太田述正コラム#5850(2012.11.17)
<ジェファーソンの醜さ(その11)>(2013.3.4公開)
3 終わりに代えて
 大方言いたいことは言ってしまったこともあり、ジェファーソンに関する「中立」的な伝記たる、前出のジョン・ミーチャム(Jon Meacham)の新著『トーマス・ジェファーソン–力の技(Thomas Jefferson: The Art of Power)』の書評・・ざっと目についたものに限る・・からの引用にほんのちょっと私のコメントを付けることで、本シリーズを閉じたいと思います。
α:http://www.washingtonpost.com/opinions/thomas-jefferson-the-art-of-power-by-jon-meacham/2012/11/09/7f09e134-1ebe-11e2-9cd5-b55c38388962_print.html
(11月10日アクセス)
β:http://www.nytimes.com/2012/11/11/books/review/thomas-jefferson-the-art-of-power-by-jon-meacham.html?hpw&_r=0&pagewanted=all
(11月11日アクセス)
γ:http://www.csmonitor.com/layout/set/print/Books/Book-Reviews/2012/1113/Thomas-Jefferson
(11月14日アクセス)
 意外なことに、・・いや意外でも何でもありませんが、・・この3つの書評中で、ほぼ同時に上梓されたというのに、ウィーンセックの本への言及を全く見出すことができません。
 そもそも、NYタイムスとCSMは、ウィーンセックの方の本の書評を掲載していません。
 NYタイムスとCSMの正体見たり、という感があります。
 以下は、ジェファーソンを誉めそやしている部分や既出の部分は除いて抽出したものであることをお断りしておきます。
 「・・・<1843年に>ポール・レスター・フォード(Paul Leicester Ford)・・・は、南北戦争後のジェファーソンの評判が最低になった頃、・・・彼について言われたあらゆる汚いことを再度記し、<自分の本の>読者達に対し、この人物は、「彼の最も入れ込んだ信者達」が困惑するほどの「偽善者、機会主義者」であって、「矛盾と不安定」の塊である、と語った。
 自分自身は<ジェファーソンの>入れ込んだ信者ではないとしつつ、フォードは、<そんな>ジェファーソンが成功した理由を説明するのに苦慮し、人々がある種微妙な方法で彼のことを理解しており、彼の操作的(controlling)な狙いは民族の独立でも国家主権でもなく、むしろ人々のために「個人的自由という恒久的特権を」確保することであることに気付いた<からだ>、ということを最終的に認めた。・・・
→もともとは、米国の人々はジェファーソンを、それなりに正しく評価していたことが分かります。(太田)
 ・・・<ところが、>民主党がジェファーソンを同党の創立者と主張するのに熱心になり、1943年に、ジェファーソン200年記念委員会(Jefferson Bicentennial Commission)を設立し、彼の生誕200年を祝い、首都でジェファーソン記念碑起工式を敢行した。
 ジェファーソンが明瞭に表現した民主主義的諸理念が米国の戦争努力の背後の目標となったのだ。・・・
→まさに、偏見と無知の人種主義的帝国主義国として、有色人種国たる自由民主主義的日本帝国に自国への開戦を強い、同帝国を解体させた米国にとって、ジェファーソンは、・・この時、彼を顕彰した人々がそのように自覚していたか否かにかかわらず・・この上もなくふさわしい象徴たる人物であった、と言うべきでしょう。(太田)
 ヘミングスについては、1998年にDNAテスト<(前出)>によって、ジェファーソンの家族が彼女の最後の子供であるところの、1808年に生まれたエストン(Eston)の父親であることが分かった。
