太田述正コラム#5846(2012.11.15)
<ジェファーソンの醜さ(その9)>(2013.3.2公開)
 (8)締め括り総括
 「・・・これまで、学者達は、ジェファーソンのものの考え方に関してカネを中心に置くことは決してなかった。
 カネというのは、まったくもって有毒な代物だ。
 奴隷達はカネを意味するものになったのだ。
 ジェファーソンは、奴隷達をそのように用いたのだ。 
 彼は、システムの中に「とらわれた(stuck)」わけではなかった。
 彼は、カネが儲かるから、奴隷制を永続させたのだ。・・・
 しかし、それでも、奴隷制についてあからさまにする(present)のははばかられた。
 だから、奴隷制の本当に醜い部分は語られることはなかった。
 しかし、それは諸記録の中に残っているのだ。・・・」(D)
 「・・・ジェファーソンは訓練を受けて法律家になった人物だが、自分が奴隷制に反対していて奴隷解放に好意を抱いているように描くために彼の交信を注意深く演出した(curated)。
 ウィーンセックは、奴隷制について質問した人々に対するジェファーソンの「ぼやけた(soft)」諸回答・・状況が適切となった、特定されることのない「未来」のいつかの時点における奴隷解放を示唆するもの・・を記す。
 しかし、巨大な力と影響力を持っていたにもかかわらず、ジェファーソンは、自分の生涯において奴隷制を実際に終わらせるためにほとんど何もしなかった。
 事実は、奴隷制は、彼の富と繁栄の源だったのだ。
 彼は、数百人にのぼる彼の奴隷達が、彼のために稼ぐ利益を計算し、日常的に児童達を打擲した彼の職長達の過酷な監督下で、釘づくりや布織りのために児童達を働かせることさえした。
 奴隷たる児童達は、売られたり贈り物として差し出されたりしたし、奴隷達の婚姻関係は、配偶者の片方が売られたり遠方に移されたりすると破壊されたのだ。・・・
 ウィーンセックは、ワシントンが行ったところの、<遺言による彼の>奴隷の解放は、原理原則を重んじると主張する者はこれらの原理原則に拠って生きなければならないことを要求したところの、恐らく、余りにも際立った範例であった、と示唆する。
 極めて明白にも、我らが若き共和国<たる米国>は、<ワシントンが彼の奴隷について行ったような>奴隷解放を<全奴隷について>行わなかったのであり、これは我々の国の創建における永久の汚点だ。
 ジェファーソンは、より複雑な妥協<の例>を提供している。
 よりよい未来に関する高邁な修辞と諸約束でもって過酷な不正義を隠すという・・。
 これは、米国がその建国にあたってやったことそのものだ、と言われても致し方あるまい。・・・」(I)
 「・・・情け容赦ない奴隷所有者なのか、それとも、優雅に起草された米独立宣言でもって歴史を形成した、偉大なる米大統領にして理念の男なのか、一体、どちらのトーマス・ジェファーソンについてあなたは読もうと思うのか?
 あなたの求めているのが後者<のジェファーソン>だとすれば、ジョン・ミーチャム(Jon Meacham)の『トーマス・ジェファーソン–力の技(Thomas Jefferson: The Art of Power)』が読むべき本だ。
 本当の真実は、この2冊の本の間の奈辺かに存在しているのだろう。・・・」(H)
→この書評子は、一見、ウィーンセックを非難するゴードン=リードらよりはまとものように思われるかもしれません。
 しかし、政治家は、抱いた理念によってでなく、その理念をどの程度実行できたかで評価されるべきであって、平等なる理念を標榜したジェファーソンは、この理念を(最も実行し易いはずの自分の奴隷の解放を含め、)全く実行しようとしなかったに等しい以上、少なくともこの点に関しては、政治家として失格であったということになります。
 更に言えば、平等に背を向けたジェファーソン、そして奴隷制を事実上是認したジェファーソンは、自由についても民主主義についても語る資格などない、というべきであり、彼は、「この点に関して」どころか、およそ、自由民主主義的国家における政治家と呼ばれるにふさわしくないところの、理念なき人物、すなわち、ビジネスにおいてカネの亡者であっただけでなく、政治においても権力の亡者たる政治屋であった、と断定せざるをえないのです。
 要するに、両者を足して割るようなことは不可能なのであって、この書評子は、前者のジェファーソンか後者のジェファーソンか、そのどちらかを選ばなければならなかったのです。
 それをやらずに逃げたこの書評子は、まさにジェファーソンそっくりの卑怯な人間である、と言われても致し方ありますまい。(太田)
 「・・・ウィーンセックが描写するところからして、年をとったジェファーソンは、昨今の<超大金持ちたる、所得の上位>1%連中(1-percenter)そっくりであり、モンティセロの豪華な屋敷と大農園をつくってはまたつくり、リスキーな金銭的投機を行い、(その最も高価なものがたまたま人間であったところの)財産を抵当に入れ、冷徹に自分の投資に対する収益を計算し、かかる事業を運営するために必要な汚い仕事をする媒介者を徴募した。
 その上で、彼は、この一切合財を、自由についての大げさにしてやたら難解な言葉でもって蔽い隠し、時たま自分が所有していた人々<、つまりは奴隷達>の苦境は自分で招いたことであると<彼らを>非難するという堕落に身を窶し(stoop)た。・・・
 ジェファーソンは、伝統的に、原理原則の人だったけれど彼が嘆いていたシステム<たる奴隷制>から彼自身を抜け出させることができなかった、と描写されてきた。
 彼が、この新しい国を奴隷解放に近づけることに失敗したのは、「時」がまだその準備ができていなかったからだ、と話は続く。
 彼が自分の奴隷達を自由にすることに失敗したのは、それがヴァージニア州法違反だったからだとか、実行不可能であったからだとか、単に、彼の借金やモンティセロのような素晴らしい白人屋敷を切り盛りしていく財政的困難さからしてカネが不足していたからだとか・・。
 彼は、奴隷達によって利益をあげていたどころか、彼の奴隷達は彼が担っていた重荷であって、家父長主義的な過剰な配慮から彼が引き受けたところの費用に見合った効果のない義務であった、と主張した。
 この伝説によれば、ジェファーソンは、彼の奴隷達を親切に扱い、鞭の使用を禁じ、彼が創造した小さな聖域の内側において、全員から敬意をもって見上げられていた、ということになっている。
(続く)