太田述正コラム#5862(2012.11.23)
<ジェファーソンの醜さ(続)>(2013.3.10公開)
1 始めに
 表記のシリーズの中で、二人の女性教授によるウィーンセック批判の一部を紹介しましたが、ウィーンセックによって、この二人に対して反論が行われた↓
http://www.smithsonianmag.com/history-archaeology/Henry-Wiencek-Responds-to-His-Critics-179166141.html?c=y&page=1
(11月22日アクセス)ので、その内容をかいつまんでご披露させていただきます。
2 ウィーンセックによる反論
 「・・・ジャン・エレン・ルイス(Jan Ellen Lewis)教授は、米独立革命直後に「ヴァージニアでは奴隷制の継続を非合法化するに近いところまで行った」との私の言明に鋭く疑問を呈した。
 私は、この言明を確かな典拠に基づいて行った。
 私は、ジョージ・メースン(George Mason)の手によるヴァージニア権利宣言案「すべての人間は平等に自由で独立していて、いかなる協約(Compact)によっても奪ったり子孫から剥奪したりすることのできないところの、特定の生来の自然諸権利を持っている。」を引用した。
 私は、著名な学者であるエヴァ・シェファード・ウルフ(Eva Sheppard Wolf)も引用した。
 「いくつもの革命時代のヴァージニアの法は、全面的奴隷解放へと導いたかもしれないところの、反奴隷制諸政策へ向けた移行を示しているように見えた。」
 ウルフは、何人かの歴史家が「18世紀末に米国の奴隷制を終わらせる可能性のあったいくつかの動き(indications)を見ている」、とも記している。
 このリベラルな感情の高まりは長くは続かなかったけれど、ヴァージニアが極めてリベラルな奴隷解放(manumission)法を1782年に採択したことは銘記すべきだ。この法に拠ってジェファーソンは奴隷達を自由にすることができたからだ。・・・
 <さて、>アネット・ゴードン=リード(Annette Gordon-Reed)教授・・・の最も重要なポイントは、私が私の本の中で、大農園の黒人達の毎年の増加を計算し、それを諸利益の一部として勘定するところの、ジェファーソンの「4%定理」ないし「公式」と呼んだもの、に関わっている。
 彼女はそんなものは存在しなかったと述べた。・・・
 しかし、「利益と損失」メモの真ん中あたりにジェファーソンが書いた文章がある。
 「私は、<奴隷に関し、彼らの>死による損失どころか、その反対に、現在、自慢じゃないが、彼らの自分達の数を超えた増加<による利益>を毎年4%<分、享受している>」、と。
 この意味は完全に明らかだ。
 <その一方で、>他の箇所では、ゴードン=リードは、この公式が存在したことを認め、しかし、私が思ったような意味ではなかったと主張した。
 「ウィーンセックが呼ぶところの、「4%定理」ないし「公式」については、ジェファーソンは、彼のモンティセロでの奴隷達のことを述べたのではなく、ヴァージニアの農園群一般について述べたのだ」、と。
 このご託宣は私に首をひねらせた(gave me pause)。
 仮にゴードン=リードが正しいとするならば、早くも1792年の時点で、ジェファーソンは、彼の孫息子のジェフ・ランドルフがその40年後に弾劾することとなる「奴隷達を市場で売るために育てるという習わし、すなわち、ヴァージニアの一部の各所で次第に増加しつつある習わし」であるところの、「利益の部門(branch)」に、ヴァージニアの奴隷所有者達の全員ないし大部分が既に参画していることを見ていた、ということになるからだ。
 ランドルフは、ヴァージニアが、「一つの巨大な家畜園(menagerie)に改造されてしまった」と述べたものだ。
 しかし、私は、ジェファーソンがそんなことが念頭にあったとは思わないし、今なお、彼がモンティセロでの出生率とそれに係る利益だけに言及していた、と考えている。
 「私は、事実については、自分が回想する記憶だけにしか拠ることができない」と彼はこの計算を説明した手紙の中で後に記しているからだ。