 <そもそも、>もう1人の息子であるマディソン・ヘミングス(Madison Hemings)は、老年の時のインタビューにおいて、彼の母親が、ジェファーソンが、彼がフランス駐箚公使であった時に<自分が>身籠った1人を含め、彼女の子供達全員の父親だと言ったと語っている。・・・」(α)
 「・・・ミーチャムは、・・・ジェファーソンは、自身を、他人が思っているような哲学者や夢想家ではなく、「政治的動物であると見ていた」、と観察する。
 ・・・<実際、例えば、>ジェファーソンは、繰り返し、敵に接近し、イデオロギー的柔軟性を示したものだ。・・・
→これは、普通の政治屋の行動様式です。(太田)
 <ところで、>ジェファーソンは、米独立戦争中、ヴァージニア州知事という最初の行政的地位にあったが、それは不面目に近い形で終わっている。
 英軍部隊が押し寄せてきた時、ジェファーソンは、モンティセロに逃げ、義務の放棄と怯懦という非難を浴びたのだ。
 彼は罪こそ免れたけれど、この挿話は、彼に何年も憑りつい<て苦しめ>た。・・・
→この卑怯な小心者こそ、ジェファーソンの真の姿でしょうね。(太田)
 「奴隷制は、ジェファーソンの現実主義の感覚が、改革の大義への奉仕に係る希望の感覚に基づいて先導する(marshal)ことを引き留めた案件だった。」・・・
 ジェファーソンは、自分の生活様式を犠牲にしたくなかった一方、彼に特徴的なことだが、実行可能性に係る主観的標準を導入することによる修辞的逃げ道を自分自身に残した」、とミーチャムは観察する。
 実際問題、彼の奴隷達は、彼の最も貴重な所有物だった。
 <しかし、>彼は、同時に、奴隷解放が人種戦争を引き起こすであろうと信じていた。
 唯一の解決法は、自由になった黒人達を他国に亡命させることだった。
 <このような>・・・奴隷制正当化・・・の理由ないし言い訳は、彼だけのものではなかった。
 リンカーンも、奴隷問題の実行可能な解決法として外国に移すことを考慮していた<のだから・・>。・・・」(β)
→要するに、建国前から20世紀半ばに至るまで、米国の政治的指導者は、その大部分が人種主義者であったのであり、その中にはジェファーソンのようなひどい人種主義者とワシントンやリンカーンのような普通の人種主義者がいたというだけだ、ということです。(太田)
 「・・・ジェファーソンは、何か国語もしゃべり、ヴァイオリンを弾き、自分の家を設計した。・・・
→どうやら、ジェファーソンは、IQは高かったようであり、だからこそ悪賢かったのだろう、ということが分かります。(太田)
 ・・・ジェファーソンの共和党(Republicans)は今日の民主党(Democratic Party)であって、<与党の>フェデラリスト(Republicans)<に挑戦していたところ、>・・・彼が<現職>大統領のジョン・アダムスに1800年の選挙で勝利を収めた時、最初の権力の移行はいつもアブナイものだが、<新しく就任した>ジェファーソン大統領は、他の党が取って代わり、この国を2任期の間切り盛りし、若干の物事を変え、残りのものを維持しても、世界が滅茶苦茶になることはないことを鷹揚に(masterfully)示した。・・・
→建国の父達の間の政権のたらい回しなのですから、「世界が滅茶苦茶になる」恐れなど最初からなかったはずです。
 そもそも、英国から、理不尽な理由で独立することを首謀した同じ穴の狢が建国の父達なのですからね。(太田)
 ・・・<米国が独立宣言を行った>1776年には、彼の国にとって最善なことのために、彼は自分の生命と財産の全てを危険に晒すことを厭わず、また、彼の大統領時代には、国は繁栄したけれど彼は次第にかなりの程度貧しくなった。・・・」(γ)
→彼が若干なりとも貧しくなったとすれば、それは、彼の留守中にモンティセロの家産の管理をした人々が、彼ほど「経済合理的」に奴隷達を扱えなかったからに過ぎないのではないでしょうか。
 結局のところ、ジェファーソンの「偉大」さは、米独立宣言の平等条項というフィクションを創作した著述家、という一点だけに存するようですね。(太田)
(完)