびに、付添うことになっていた。マキは、吉田を新橋駅まで見送って、乗車をみとどけてから、若松町の機関に連絡し、小田急線で自宅へ帰るのである。そしてそこで、ヤマの工作員たちが、ヤミで買いととのえておいてくれた食糧品を背負って、バスで大磯の別荘へ急ぐという順序だった。・・・
 「シヅさんも、一人で大変ね」
 大磯の別荘を訪れたマキが、<一人で全ての家事をやっていた>・・・小りん一家の女中の清水シヅ・・・に<知り合いを書生にどうかと話をしたのだ。>・・・
 <こうして、>陸軍中野学校・・・第四期戊種<の>・・・東輝次軍曹(当時伍長)・・・<を、1944>年11月29日<に大磯の別荘に送り込んだのである。>・・・
 <1945>年、空襲ははげしくなって、食糧難はいよいよ深刻となった。・・・なんとか自給自足の体制をつくりあげなければならないと考えた東は、暇を見て畑仕事にうちこんだのである。幸いに、吉田家には一段歩(ぶ)(10アール)ほどの畑があった。・・・シヅが耕していたが、もともと農家出の東は、本格的にそれを耕しはじめたのである・・・
 <この頃から、>そのいかにも邪気のない、人間性にふれて、東はしだいに吉田へ心ひかれていくのを覚えたのである。・・・
 <しかし、>東は・・・自分は人間である前に、上官の命のままに動く軍人でなければならないのだ<と自分に言い聞かせた。>・・・
 そのころでは、ほとんど大磯住居になっていた吉田は、たまたま東京に出ると、麻生鉱業の電気自動車を使った。すると、必ず正体不明の怪自動車が尾行してくるのである。それが、一台のときもあるし、二台のこともあった。・・・
 吉田が、大磯へ帰るときも同様で、新橋から汽車に乗ると、折りカバンをかかえ、中折帽に新しい背広服を着た男が二人、見え隠れにつけていた。もちろんこれも憲兵<であることはミエミエだった。>
 憲兵は、吉田といっしょに大磯駅へ降りると、駅付近の旅館へ泊まる。そして夜になると、きまって吉田邸付近をうろつき回るのだ。・・・
 <他方、>これと前後して、機関からも、専属の連絡係の井村(仮名)が大磯に派遣されてきた。井村は、陸軍中野学校を卒業したばかり(第六期生)の若い少尉で、大磯本町のある家の二階を借りて住んだ。・・・
 3月7日<には、ヤマは>工作拠点の大磯進出を<決行した。>その日から、毎日午前8時から午後の5時まで、降っても照っても、道路に面した廊下の椅子に、一時間交代でだれかがすわっては道路を見張っていることになったのである。いつ、東が自転車で通らないとも限らないからであった。・・・吉田から東の手に渡った手紙や書類は、大磯の郵便局で差し出す比較的重要でないものまで、みないちおう写真にとられた。吉田側でも、すでに警戒の目が光っていることは承知していたから、手紙や文書類にもいっさい第三者の名を出さず、その人の住む地名をもって、名前の代用にしていたのである。・・・
 4月・・・15日・・・<、憲兵隊が吉田を大磯で逮捕した。>・・・東部軍軍法会議発行の拘引状の罪名は、「陸軍刑法第99条、軍事上の造言蜚語罪違反容疑」である。」(541~544、546、550、556、559~561、563、569~571、573、575)
→偵諜の実態等がよく分かる箇所なので、引用しました。(太田)
(続く)
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     –私の現在の事情(続x29)–
1 windows 8について
 コラム#5807で「めでたしめでたし」と書いたけれど、その翌日の28日(日)の朝、パソコンを立ち上げてしばらくして、ユーチューブで曲を聴こうとしたらまたもや音が出ないので、再度26日の2416の時点へシステムの復元をかけました。
 その上で、改めて、インストールを求めてくるソフトに注意していると、ロジクールのウェブ・カメラのソフトのアップデートを前回も求められ、ほとんど書いてあることを読まずにアップデートをしていたことに気づき、このアップデートを今回は止めたところ、今度は、パソコンの電源を何度切っても、音が出なくなるという障害は発生しなくなり、ようやく今度こそ本当にめでたしめでたし、ということにありなりました。
 ロジクールのサポートは、そんな障害は初耳だと言っていましたが・・。
 ところが、話はこれで終わりませんでした。