 ここに、(ゴードン=リードによって言及されていない)ジェファーソンによるもう一つの言明がある。
 彼は、1794年に、財政的苦境に陥った一人の知人に対して、「黒んぼに投資すべきだった」し、彼の家族にカネの余裕があれば、「そのことごとくを土地と黒んぼ<の購入>に費やす[べきであり、]現在<彼らから>得られる支援に加えて、彼らの価値の増加によって<、彼らは>この国では5から10%の利益を黙っていてももたらしてくれる」と記した。
 これらの見解を踏まえれば、ゴードン=リードが、ジェファーソンが「奴隷の女性達の赤ん坊達が自分の資本を増加させてくれるとの…ひらめきを抱かなかった」ことに固執するのかはどうしてかを理解することは困難だ。
 4%公式も、ジェファーソンによる黒んぼに投資せよとの無神経な助言も、自分以外のジェファーソンについての著述家の誰も、・・ゴードン=リードは、彼女による書評の中で、「この本の中のあらゆる重要な話は他者によって既に語られている」と主張したにも関わらず、彼女も、・・言及することはなかった、ということを言っておくべきだろう。
 法学教授たるゴードン=リードは、コシューシコの遺言の悲劇的運命がいささかお気に召したようであり、不適切な話でもって陪審員達をまごつかせたかもしれない。
 簡潔に言おう。
 遺言の中で、タデウス・コシューシコは、ジェファーソンにその奴隷達を自由にするための大きな額のカネを残した。
 (「ジェファーソン氏よ、お願いだから」その奴隷達を自由にし、彼らに土地を与えて欲しい、と彼は記した。)
 ジェファーソンは、この遺言を実行することを拒否した。
 ゴードン=リードのスタンスは、この遺言は致命的に欠陥があったので論ずるに値しないというものだ。
 しかし、ジェファーソンの孫息子はそうは考えていなかった。
 トーマス・ジェファーソンが1826年に亡くなってからわずか数か月の後、ジェフ・ランドルフは、「ジェファーソン氏によって残された奴隷達のうちの若干を、彼の債権者達による売却から守るために」、コシューシコの遺贈を復活(revive)させようと試みている。
 ジェフ・ランドルフは、ゴードン=リードが陰気に喚起したところの、いかなる潜在的金銭的リスクによっても抑止されることはなかったわけだ。
 更に、トーマス・ジェファーソン自身、この遺言は有効だと思っていた。
 ジェフ・ランドルフが1826年に奴隷達を救う件について、この遺言の管理人たるベンジャミン・L・リア(Benjamin L. Lear)に照会した際、彼は、「本件についてジェファーソン氏とモンティセロで約3年前に話をしたが、彼はその時私が提案した計画に対して、頗る付きに心から同意した」、と返答している。
 その計画とは、ジェファーソンはこの遺贈は完全に有効だと思っていたけれど、自分の極めて貴重な奴隷達を手放すことには何の関心も持っていなかったところ、モンティセロのではなく、他のどこかからの奴隷を自由にするというものだった。・・・」
3 終わりに
 ウィーンセックの完全勝利ですね。
 (ジャン・エレン・ルイスはさておき、)ここまで、ゴードン=リードの、わが身可愛さが故の不誠実な対応が明らかになると、遡って、彼女の主著とも言うべき『モンティセロのヘミングス一家–ある米国の家族!(The Hemingses of Monticello: An American Family!)』に2009年に与えられた、歴史分野に係るピュリッツァー賞(他15の賞)
http://en.wikipedia.org/wiki/Annette_Gordon-Reed
の鼎の軽重が問われなければならなくなってくるのではないでしょうか。
 黒人の女性が、(全員、白人とみまがうばかりではあったけれど、)黒人奴隷たるヘミングス一家を通じてジェファーソンと奴隷達の麗しい関係をメーキングして描いた、フィクションに近い歴史書を上梓し、それを(恐らくは大部分が白人たる各賞の)選考委員達が、(内容について様々な点に目をつぶって、)ゴードン=リードは温順なる愛い「黒人」「女」であるわいと、あえて大甘の賞を次々に授与した、という醜悪な関係がそこから透けて見えてきます。
 人種主義国家たる米国の業の深さには底知れぬものがある、と改めて思い知らされた次第です。