太田述正コラム#5848(2012.11.16)
<ジェファーソンの醜さ(その10)>(2013.3.3公開)
 ウィーンセックは、この絵柄を効果的にぶち壊した。
 ただし、どうやら、<奴隷の間でのジェファーソンに対する>ほんのちょっとの敬意だけはぶち壊せなかったようだ。
 ジェファーソンの奴隷の一部は逃亡を企てたが、残りは<彼に対して>深甚なる忠誠心を抱いていた<のは事実だからだ>。
 (サリーと同じく、ジェファーソンとのその親族達が所有していたところの、いくつかの拡大家族<たる奴隷>であった)マーチン(Martin)・ヘミングスが、米独立戦争の際に、英国の兵士が彼の胸にピストルを突き付けた時でさえ、彼のご主人の場所を明かすのを拒否したことはよく知られている。
 <その>マーチン・ヘミングスに関する記録された最後の言及は、ジェファーソンが彼の娘に宛てて書いた手紙の中で行われている。
 この建国の父は、彼をかくも勇敢に守った男を、より多くの資金を集める努力の一環として、四輪馬車とともに、「処分する」二つの品目の一つにリストアップしたのだ。
 鞭に関しては、ジェファーソン自身が、婉曲に、奴隷の中には、「相応の仕事をさせるためにしつけという力の行使が必要な者がいる」ことを認めている。
 その<対象となった>人々の中には、10、11、12歳の少年もおり、彼らは、この大農園の白人世帯の年間食糧雑貨経費を賄うに足りる、結構な額たる年2,000ドルの収入をもたらしたところの、釘工場で労働することを強いられなければならなかった。
 ジェファーソンは、「諍いが大嫌いで、人々を罰さなければならないことを好まなかったことから、彼のシステムが必要とした暴力から自分自身を遠ざけるいくつかの方法を見つけていた」とウィーンセックは記す。
 彼の不幸な(とういうよりひどい精神的苦痛を経験した)義理の息子のトーマス・マン・ランドルフは、普段、この偉大なる男の、この部門における雑用係として動いていた。
 1950年代に、一人の歴史家がランドルフからジェファーソン宛ての報告書を発見したが、それには、モンティセロでは児童達が鞭打たれていた旨の言及があったところ、この資料の存在は伏せられた。
 (ランドルフは、これらの経験が余りにもいやだったので、自分の土地からは、鞭を追放した。)・・・
 ジェファーソンは、<奴隷解放に関する>このやる気のなさを、米独立への国際的支援者達に説明するのに苦慮して、正当化<する試み>を色々やっている。
 とりわけ、決定的に重要なフランスの親米派は、ウィーンセック言うところの、「米独立革命の諸理念は実際に何らかの意味を持っている」ことを信じていた人々によって構成されていた<のだから・・>。
 ジェファーソンの戦略は、ごまかしながら失速させる(placate and stall)というものだった。
 ある時には、彼は、奴隷廃止は間もなくだと仄めかし、またある時には、どうしてそれが先に延ばされなければならないかを詳述した。
 南部の大農園主達の「民心(public sentiment)」が、まずその観念に到達する(come around)必要があると(<あたかも>いつかは<必ず>そうなるかのように)彼は言い張ったかと思えば、まるで無思慮な子供のようで、働いたり将来について計画を立てるすることについて信頼が置けないと彼が主張したところの、黒人達自身のこと<に言及したりした。>
 1770年に自由にされた「一群の怠惰で無価値な黒んぼ達」に係るクエーカー教徒による実験のみじめな諸結果を指摘した<こともある>。
 本当のところは、これを含め、小規模の奴隷解放は、全て目覚ましい成功を収めたのであって、自由な黒人達の平和にして生産的な諸地域社会、という結果がもたらされたのだった。
 ウィーンセックは、奴隷制とアフリカ系米国人達に関するジェファーソンの諸言明でウソとしか言いようがないもののたくさんの事例を挙げている。
 ジェファーソンは、モンティセロで奴隷達が既にやっていたのであるからして、黒人達が市場性のある技術を学ぶことも自活することもできることを十分知っていた。
 <彼が>贔屓にした奴隷達は、練達の大工、鍛冶、料理人となり、その貴重な役務を、部屋と食事をあてがうだけの費用で、ジェファーソン一家は享受した。
 (胸糞が悪くなるジレンマ状態だが、これらの働き手が自分の専門の腕を上げれば上げるほど、彼らの白人のご主人達は彼らを自由にするインセンティブが薄れる。)
 農場奴隷達は極めてわずかな配給しかもらえなかったので、彼らは自分達にあてがわれた狭い土地で自分達の食糧を育くまなければならなかった。
 彼らは余剰を生み出すことに成功し、それを母屋<たるジェファーソン家>に売った。
 これらの、<ジェファーソンが>称するところの、無責任で無規律な人々の中から、<彼が>モンティセロで重要な管理的責務を託した人物達が選ばれたわけだ。・・・
 要するに、我々は、我々の最も鼓吹的な政治的諸業績のいくつかについての著者が、利己的な偽善者で<あるはず>はない、と我々自身を説得しようと試みるのだ。
 しかし、この『The Master of the Mountain』の中で提供される潤沢な証拠を踏まえれば、今や、彼をそれ以外の存在と見ることは不可能になったと言えよう。」(L)
(続く)