 しばらく前から、私はコラムの「一人題名のない音楽会」等でURLを引用した曲はダウンロードしておくようにしており、そのために、RealPlayer Plusというソフトを大枚4,500円出してオンラインで買って使っていたのですが、windows 7 の時は、(他のブラウザではダメだったのですが)インターネット・エクスプローラー上でこのソフトのダウンロード機能を使えていたのに、windows 8 にアップデートしてからは、ChromeやFirefoxはもとより、インターネット・エクスプローラー上でも使えなくなってしまったのです。
 そこで、windows 7 の入っている旧メイン・パソコン、及び、やはりwindows 7 の入っている携帯パソコンでもやってみたのですが、同じ結果でした。
 いよいよ頭に来て、Vistaの入っている古い携帯パソコンでやってみてもダメで、最後にwindowsXP の入っている古い古いパソコンで、ようやくインターネット・エクスプローラー上でだけ成功しました。
 これらをRealPlayerのサポートにメールで伝えたところ、一日半で返事が来て、windows 8 添付のインターネット・エクスプローラー10ではダメだけれど、(windows 8 に限らず、windows 7 でも)ChromeとFirefoxの設定を変えることで、ダウンロードが可能になるとし、その方法を教えてくれたので、その通りを現在のメインのパソコンでやってみたら、うまく行きました。
 (Chromeの設定の変更の仕方はややこしくて教わらなければできなかったけれど、Firefoxの方は、自分でもう少し考えればできたのに、と反省しきりです。)
 ところで、私が申し上げたいのは、既に持っているパソコンをwindows 8 へアップグレードをするのは落とし穴こそ一杯あるけれど、それでもこのアップグレードはお勧めだ、ということです。
 もとより、windows 8 がインストールされた新しいパソコン・・タッチパネル機能の付いたディスプレイ付のものならなおよい・・を購入されるのなら言うことはありません。
 決定的なのは、(windows 7 に比べても)起動が速く、待ち時間がほとんどないことです。
 そのおかげで、これまで日中はつけっぱなしだったパソコンの電源を、頻繁に切るようになりました。
2 加湿器について
 急に寒くなってきたので、暖房を入れる日も遠くないと思い、28日、加湿器を買おうと思い立ちました。
 どうして、旧宅から加湿器を持ってこなかったのかと言えば、持っていなかったからです。
 (実は、一昨年に古い加湿器(加熱式のバカチョン方式)が壊れてしまい、経費節約のため、この前の冬は、洗面器に水を張り、ぞうきんをこの洗面器に入れてその端を外に出しておくことで、蒸発を活発化させ、しのいだのです。
 ただ、この方法では、十分湿度が上がらないし、時々、ぞうきんの端を出し過ぎて、床が水浸しになったりしました。)
 そこで、ヨドバシカメラの通販で買おうと思って、加湿器の画面を開いてみたのですが、最近では、加熱式や超音波式に加えてハイブリッド式もあって、どれを選んでよいか、分からなくなってしまったので、昨29日に、大森駅近くの1000円理髪店に行きがてら、ダイシン・デパートの電気製品売場に足を運んだのです。
 適当な製品があったらここで、即買うつもりだったのですが、店員が各方式の違いを説明してくれ、ハイブリッド方式を勧めた上で、シーズンはこれからなので、まだ仕入れている製品の種類が少ないので、購入は先送りにした方がよいとのことだったので、手ぶらで帰宅しました。
 しかし、帰ってから、やっぱりすぐ購入しようと思い直し、ヨドバシカメラの通販で(ハイブリッド式の)シャープ製の製品を購入したのです。
 そうしたら、本日の0930にはもうこの製品が届き、ご承知のように、格別に冷え込んだ日でもあったので、さっそく、パソコン部屋の空調機を暖房モードで運転を開始するとともに、この製品にも給水した上でスイッチを入れました。
 蒸気が全く目に見えないのにもびっくりしたけれど、部屋の反対の隅に置いてあった湿度計の数値が上がらないのでやきもきし、この加湿器の近くに湿度計を持って行ったところ、上がったので一安心しました。
 ところで、現在、パソコン部屋では、空気清浄機と加湿器が並んで稼働しており、一階のピアノ部屋には除湿器があって稼働しています。
 将来、加湿と除湿を兼ねる製品ができないものかと思いますね。そうすれば、一台で、一年中、同じ湿度に保てることになります。
 更に、その一台に空気清浄機能もついていればどんなに素晴らしいことか。
 (ちなみに、私が買ったシャープの加湿器には除菌機能が付いています。)
 こういう製品ができない理由はどこにあるのか、どなたか教えていただけないですかね。